涅槃の求道者

@nishiki_dan

手首の餅

粘土の関節が上手くくっつかない。

小学生の図画工作で作った粘土人形はどう頑張っても腕の部分が上手く胴体にくっつかず、授業の終わりまでそこに構っていた。それなのにクラスで発表するときには落ちてしまっていた。

その日の風呂上り。俺は自分の腕をみた。

鏡の前の自分の腕はしっかりと繋がっていて、歯ブラシを持ってしゃこしゃこ歯を磨いている。当たり前のことではあるのだが、その日の俺はそれが結構凄いことなのかもしれないと思った。

何度くっつけても落ちてしまう腕。重力に逆らうことの難しさ。

粘土はくっつけ合わせた部分が脆くなりやすく、そこからボロボロと崩れて人の体を成さなくなる。

俺の体の節々にも、線がある。

くっつけ合わせた部分みたいな線が。

あとからそこは「関節」というのだと知るが、その日から俺は関節が実はすごく脆い急所なんじゃないかとビビッて、変なギクシャク動きで生活した。

おかげで親や友人からはいい笑いものにされたが、あの頃の俺は真剣だったのだ。


むにり。


まただ。

頭痛がスッと晴れるような。汚い話、飲みすぎで嘔吐したあとのようなこの感じ。

左手首を裏返してみると薄桃の透明な、なんというかぶよぶよした餅みたいな塊がくっついていた。

それは次第にぷくぷくと膨らみ、ある程度の大きさになると止まる。

俺は大きく溜息をつき、塊を手首から引っぺがした。

簡単に外れた。

膨らんでいる途中に引き剥がそうとしても、接着剤で付けたように中々剥がれないのだが、これが終わるとあっさり離れる。

俺はキッチンに置いていた大きめの瓶を取り出すと、その中に塊を落とした。


べち。


最近テニスボール大にまで膨らむようになったそれは、俺の手首から出てくる。

これの正体がなんなのか全く見当もつかない。

ある日突然俺の手首から出てきては、ぶよぶよの餅を吐き出し続けている。

何かの手掛かりになればとこうして瓶に溜めてみてはいるが、腐りもせず、吐き出された時のままつやつやと光っている。

ただ。確実に大きくなっている。

何かの病気かと病院に行ってみても、特に問題なし。あったとして睡眠不足を指摘されたくらいで何の解決にもならなかった。

いい加減排出するたびトイレに立つのも厳しくなってきた頃に、別部署の同僚から連絡があった。この間、話す種もなくなった飲みの席で冗談半分に話した奴だ。

正直信じてもらえるとも思わなかったし、対して面白くもない地味な話だと思っていたから話を覚えられていただけで驚きだった。

同僚はわざわざ俺の部署までやってきて、こう言った。

『こないだの話さ、なんとかできそうな人知ってるから紹介するわ』と。

最初何を言われているかわからなかったが、要は霊能者的な胡散臭い人だろうと思った。

そんなよくわからんもんに金を払うのはごめんだ。

俺は適当にあしらったが、同僚はやけに真剣な顔で『いや、アポもとってある』と言う。


えぇ。頼んでないよそんなこと。

そんな急に休暇とれないし。


ぶちぶち言ってると同僚は『わかりました!』とガッツポーズするやいなや俺を引きずって上司のもとへ有休をとりにいった。

だから頼んでないって。

あれよあれよという間に貴重なな有休が消化され、同僚は「良いこといたなーっ」っていかにもやりきったいい顔で『いやーっお疲れ様です!次飲みに行くときは奢ってください!』ときたもんだ。

なんてことをするんだよ。俺が奢ってほしいよ。


こんなことなら話すんじゃなかった。

嫌々ながら身支度を整えながら鏡を見る。

有休中の男の顔じゃない。

予定外の休息ってのは嬉しくもなんともない。俺は計画的に、決まったスケジュールの中で動きたい人間なのだ。仕事モードだった体に、はい休んでいいよと言われても困惑するだけだ。寧ろただ無意味に時間を浪費してしまう。だからというわけではないが、今日の午前中したことと言えば興味もないネットニュースを流し読みくらいだ。


