婚約破棄? 私がさせませんが何か

和泉 沙環(いずみ さわ)

みっしょん:1 第二王子が妹を断罪する計画してるから阻止します☆前編☆

 王立学園文化祭のトリに行われる夜会の会場であるホールは、色とりどりのボールガウンドレスを纏った淑女と、ホワイトタイの紳士でごった返していた。

 楽団の典雅な生演奏が流れる中、ルーシ王国の宰相を代々世襲しているメドベージェフ公爵家の嫡子ビクトルは、二つ下の妹のエリザベータを優雅にエスコートして会場入りしていた。

 壮麗な装飾の扉の出入り口に佇む二人は、青みがかった黒真珠色の揃いの夜会服を纏っており──遠目ではわからないが、光沢のある布地には金糸銀糸などで繊細かつ絢爛豪華な刺繍が施されており、職人の技が光る逸品だった──濡羽色の黒髪にサファイアブルーの目をした美しい兄妹の登場に気付いた者は、絵になる程美しい対に見惚れてほうと溜息をつく。


「リーザ」

「はい」

「馬車の中でも話したけど、これから起こる事に驚いてはいけないよ? 嫌なことがあるとは思うけど、私が全力でリーザを守るから」


 会場へ入って数歩進んだところで妹の愛称で呼び、ビクトルは自分の掌に手を添えているエリザベータを軽く引き寄せると、内緒話をするように彼女の耳許へ口を寄せて囁く。

 夜会で兄が何かをするようだということはわかっていても、詳細を全く知らされていないエリザベータは内心戸惑いながらも、念を押してきたビクトルにこくりと頷いた。


「いい子だ」


 ビクトルは蕩けるような笑顔で、繋いでいない方の手で妹のヘアセットが乱れないようにしながら頭を優しく撫でる。


「ふつくしい……」


 二人の後に到着し、後ろで順番待ちをしていた令嬢がビクトルの笑顔に心を撃ち抜かれてしまい、そのまま後方へばたりと倒れ込んでしまうしまう──ところだったが、令嬢の異変にすぐに気付いたパートナーがそつなく抱き止めたので、彼女は頭を打つことはなかった。

 背後で起こった小さな騒動に気付くことのなかった二人はネーム・コールマンに名前を呼ばれ、優雅に歩き出す。中へ進むと、知人が出入り口付近にいたので挨拶をしていく。

 途中、エリザベータは会場の中央に自分の婚約者でありこの国の第二王子ロマーンの姿があるのが目に入り、一瞬表情を曇らせた。エリザベータの脳裏に数日前にあった出来事がよぎったが、沈みそうになる気持ちを封印して社交用の笑顔の仮面を貼り付かせる。


「…………」


 プラチナブロンドの髪にアイスブルーの目の貴公子然とした振る舞いの王子の腕には、王子の目の色と同じアイスブルーのイブニングを纏う、栗色の髪にブルーグレーの目の可憐な令嬢が自分のそれを絡ませ幸せそうに寄り添っていた。

 彼女がいなければ、ロマーンの隣には婚約者であるエリザベータが立っていた筈だったが、王子は婚約者であるエリザベータを差し置いて婚約者ではない彼女へドレスや宝飾品を贈り、夜会のパートナーとしてエスコートしている。

 ドレスや宝飾品の情報を、何らかの伝手で知ったらしいエリザベータの母が、他国のアカデミーへ短期留学していたビクトルを予定よりも早く帰国させ、この夜会のエスコートをするよう言い付けたからこそこうしてエリザベータの隣に立っているのだが、兄妹揃いの夜会服を用意していた事からも、かなり前からその情報をキャッチし準備していたのだとエリザベータは気付く。


「話は聞いていたが……。──あんの、馬鹿王子!」


 エスコートしていたが故に、触れている指先からエリザベータの動揺に気付いたビクトルは、エリザベータの視線の先にいる青年と令嬢の姿を認めるなり小さく毒付いた。忌々しげなそれは、麗しいと言われる微笑の元で放たれたので周囲は王子を罵る内容だとは思っていない。


