ep3 わたしはその老女を警戒している。無理もない

 午前中の日差しに当てられて、足元を覆っていた雪が溶けていった。

 麗奈は少し悲しい気持ちになった。中途半端に雪が溶けていくおかげで、掃いていたスニーカーが濡れてびしょびしょになっていた。

 さらにぬかるんだ地面が、綺麗だったはずのスニーカーを土色に染めていく。


「なんで見渡す限り何もないのよ。おまけに、ゴミばっかりで歩きにくいし」

 多少の起伏はあるものの、ほぼ平地だった。時折、魔法で穿たれたクレーターを迂回しながら麗奈は歩き続けた。

 戦場は広範囲にわたっていたようで、進む先のあちこちに鎧兜、武器が散らばっていた。あえて死体は見ないふりをした。無理だもん。


 そういえば、一緒に日本から来て残っているのは、今履いているスニーカーだけだ。手に持っていた鞄とガラケーは、エルフの集落に行ったときにクローゼットに置いてきた。

 ある程度整理しながら、あの集落を使おうと思っていたけれど、完全に当てが外れたな。さすがに毒が浄化できないと、あんなところに住めないよね。もちろん、鞄とガラケーを取りにも行けない。


「わたしって、どこに向かっているんだろう……」

 ただひたすら、まっすぐに歩いていた。景色はほとんど変わらない。

 二時間ほど歩いただろうか、やがて大きな川に辿り着いた。麗奈はその場で立ちすくんだ。


「なんだろう、川に鰐がいるように見えるよ?」

 悠然と群れを成して、川の中に浮かんでいるのは、鰐だった。いや、若干鰐とは違う出で立ちにも見える。口が短くて首が長い。体の色は緑色っぽいのに違いはないけれど、尻尾も長いように見える。

 そのまま、河原に腰を下ろした。


 対岸を何の気なしに眺めていると、水辺の茂みから緑色の人が数人現れた。手にはそれぞれに槍のような物を持っている。その緑色の人はもう一度水に潜ると、ゆっくりと鰐の方に向かって泳ぎ始めた。

「えっ、トカゲの頭?」

 膝を抱えて見ていた麗奈は、緑色の人が川の中程まで来たところで、その頭が人間の物と違うことに気がついた。思わず声が出て、ハッとなって慌てて口に手を当てた。


 鰐が首をあげて周りを確認して、そのまま川の中に沈んでいく。緑色の人たちの動きもそこで止まった。水面から出て、ゆっくりと周りを見回して、麗奈の方を見て動きが止まった。


 ……待って。もしかして狙いを付けられた?

 やばい。やばいやばい。逃げなきゃ、早く!


 転がるように川上に向かって駆けだした。足がもつれて、何度も手をつきながら必死に駆けだした。

 ザシュッ、という音とともに今まで麗奈がいた場所に槍が刺さった。音だけでわかる。絶対に逃げないと、命が危ない。


 ちらっと横目で見ると、緑色の人たちが川を泳ぎながら麗奈の方に向かってくる。

「ひっ……」

 投げられた槍が、麗奈の少し前の地面に突き刺さる。それでも、麗奈は駆け続けた。

 しばらく走って追撃が止んだ頃になって、ずっと川辺を走っていたことに気がついて、慌てて川から離れた。それでも怖くてさらに必死で走り続けて、森が見えたところでやっと速度を落として止まった。


 大きく息をつく。

 なんでだろう、すごく長い距離を全力で走ったのに、息切れ一つしていない。体は少し疲れたけれど、その程度だった。不思議な感覚。

 周りを見回して、草原の草以外に何もないことだけ確認して、森の方を警戒しながらその場にへたり込んだ。


「おなか……すいたな……」

 空を見上げると、青い空に白い雲が浮かんでいた。やっぱり、涙が溢れてきた。

 覚悟したつもりでも、やっぱり覚悟できていない。相変わらず、麗奈には逃げることしかできない。川辺で緑色の人に襲われても、必死で走ることしか出来なかった。

 そう言えば、物語で読んだリザードマンに似ていたのかな。あの物語だと、主人公がリザードマンとお話しできていたと思う。けど、あのリザードマンとは、とてもじゃないけどお話しができそうになかった。


 少し落ち着いたので、前に広がる森を観察してみる。

 けっこう大きな森だ。うっそうと茂っていて、とてもじゃないけど中に入ろうとは思えない。でも逆に、人の手が入っていないその森になら、なにか食べ物があるような気がする。

 麗奈のお腹がクーッと鳴った。知ってるよ、お腹すいているもん。そんなに主張したって、ない物はないよ。


 左を見ると、かなり向こうで森が切れている。あっちは、さっきリザードマンがいた川がある方向だ。川を思い出して、喉が渇いていることに気がついた。そう言えば、水すら飲んでいない。

 右を見ると、同じように森が遠くまで続いていて……家が見えた。すっごく遠い場所にあるけれど、間違いなく家だ。


 気持ちがその家に行きかけて、麗奈はかぶりを振った。

 無理だよ、無理。この世界の人間なんて、基本的に信用ならない。平気で人を殺しているし、いつ自分が殺されるか分からない。

 一撃で命を散らすならまだいい。じわりじわりやられたら、さすがの麗奈も精神的に持たないと思う。



 そんなことを考えていたら、いつの間にかその家の前まで来ていた。

 麗奈は唖然とした。

 何でわたし、ここにいるの?