外に出ると、何ともいえない淀んだ空気が俺を迎えた。

生憎の曇り空。

これでは気分転換にもなりそうにない。

「ご飯ついでに」とのことだったが変なぼったくり店に連れていかれたりしないだろうか。自慢じゃないが俺は馬鹿舌だ。痛んだものならともかく繊細な味の違いなど判別できるはずもない。食に頓着もないので、金をかけるのも煩わしい。

ネットニュースで見かけた「詐欺師」の文字を思い出して背筋が寒くなる。

あいつ、変な新興宗教とかやってたりしないだろうな?それともソッチ系のやばい人とか。

時すでに遅し。

やる気のない構内アナウンスは、いつの間にやら待ち合わせ場所である駅名を繰り返している。

「あっ、すみません。降ります!」

慌てて飛び降りたものの平日の朝ラッシュとは違い、車内は然程混んでいなかったことを思い出す。

わざわざ声に出す必要はない。

電車がすぐ行ってくれて助かった。気持ち駆け足で階段を上る。

顔にこもった熱をはやくなんとかしてしまいたかった。


改札を出て辺りを見回す。

時間は丁度五分前。小洒落た時計の下には既にちらほらと人影があった。

まずあのサラリーマンは違うだろう。この辺りの飯屋でも調べていたのかすぐに鞄を持って行ってしまった。

じゃああのなんか派手なおばあちゃん?

占いや新興宗教のおばちゃんというとあんな雰囲気をしているイメージがある。が、同じく中々特徴的な恰好をしたおばあちゃんと楽しげに談笑しているところをみるとこれもハズレ。ならあのスマホ弄ってる女子高生か?そういえばどうしてこんな時間に高校生がいるのだろうか。これは、この子か?

こういう話で相手は実はとんでもなくうら若い女の子だった、なんてよく聞く話ではある。この場合、美少女になんらかの力が・・・というわけではなく、大抵は金目当ての詐欺だ。

仕方ない。これは騙された大人が対処しなければならんだろう。

待たせて帰るのも大人げないし、この場でいくらか金を渡して帰ろう。なくした金は社会経験だと思って諦めるしかない。半ば強引につけられた話とはいえ、必死に抵抗しなかった俺が悪い。

一体いくら搾りとる気でいるんだか・・・。

財布の中身を思い出しながら俺の右手が伸びる。

「あの、城島さんですか?」

声をかけたのは俺ではない。

声の方に振り返るとそこには二十代前半の青年がいた。青年と呼ぶに相応しく中性的な顔立ちのその人は手入れの行き届いたダークグレーの背広を身に纏っている。しっかりとセットされた前髪がさらりと揺れて彼の瞳が俺を正面に捉えているのがみえた。薄い唇が小さく開く。

「お初にお目にかかります。御同僚の方にご紹介あずかりました、辻浩と申します。」

危なかった。

危うく何の関係もない女子高生に金を貢ぐ変質者になるところだった。

「ど、どうも」

「はい。今日はよろしくお願いします。早速ですが、和食はお好きですか?」

「ええ。好き嫌いはあまりない方なので。」

「それは素晴らしい。よろしければ私がご案内しても?」

「あ、助かります。俺この辺詳しくなくて・・・」

「そうなんですね。あまり都会的とはいえませんが、街並みは綺麗な方だと思いますよ。市が結構力を入れていると聞いたことがあります。」

手際よくぽんぽんと話を進める彼はさっさと歩きだしてしまう。あっけにとられていた俺は数秒遅れて漸く後を追いだした。

思わず相手の顔をじろじろと眺めてる。絶世の美女とはいかないが、このまま女装させても違和感なく生活できるのではと思う顔をしている。それに加えて丁寧な物腰。最近の若者にしては出来の良い方だ。