「……お兄様?」


 唯一それを至近距離で耳に出来たエリザベータは、内心驚きながら兄を見上げる。


「大丈夫。リーザはいつものように毅然としていればいい」


 何でもないことのように言い切る兄の言葉を不思議に思っているエリザベータの意識を、「やぁ、ビクトル」と遮る声があった。

 いつのまにか二人の側へ来ていた第二王子。その声に反応した二人は、揃って声のした方向へ体の向きを変え、王族への礼を流麗にする。


「お久しぶりです、ロマーン殿下」

「しばらく見なかったが、確か留学していたのだったな」

「はい。一昨日、留学先から戻りました」

「留学先は確か──」


 すぐに地名が出ないのか、ロマーンが言い淀んだのでビクトルはにこやかに続けた。


「アーガイルです。魔法石研究の最先端の国ですよ」

「そうだ、アーガイルだったな」


 王子の横にいる令嬢が、ブルーグレーの瞳をキラキラさせて兄を見つめている事にエリザベータは気付く。

 王子にしなだれかかりながら兄に秋波を送ってくるのを信じられない思いでエリザベータは見たが、「殿下、その令嬢は?」と訊く、先程より温度の下がった兄の声が聞こえ──目の前の令嬢から王子へと意識を向けた。


「アーンナ・クズネツォヴァ男爵令嬢だ」


 紹介された令嬢を一瞥した後、ビクトルは微笑を浮かべて「殿下。この状況、わかっておられますか?」と、問いかけた。

 ビクトルをよく知らない人間が聞いたら、それは「今日はとても良い天気ですね」と、快晴を喜ぶような雰囲気の声だったが、その内容は婚約者のエリザベータのエスコートをせずに別の女性を侍らせている現状を言外に咎めるものだった。


「ああ、わかっているとも。エリザベータとの婚約は破棄する」


 その言葉にエリザベータだけでなく、四人の動向を遠巻きに見守っていた周囲が息を飲んだ。


「婚約解消ではなく、破棄ですか。──リーザには何の落ち度もないのに?」


 一見すると、表面上その笑顔は崩れていないが、ビクトルをよく知る妹の目には、兄の額に青筋が浮かぶ幻影が見えた。

 手を繋いだままというのもあったのだろう、重なる指の先から兄の怒りを感じる。

 怒っている人を見ると逆に冷静になるとよく言うが、兄がこんなに怒っているのを初めて見たエリザベータは、目の前にいる婚約者が告げた婚約破棄の件が頭から吹き飛び、内心焦った。

 目の前の王子は、ビクトルが怒っていることにさえ気付いていないから尚更だった。


「何を言っている。落ち度はあるさ。──リーザはこのアーニャを虐めてたんだからな!」


 ロマーンの隣のアーンナが一瞬勝ち誇ったような顔をしたが、エリザベータはそれを見なかったフリをし、話の矛先が自分に向いたので冷静に指摘する。


「お言葉ですが殿下。わたくしは一度だけアーンナさんには『殿下に気安く近付きすぎではありませんか。婚約者のある方への振る舞いではないです』と、注意させて頂いた事はありますが、それだけでアーンナさんを虐めたと言われるのは心外です」


 窘められた後に改めるかどうかは本人次第だ。

 移動時などに時折見かけた王子と目の前の令嬢が、友人とは言えない距離感の付き合い方をしているのは薄々感じてはいたものの、エリザベータには通常の授業の他にも王子妃としてのカリキュラムが組まれていた為に毎日スケジュールが埋まっており、王子にちょっかいを出す人間に割く時間などなかった。

 婚約者として妬かないのか、婚約者に対して冷たいのではないかと言われるかもしれないけれども、今のところエリザベータにとってのロマーン王子は、異性というよりも兄弟に対する情のようなものしかない。

 王子との婚約は政略結婚の意味合いが強く、少し頼りない所のある王子を自分が支えなけば、という思いの方が強かったので、王子妃のカリキュラムが思いの外楽しくてそちらを優先してしまった。エリザベータは煩わしい事を後回しにしてしまうタイプでもあった。


