みっしょん:2 ☆旧ヒロインの人生はハードモード Ⅳ☆

 一頻り泣いたお陰でスッキリしたものの、アナスタシアの朝の支度が後回しになってしまった。

 アナスタシアが落ち着きを取り戻したのを見たヴェロニカは、ホッとしながらエプロンポケットから懐中時計を取り出して時間を確認すると「あら。もうこんな時間……」と呟いて、ベッド脇に停めたサービングカートに掛けられた真っ白なリネンクロスの下から、白地にピンク色の薔薇が描かれたアイロンビーズに似た素材で作られたカバーが着けられたティッシュボックスと、ボーンホワイトのラタンの小型の屑籠を取り出してサービングカートの上に置き、ティッシュを何枚か引き出した。

“中世風なんちゃってロシア”な世界なので、近代に普及し出したティッシュペーパーが存在する事を深く考えてはいけない。


「お嬢様、お顔を拭く前にお鼻の方を先にやりますね」


 散々泣いた後なのだ。目は勿論やばいが、鼻の方もそれなりの状態になっていた。ヴェロニカに鼻をチーンとしてもらったアナスタシアの鼻はだいぶ楽になり、その後もヴェロニカは何度かティッシュを引きだして、鼻水の処理で生じたゴミを屑籠に投入しながら拭き残しが無いのを確認すると、その手を止め──両肘を曲げて両手の掌を上向けて【洗浄Очистка】と小さく唱えた。

 ヴェロニカの各々の手の周辺を水が覆い、その水の膜の中では水流が生じて洗濯機のように一定の方向で回転したかと思えば瞬きのうちに水は蒸発して消えてしまった。アナスタシアの鼻水を処理したので、次の作業へ移る前に簡易の高速手洗いをした、とも言えるそれを間近で見たアナスタシアは、思わず目を瞬かせた。


(限定した場所への水の現出と、水の中に風魔法? を発生させて水の泡と水流で洗った感じ? 最後は熱風と蒸発魔法の合わせ技で水を蒸発させたっぽい印象だけど、どういう仕組みであれをやったのか後で聞きたい!)


 アナスタシアがヴェロニカが使用した魔法の解析をしている合間に、ヴェロニカはサービングカートからハーブの化粧水が入った瓶とコットンが数枚入った小さな籠、白地に青い薔薇が鮮やかに描かれたグジェリ焼の洗面ボウル、ハンドタオルを四枚、水が入ったガラスのピッチャーを取り出し──洗面ボウルに入れられていたグジェリ焼の四角い小皿を取り出して脇に置いてから、ピッチャーの中身を洗面ボウルに注いで中に満たした水面に右手をかざした。


【熱すぎず、温くない温度に加熱】


 ヴェロニカが加熱魔法を小さく唱える──と、水面からゆらりと湯気が立ち昇る。彼女は掌で温度確認してからタオルを四枚浸すと一枚だけ洗面ボウルの縁に残して他は絞り、先ほど脇に置いた小皿の上に載せた。


「それではお顔の方いきますね」


 ヴェロニカに顔を拭くと予告されたアナスタシアは、静かに目を閉じる。呪文通り、熱すぎず温くないちょうどいい温度のタオルで顔を拭われたアナスタシアはさっぱりした。


「…………」


 ヴェロニカが離れる気配がしたので目を開けると、彼女は使用したタオルを先程の小皿の端の方に置いて、化粧水の瓶の蓋を開けてコットンに中身を含ませていた。


「少し冷たく感じるかもしれませんが、ちょっとだけ我慢です」


 そう言うとヴェロニカは化粧水を含んだコットンでアナスタシアの肌をパッティングして整えてくれ──使用済みのコットンを化粧水が入っていた籠の横に置いて瓶の蓋を閉めた。


「腫れを抑えた後にまた化粧水を塗りますが、目の腫れの前にお鼻のケアもしてしまいましょう」


 そう言ってヴェロニカは洗面ボウルに一枚だけ残していたタオルを絞ると、それを折りたたんでアナスタシアの鼻を覆うように置いた。鼻を覆う、といってもちゃんと息ができるような配慮はされており、ヴェロニカはタオルがずり落ちないように【温度を維持しつつ、一時接着】と唱える。刹那、物理法則で落ちるはずのタオルが、何らかの力で鼻の上で固定されて、鼻をかんだ後でも少し詰まり気味な鼻をじんわりと温め始めた。