俺の視線に気づいた辻浩さんが微笑む。

「なにかついていますか?」

「あ、いえ。すみませんじろじろと。」

「いえ。自慢じゃありませんが慣れていますので」

「ですよね。綺麗なお顔されてますし。」

「あはは。そう思っていただけたなら光栄です。身なりには気を使っているつもりですから。」

そう言われれば成る程、服装や格好の気の使い具合は程よく清潔感があり、いかにも仕事のできそうな印象を受ける。うちの部署にも一人欲しい。

はたと頭をよぎる「詐欺師」の文字。

「それで、失礼ですが辻浩さんは霊媒師の方かなにかですか?」

「いいえ。残念ながら違います。」

「占いとか、風水関係ですか?」

「いえ。それも違います。」

じゃあヤクザ?とは流石に聞けない。

外は相変わらずの厚い雲がかかっているせいで薄暗く、足元は駅のよく滑る床から石畳の路地に変わっていた。この辺りに来たことはないが、古く温かみのある木造店舗が寄せ集まるこの風景は中々風情があっていいかもしれない。

「着きましたよ。」

辻浩さんが立ち止まった店先の看板には細い筆字で「玉兎」とあった。

「お気に召すといいのですが。」

そう言い残すと彼はすっと暖簾のれんをくぐり姿を消した。

高くないといいのだが。俺は店を見上げ要らぬ心配をしながら後に続いた。

店内に入ると、辻浩さんがなにやら店員と話をしている。どうも予約してくれていたらしい。

「ご案内します。こちらへどうぞ。」

可愛らしい着物の娘さんが片手をちょこんと出して案内してくれる。辻浩さんは入ってきた俺についてくるように目配せして娘さんの後に続く。

窓一つなく黒い廊下に、提灯を模した明かりがちょんちょんと置いてある。明かりの反対側にある部屋は客室なのだろう、時折人の笑い声が聞こえてきた。

終わった。

全席個室などそこそこの値段確定だろう。全く何を根拠に俺はジーパンにTシャツを着てきたのだ。事前に銀行から金を下ろしてこなかったのだ。

あからさまな高級店の気配に一人圧倒されていると「こちらにどうぞ」と途中の一室に通された。

入るとそこは二、三人入れるほどの小部屋だった。和紙で出来た球体の照明がぽうっと灯って明るい。瞼を伏せ向かいに座る辻浩さんは部屋の雰囲気によく馴染む。これが詐欺師だとは思いたくない。

そうだ。詐欺師相手に何を戸惑う必要があるのか。礼儀も何もしったものか。いっそここで『やっぱり帰ります』と席を立ってしまえばいらぬ食事代だけでなくいずれふっかけられる相談代の出費も回避できる。俺が意を決して口を開くと彼が先にこう言った。

「あ。お代は気になさならいでくださいね。」

言いかけた台詞を一瞬忘れる。

呆けた俺の顔をみて辻浩さんは目を細めてにこりと笑った。表情が読めない。ただにこにこと笑っているようにもみえるが、今の俺には「帰るな」という暗示にもみえてくる。

彼は呑気に「昼間ですが、これからご予定がないようでしたら一杯如何です?」と酒まで勧めてきた。いよいよ怪しい。ような気がする。

俺は開きかけの口から漸くようや声を押し出した。

「それじゃあ俺、これにします。」


注文を頼んですぐ辻浩さんは餅の話を聞いてきた。俺は先述の通り話したがまあ何度話しても、怖くもなければ面白味もない話だ。それらしい原因も経緯もなにもない。ただ体から変なものが出てくる。辻浩さんはふんふんと俺の話を聞いている。