「そうだね。TPOがわかっていない人を注意するのは大事な事だよ。注意するのはその人の為でもあるし。まして、相手は我がルーシ国の王子だからね。庶民同士なら砕けた言動は許されたとしても、王族に対して間違った言動を取ればどうなるか……」


 至極真っ当な話である。ビクトルの言葉に同意するようにうんうんと頷く者もいた。それなりの常識があれば、婚約者がいる王子に平気でベタベタできる筈がないのだが──王子の方が咎めなかったという事もあるのだろう。

 しかし、その空気を壊すように「違いますっ!」とロマーンの横から抗議の声が上がった。


「エリザベータさんは殿下が私を選んだから嫉妬したんだわ! 嫉妬は人を変えると言いますものっ‼︎」


 半泣きでそう訴えるアーンナ。

 エリザベータからすれば一度注意しただけなのに、何故かアーンナの中では嫉妬で執拗に嫌がらせをしたことになっていたのが理解不能だった。

 しかし、長い付き合いのロマーンは自分の言葉よりもアーンナの言い分を信じているようで、感情的に訴えるアーンナに同意するように隣で頷いている。


「クズネツォヴァ男爵令嬢だったね。妹が嫉妬で君を虐めたと言うけれど、確固とした証拠はあるのかい?」


 初めてビクトルがアーンナに話しかけた時、彼女の顔には喜色が浮かんだ。また目をうるうるさせ、上目遣いで何かを期待するかのようにビクトルを見つめる。


「証拠はある」


 アーンナの代わりにそう答えたロマーンは、ビクトルの視線から彼女アーンナを庇うように前に出ると、「証人、前へ!」と声をあげた。その声に応えるように、王子の背後に控えていた男子生徒が数人進み出て来た。

 会場がざわめく。文化祭の夜会で公爵令嬢への断罪が始まるのだから、皆興味津々だ。


「目撃証言、か。──君たち、勿論真名に誓って証言できるんだよね?」


 真名に誓え、と言われた証人たちは話が違うと言わんばかりに顔を見合わせる。


「あれれ? おかしいな。君たち、代々宰相を務めるメドベージェフ家の令嬢であるリーザが、そこにいる令嬢を虐めたという証人なのだろう? 現場を見たというのなら言える筈だよね? ──言えないのかい?」


 真名に誓うということは、偽証するとそれなりの反動が本人に及ぶ。嘘をつかなければ問題ないのだが、そうでない人間にとっては恐ろしい宣誓だった。ロマーン王子は、主導権をビクトルに持っていかれたのを感じたのか、不機嫌をあらわにした表情になる。


「証言できないようだから、こちらからはリーザが潔白な証明をしようか」


 そう言って、ビクトルは右手を挙げてパチンと指を鳴らす。会場の目立たぬ場所に控えていたらしいビクトルの従者がカツカツと靴音を鳴らし、ベルベットのジュエリーボックスを両手に掲げて恭しく運んできた。

 ビクトルの側へ来た従者はジュエリーボックスの蓋を開けると、主が中身を取りやすいように傾ける。

 そのジュエリーボックスの中には繊細な細工のネクタイピンやピンズ、ブローチが納められていた。


「確か、これだったかな」


 そう呟きながら、ビクトルは月桂樹の葉を冠にした形のシルバーのブローチを摘み取る。その動きを見届けると、侍従はビクトルの後ろに下がり、ジュエリーボックスを両手で掲げたまま控える。


「潔白の証明と言うが、そのブローチはなんだ?」


 片方の眉を上げ、怪訝な顔でビクトルを見るロマーン。ビクトルの動向を見守る、会場に居る他の者たちもロマーンと同様に怪訝な顔で見ている。


「まぁまぁ、急かさないで見ていて下さいよ殿下」


 そう言った後、ビクトルは小さく《再生》と呟く。呟きに反応したブローチが光り、中空に映像が映し出された。その光景に、会場がどよめいた。

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