 よくわからないけれどすごい、とキラキラした眼差しで思わずヴェロニカを見上げたアナスタシアを見て、微かな笑みを口元に刷いたヴェロニカは、残りの濡れタオル二枚を手にすると「目元に冷たいのと温かいのが交互に来ますから──お嬢様、心の準備をお願いします」と告げた。


「…………」


 ヴェロニカの予告に、アナスタシアは了承するように無言で頷き目を閉じた。

 それを確認したヴェロニカは、残りのタオル二枚をそれぞれの手に持って【右手は人肌より少し高めに加熱、左手は目が覚めるような冷却】と軽く詠唱する。瞬時に絶妙な温度加減の蒸しタオルと冷却タオルが作成され、アナスタシアの泣き腫らした目のケアが開始された。




 * * * * *




(ヴェロニカの生活魔法ってよくよく考えると絶妙よね……)


 生活魔法に関わらず、魔法は通常、媒体になる魔法石を使った杖やアクセサリーをスイッチにして発動させるのだが、ヴェロニカはそれらを使用しない。媒体になるものがなくても使おうとすれば魔法は使えるものの──とは言っても適性のある無しなどで結果は大きく異なるが──通常より魔力の消費が激しいので推奨されない。

 前世の記憶が甦る前は、ヴェロニカに甲斐甲斐しくお世話されるのがアナスタシアの日常だったので考えたこともなかったが、この世界の魔法にまつわる常識を考えると、彼女ヴェロニカのお世話は過剰とも言えた。

 アナスタシアの身分と立場を考えれば当然のものだとヴェロニカに言い含められそうな話だったが、このような“常識”を何故アナスタシアが認識しているのかと言えば、攻略対象の一人で爽やか細マッチョ騎士枠のレオニード・ゲルシュタインのルートで「お前、生活魔法を過剰に使いすぎじゃないか?」と指摘され、原作のアナスタシアはその時「え、私魔法を使いすぎ?」とカルチャーショックを起こすシーンがあったからだ。

 制限しなくてもアナスタシアの魔力量は豊富なので、その指摘はレオニードの杞憂でしか無く、その後レオニードには「お前、魔力お化けだな」と呆れられる。

 ちなみにこの時、レオニードが公女であるアナスタシアをお前呼ばわりしているのは、身分を偽り変装して情報収集をしている状況だったので不敬にはあたらないものの──後にアナスタシアが公女だとわかると、それまでの自分の言動を振り返ってレオニードは顔を青くし、「親父に殺される」と頭を抱えたりもするのだが、その頃にはアナスタシアに対して恋心を抱いているので彼なりに色々と葛藤する──レオニードルートの後半で孤立無援のアナスタシアが敵国の兵士の追跡から逃げる場面があり、多勢に無勢な状況下でアナスタシアは魔力切れを起こす寸前になる位、消耗する。

 絶体絶命のピンチに直面するアナスタシアだが、フラグ管理や入手情報の達成率のパーセンテージが高ければグッドエンドやハッピーエンドに繋がるルートへ入るので、アナスタシアの救出任務で出動したイワノフ隊と合流したレオニードがギリギリのところで駆けつけ、アナスタシアは無事保護される。この時、達成率が低ければ救援が間に合わず、力尽きたアナスタシアは敵兵に捕縛されバッドエンドに。

 このバッドエンドも二種類ある。

 情報入手の達成率が高くてもフラグ管理が甘いと、捕縛されたアナスタシアは敵国の王族と無理矢理結婚させられそうになるものの、ギリギリの所で父親のアレクサンドル率いるアルザ゠マス辺境伯領軍の精鋭部隊、従士団ドルジーナによる急襲でアナスタシアは奪還される。

 救出後、アナスタシアは作戦に参加していたレオニードが意識不明の重体だと知らされ、レオニードの元へ駆け付けるが、レオニードは身体の一部を欠損するほどの怪我をしているので騎士団への復帰は難しいだろうと説明を受け──アナスタシアは彼の意識が戻るのを祈りながら、また諜報活動へ身を投じるという終わり方をする。