『なんとかできそうな人知ってるから』とは言われたがこの人物、一体この話になんとかオチをつけるのだ。


むにり。


あっまずい。

左手首に生暖かい感触。

俺はすぐに腕をテーブルに乗せて袖をまくった。

「あの、これなんです。」

手首にはじんわりと薄桃色のジェルが乗っている。

透けてみえる手首にはなんの異変も見られないが確かにここからじわじわ湧いてくるのだ。

辻浩さんは一つ瞬きをしてジェルをみた。

そうしてみている間にもジェルはどんどん膨らむ。

「ふうん。」

頬杖をつきながら彼はじっとその様子をみている。


こぷっ


塊の底から気泡が上がる。これが引っぺがせる合図だ。

「よし」小さく呟いた辻浩さんは頬杖をやめて俺に視線を向けた。

瞳の正面に映る俺。

「縫いましょう。」

彼は確かにそう言った。


「・・・はい?」

「ですから。縫いましょう。」

そんな医者みたいなこと言われても。

彼が持参のビジネスバックをごそごそと漁りながら答える。

「え?それ、なんとかなさりたいとお聞きしたのですが」

「いや、そうなんですけど」

「ならどうにかしましょう。そのままではどんどん肥大しますから。」

「え」

まだ大きくなるのか。

いやそもそも「縫う」ってなんだ。何を縫う気だ。

「よしあった。」

ごそごそやっていた辻浩さんが頭を上げる。テーブルにちょんと置かれる針山。糸。指先で光る縫い針。

どうみても普通の裁縫セットだ。

パステルカラーの針山がちょっとかわいらしい。

「待ってください!そりゃ変なところから湧いてますが、手首自体は違和感もなにもないんです!まして、穴や傷なんかもありませんし縫うなんて!」

「大丈夫ですよ。痛くないですから。」

いや痛いだろ。そんな装備じゃ駄目だろ。

彼は『怖くないですからねー』とやっぱり医者みたいなことを言い乍ら糸の先を針に通した。

一発。

上手い。

糸を結んで通した針を針山にざくっとぶっ刺した彼はお冷のグラスを一気に飲み干した。

ほうと息をつくと白い瞼が呼吸と共に少し降りる。

瞼がぱちんと開く。

真正面に俺。

思わずびくりと体を震わせる。

「失礼します。」

辻浩さんの左手が俺の腕を掴む。


むに。

親指と中指が餅が摘まむ。


ぷちんっ


勢いよく餅が手首から離れる。

ああやっぱりくっついてたんだ。

出てきたものなんだこれは。


摘まみあげた餅は空のグラスの上まで持ってかれた。


針が。辻浩さんはもう片方の手で餅を刺した。


少しばかり弾力という抵抗をみせた餅だったが、あっけなくぷちんっと割れた。

餅はみるみるうちにしおしおになり、コップの中にはじゃばじゃばと透明の液体が注がれる。

「水・・・?」

恐る恐る言葉に出すと辻浩さんはにこやかに答えた。

「ええ。水ですよ。ただの水です。」

指先に摘ままれた種無し梅干しのようになったそれを彼はひょいと口に放り込みながら何でもないように、もう一度言った。

「で、縫いましょう。」

「え、は、縫うですか。やっぱり。」

「縫いましょう。

このままではあなたはこの水でいっぱいになって破裂してしまいます。そうして脆い部分から噴きだして、別のものすら水と一緒に流してしまうでしょうね。」

脆い部分。

古い記憶がざわりと波風をたてる。

「・・・縫います。」

やらなければ災いが起きる。

今思えばそれこそ詐欺師の常套句だ。

それなのにこのときの俺は真剣に「そうしないと危険だ」と思った。

「はい。」

彼は会った時と同じように微笑を浮かべた。

相変わらず読みづらい表情だがこのときはほっとしているようにみえた。

針が皮膚に通る。

驚くほどにすっと通り、言われた通り痛みはなかった。ちくちくと注意深く縫われているのをみていると痛くない点滴をされているようだった。

白い縫い糸は手首の白さと相まって意外と目立たない。

綺麗に罰点模様が連なる腕をしげしげ眺めていると辻浩さんは包帯を取り出して、「目立つとお困りになるでしょうし、巻いておきましょう」と包帯も巻いてくれた。

すっかり左腕が終わると彼はいそいそと裁縫道具を鞄に戻しはじめた。

「あ。あの、右腕も出ることがあるんですが」

「はい。それは食事を終えてからにしましょう。それに人前ではお嫌でしょうから。」

「?」

まあじきに料理が運ばれてくる頃合いだろうか。そんなときに店員の子にばれたらいったいどんな趣味の男共かと思われるだろう。だがなんとなく彼の言い方が引っ掛かった。


料理はどれも素晴らしいもので、彼に勧められた酒は適当なものを選んでしまったが、これがここの和食に良く合った。自分の舌はもしかして好き嫌いのないだけのグルメ舌なんじゃないかと錯覚するくらい美味しいと思えた。結構な上機嫌で要らぬ話まで色々話してしまったような気がしたが上手く、話の相槌をうってくる彼に増々舌が回る。彼自身話が上手いもので話題に話題を上乗せされどんどん酒がすすむ。