 木造のこぢんまりとした家だった。壁には漆喰が塗られていて、屋根には瓦が乗っていた。何となく見たことがあるような建物……テレビで見た、日本の田舎にある家がこんな感じだったか。

 視線を動かすと家の横には縁側があって、老女が一人じっとこっちを見ていた。麗奈の動きが止まる。


 やばい、見られていた?

 心臓の鼓動が早くなる。どうしよう、足が動かない。

 逃げた方がいいと思う。でも足だけじゃなくて、体全体が固まっている。


 老女が縁側から下りて、こっちに歩み寄ってくる。

 とっさに後ずさりしようとして、足元の石に躓いてそのまま尻餅をついた。慌て手をついて転がらずに済んだものの、状況は最悪だった。

 じりじりと座ったまま後ろにさがるも、当然逃げられるわけもなく老女に追いつかれた。


「どうしたのかしら、何かに怖がっている?」

 話しかけられて、思わず息を呑んだ

 ……えっ、日本語?


 目の前の金髪の老女は、間違いなく日本語を話していた。華奢な体にすらっとした顔立ち。目元にしわがなければ、かなりの美形だっただろう。ただ間違いなく、日本人じゃない。

 その老女が、眉間にしわを寄せてじっと麗奈を見下ろしていた。


「その格好は、エルフの集落のものね。でも見た感じ、髪が黒いし耳も尖っていないからエルフじゃないようね」

 老女が近づいてきて、すっと手を伸ばしてきた。思わず麗奈は目をつぶった。この状況で目をつぶることが、どれだけ危険なことか理解していても、目が勝手に閉じていた。

 頭に軽く手が置かれる、と同時に暖かい何かが体に流れ込んできた。それに呼応するように、胸の辺りが何だか暖かくなった。


「魔力は、あるわね。ということは、人間族じゃなさそうね……」

 手が麗奈の頭から離れる。そまましばらく目をつぶったまま、何もされないことに警戒しながら、ゆっくりと目を開けた。

 老女が目の前でしゃがみ込んで、じっと麗奈の顔を見つめていた。


「目も黒いわね……でも魔力はある。魔力がある時点で人間じゃないわね。黒髪でも瞳孔が赤くないから、マナヒューマンでもないのよね。

 それにこの家が見えたのなら、その魔力量もかなり高いってことよね」

 麗奈の目をじっと見つめていた老女は、しばらく考えていたものの何かに納得できたようだ。すっと立ち上がると、手を伸ばしてきた。


「いいわ、来なさい。一応歓迎するわ」

 麗奈がためらっていると、もう一度しゃがみ込んで頭に手を伸ばしてきた。その手が麗奈の黒髪を優しく撫でた。

 目からまた、涙が溢れてきた。自分でも何でこんなに涙もろくなっているのか分からなかったけど、流れる涙を止めることが出来なかった。


「辛いことがあったのね、大丈夫よ。私はあなたの敵じゃないわ。

 だって、私はエルフだもの」

 助けられなかったエルフの少女の顔が、目の前の老女に重なった。


 蘇って急いで駆け付けて、胸に大きな穴を空けた少女の姿。

 スコップで穴を掘って、丁寧に埋めた。同じように、胸を抉られたエルフをたくさん埋葬した。

 亡骸を見る度に、たくさん嘔吐した。いつしか空っぽになった胃からは、何も出てこなくなった。

 それでも、助けられなかった。助けたかった。

 自分には、何の力もなかった……。


「ううっ、ううわあああぁぁぁ――」

 泣き声が止まらなかった。目の前が涙で何も見えなくなった。

 膝を抱えて、大声を上げて泣いた。もう止まらなかった。ずっと我慢していたけれど、もう限界だった。


「今は、しっかり泣くといいわ。本当に辛い目に遭ったのね。

 大丈夫よ、わたしはあなたを害したりしないわ」

 そんな麗奈を、老女はそっと抱きしめてきた。

 優しく頭を撫でられて、ゆっくり。ほんとうにゆっくり、気持ちが落ち着いていく。老女の顔がまともに見られなかった。


 しばらくして立ち上がって、老女に手を引かれて麗奈は縁側まで足を進めた。


 そのすぐ後に家が、すっと森に溶け込んでかき消えた。

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