 エンド名は『電撃戦〜鷹の娘は諜報を続ける』。

 もう片方は達成率が低いと発生し、敵国に捕縛される流れは同じだが、アナスタシアは敵国の王族と強引に結婚させられ幽閉されてしまう。通常であれば、捕縛されてもアナスタシアなら隙を見て脱出することが可能な筈だったが、このエンドでアナスタシアは特殊な魔法石で魔法を封じられて抵抗できない状態にされるばかりか薬で意識混濁な状態にされてしまうので、脱出するのは不可能だった。

 他国の王族にそのような事をすれば喧嘩上等と見做され、当然のことながら「よろしい、ならば戦争だ」状態になるので、ルーシ王国とその敵国は戦争状態になる。

 このエンドはアナスタシアが囚われてから二月後、ルーシ王国の戦力を甘く見ていた敵国が、敗戦が濃厚になり浮き足立つ状況で始まる。

 アナスタシアが前後不覚の状態ゆえに、ヴェロニカの視点で語られる珍しいエンドでもあるが、レオニードはアナスタシア奪還戦の初期に流れ弾に当たって戦死、アナスタシアの方も幽閉中に望まぬ妊娠をしたような描写もあるという、なかなかハードな内容だったりする。

 エンド名は『殲滅戦〜愛しの獅子は彼方へ』。

 どちらのバッドエンドでも、アナスタシア奪還の為に父のアレクサンドルが奮闘するのだが──後者のバッドエンドの方は、敵国がアレクサンドルの逆鱗に触れる行為をしている為、小競り合いをしている他国への見せしめも兼ねて目標アナスタシア救出後はエンド名にあるように容赦ない殲滅戦になる。

 ゲーム開始の数年前の情勢に、大小含めた敵対国との小競り合いは常時あったらしいと匂わせられる箇所もあったので、火種は常に燻っていたのだろう。そういった背景があるからこそ、レオニードの殲滅戦の方のバッドエンドでは全面戦争に転じただけ、という見方も出来た。

 ちなみに、グッドエンドやハッピーエンドで五体満足のレオニードには「(騎士に護れられるのが当然な筈のお姫さんなのに)無茶すんなよ……」と心底嘆かれる。

 イワノフ隊のバックアップがあるとはいえ、プロの密偵スパイでもないのに王族の姫が敵国へ単身で潜入するのだから当然といえば当然の反応だが、アナスタシアは公女なのだから、敵国の人間に捕まるような事をしなければ良いのでは? というツッコミは無しである。


(レオニードルートのバッドエンドは他と比べればマイルドな方だけど、どちらも遠慮したい……)


 レオニードのルートでクローズアップされる敵国のリサーチや、魔法を封じる魔法石への対策を頭の中のTodoリストにメモをしつつ、アナスタシアはレオニードルートのバッドエンドで活躍するアルザ゠マス辺境伯領の精鋭部隊 、従士団ドルジーナの一翼であるイワノフ隊の面々が、昨日の一度目の襲撃の迎撃時に敵へ容赦なくぶっ放していた攻撃魔法の凄まじさを──それをやっていたのは主にヴェロニカだったので、迎撃後に「お前は力技に頼りすぎだ」とイワノフにお小言を言われていた──ふと思い出した。


(そういえば、いきなり外壁の補修工事が始まったり、庭の模様替えを急にやってた……)


 昨日、大破してしまったソコロフ邸は幾つかある邸の一つだが、二代前のルーシ王国の王でありアナスタシアの曾祖父ニコライ二世のお気に入りだった事から、ニコラエフスキー宮殿と呼ばれている。

 ルーシ王国の由緒ある建物だという観点でも補修工事があるのはおかしくはないものの、頻繁にあった事を考えると古い建物だという事を除いても補修工事や模様替えの多さは尋常ではなかった。魔法を使わずとも剣や体術などで敵を落とし捕獲していたのも見ていたので、アナスタシアの平穏の裏側でイワノフ隊の面々が侵入者等を秘密裏に処理していた事が窺えた。


「……これで大丈夫でしょう。お嬢様、終わりました」


 色々と思い返していたアナスタシアの思考を現実へ呼び戻すヴェロニカの声。閉じていた目を開けると、鼻を覆っていたタオルは外されていて、起き抜けよりも鼻はスッキリしていたし、泣き腫らした時特有の目の腫れや重さも感じない。