食べ終わってもなお止まる気配のない俺を制して彼が針を取り出す。

「では続き、縫っちゃいましょうか。」

そうだった。言われた通り縫う気ではあったが、饒舌になった俺は揶揄い半分に聞いてみた。

「これ片方でも大丈夫なんじゃないっすか?両手首に包帯なんかしてたら会社でやばい奴と勘違いされちゃいますよお。大体水が出てくるってことは、水の飲みすぎかなんかでしょうか?だったら中身がエナジードリンクでもいいようなモンですけどねえ。」

彼はくすくすと微笑を浮かべたまま右腕に針を通した。

「エナジードリンクは体にちゃんと入ってますよ。だからお水がでるんです。」

ん?

エナジードリンクがちゃんと体内に入ることと手首から水がでることになんの関係があるんだ。

「考えかたは近いんですがね。水、に近いものをあなたは溜めすぎただけですよ。エナジードリンクなんてのは溜め込んで我慢するにはうってつけじゃありませんか。」

水に近いもの。

粘土の腕の繋ぎ目から水が噴き出す。水と一緒に粘土の油も一緒に流れて変なにおいがしそうだ。そんなことになったら・・・粘土は崩れる。全壊とまではいかなくても腕を含めた上半身がぐしゃりと歪む。

「不平も不満も幸福も多く溜まれば溢れるものですから。不満が溜まればデモが起きますし、幸せな人は周囲の人に自分の幸せを振り分けます。形ないものも容量に限度があるので、感情をもつ私たちは時に持ちすぎた感情をどこかに置いていかないといけません。」


ちくちくちくちく。


右腕に罰点が増えていく。

左と同じ数で終わるなら、あとひとつで最後。


「あなたはちょっと変な方法で出しちゃってただけですよ。」

ちく。

縫い目の隣にちょんと綺麗な玉結びが並ぶ。

「決して間違った方法じゃありません。大丈夫。」

その一言に俺の全部を救われた気がした。

わけもわからず、だくだくと涙を流す俺に再び裁縫道具を仕舞い込んだ辻浩氏はゆず酒をくっとあおって瞼を閉じてみせた。

「お酒のせいですね。」

今は彼も見ていない。

俺はがっくりと項垂れて大泣きした。声を殺せど嗚咽が漏れて止まらなかった。

目をつぶったままの彼がゆず酒のグラスを振って、氷の清涼な音がした。


帰り際に辻浩さんは「泣かせてしまったお詫びですから、返さなくて結構です」と手触りの良いハンカチで顔を丹念に拭ってくれ、泣いた顔で外を歩かなくていいようにとマスクまでくれた。最後まで手際がいい。会計も本当に奢ってくれた。

「三日もすれば糸を抜いて結構ですから」

「あの、なんか再発対策だとかあったりしますか?」

「ん?ああ、ないない。うふふ。城島さん、私お医者さんじゃありませんよ。」

「えっ、・・・はは。そうですよね。」

「強いて言うなら、ストレス発散はマメになさってください。それと何かご趣味をもつといい。」

「趣味、ですか。」

「ええ。『再発』防止にはうってつけだと思いますよ。」

『それでは本日はお時間いただきありがとうございました。』と頭を下げ、彼は改札の先で姿を消した。

狐につままれたような変な気分ではあったが酔いがまわっていたせいか家に帰るとすぐに寝てしまった。

夜中に起きた俺はまだギリギリやっていた近所のビデオショップに駆け込んで、DVDを借りれるだけ借りこんだ。一晩で三本ほど見終えてもう一度寝て出社した。

その日俺は定時退社して例の同僚に奢ってやった。まさか率先して奢ってもらえるなどと思っていなかった同僚は驚いていたが、遠慮なく人の金で存分に飲み、食い散らかしていた。俺も同僚の真似をして、これでもかと飲み食いした。

三日経って糸を解くと、手首は縫ったあともなにも残っていなかった。

餅はもう湧いてこなかった。

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