「ありがとう。お鼻スッキリしたし、目も楽になったよ」


 アナスタシアが礼を言うと、ヴェロニカは「それはようございました」とにっこり微笑み、アナスタシアのベッド脇からアンティークのベッドテーブルを取り出して置くと、サービングカートの方へ身体を向けて何か作業を始めた。

 視線を向けると、サービングカートの上にあった洗顔セット等は既に片付けられており、真白いリネンの上には炭酸水の入ったシンプルなカラフェと空のピッチャー、両先端にスプーンとフォークが付いたピンクゴールド色の金属で作られた長い螺旋が美しいバースプーン、淡いイエローの小さな薔薇があしらわれた子供用のタンブラーとガラス製のストロー、蜂蜜や果物のシロップが入った複数の瓶が載せられていた。


「お嬢様、今日は何のレモネードにしますか?」

「今日は何があるの?」

「洋梨、オレンジ、ミックスベリーです」

「ミックスベリーがいい」

「かしこまりました」


 ヴェロニカはアナスタシアのリクエスト通りにレモネードを作り始める。

 空のピッチャーに、レモン果汁とミックスベリーのシロップを入れ、それをバースプーンで混ぜてから、炭酸水を適量注いで軽くステアした後【軽く冷却】と唱え、出来上がった赤紫色が鮮やかなミックスベリーの炭酸水レモネードをタンブラーに注いだ。

 ちなみに、レモネードと言うとレモンと蜂蜜で作られた飲み物のイメージだが、現代のロシアではレモンをベースに果物やハーブなどをお好みでミックスさせたフルーツジュースや炭酸飲料のことを総じてレモネードと言うそうなので、この世界にもその文化が取り入れられていた。


「お待たせしました」


 ヴェロニカはベッドテーブルにタンブラーと揃いの柄のランチョンマットを敷き、アナスタシアが取りやすい場所へストローを挿したタンブラーを置いた。


「ありがとう」


 アナスタシアはタンブラーを引き寄せ、ストローに口をつけてレモネードを飲んだ。泣いた後なだけに、レモンの爽やかさとミックスベリーの甘酸っぱさが体に染み渡る。


「おいしい……」


 アナスタシアが呟くとヴェロニカは微笑む。アナスタシアは用意されたレモネードをいつにないほど早く飲み干してしまった。


「おかわりはいかがですか」

「グラスに半分くらいちょうだい」

「かしこまりました」


 ヴェロニカは追加のレモネードを注ぐと、アナスタシアがレモネードを飲んでいる合間に、子供用のスープスプーンとフォークをランチョンマットの上に静かに置き、サービングカートの棚から銀色の半円の蓋で覆われた皿を取り出してアナスタシアの前に置いた。


「本日はソバのカーシャ、ビーツのサラダ、チーズオムレツ、キエフ風コトレータでございます」


 帽子に似た形をしていることからクロッシュと呼ばれている蓋を、流れる動作で外したヴェロニカは説明する。幼いアナスタシアの胃の大きさに配慮した量ではあったが、美しく盛られたワンプレートがアナスタシア前に現れた。

 それは、彼女ヴェロニカがアナスタシアの朝のお世話を開始してからだいぶ時間が経っているのにも関わらず、出来立てのように湯気が立ち上っている事に気付いたアナスタシアは目を瞬かせた。


(あのクロッシュ、保温機能みたいなのが付与されてる?)


 通常であれば、蕎麦の実の粥やオムレツはアナスタシアの好物なので、細かいことは気にせず用意された朝食を頂いていただろうが、前世の記憶が甦ったせいか、前の世界との相違が目に付くとその都度気になってしまう。


「……お嬢様、もしかして食欲がございませんか?」


 黙り込んでしまったアナスタシアを見たヴェロニカに食欲不振だと思われてしまったので、アナスタシアはそれを否定する。


「だいじょうぶ。お腹は空いてるよ。あのクロッシュの構造が気になっただけ」

「クロッシュの構造?」

「うん。クロッシュは温かい状態を保つ為の物なのはわかっているけど、今日はいつもより朝の準備に時間がかかったのに、蓋を開けたら温かいままになってたから」


 アナスタシアはそう言うと、フォークを手にして賽の目状にカットされたビーツのサラダに狙いを定めた。


「それはですね──」


 納得した顔をしたヴェロニカは、少し遅い朝食を食べ始めたアナスタシアに、クロッシュの構造の説明を始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る