恋を失う

@millionlove

日常

−僕は好きだった。



陽光が肌を撫で、鳥たちのさえずりが活発になる。朝が来たらしい。いつものように支度を済ませ学校に向かわなくてはならない。



 円亀えんぎ高校は〝自称〟進学校だ。毎年現役で東大、京大、国公立医学部、旧帝国大学、地方国公立、有名私立に若干名輩出するが所詮その程度だ。まだまだ田圃や畑がちらほら見えるこの田舎では威張っている方だが、都会の〝本物の〟進学校には到底及ばない。学校から目と鼻の先にあるM塾がなければこの進学実績もかなり落ちるだろう。

 教室のドアを開け、数名と「おはよう」を交わした後、自分の席に着く。窓際から2列目の最後尾。ここが僕の特等席。友人は少なくはないが多くもない。人当たりがいいだけで、基本話しかけられなければ1人でいる。


 今日も伊藤咲良はかわいい。稚拙な文章に見えるが僕の感覚ではこれが一番しっくりくる。150センチ余りで肩にかかるミディアムヘア、吸い込まれそうな大きな瞳に笑うとできるえくぼが魅力的だ。「えくぼは恋の落とし穴」なんて言葉をどこかで聞いたことがあるが、言い得て妙だ。そんな伊藤咲良は窓際の列で前から4番目。1列6人なので実に丁度良い。これがあと1席分後ろにきていれば、幾度か視線に気づかれることがあっただろう。



—1時限目 古文

 担当の柴野が入ってくる。しかしクラスメートの雑談は一向に止まない。

「授業を始めますよ!」

3回目のこの言葉でやっと静かになり始める。いつものことだ。ふくよかで温厚そうなその見た目がこれを許してしまっている。今日の範囲も源氏物語。教科書を開けど、何を書いているのかさっぱり分からない。藤壺だの夕顔だの、主人公が色々な女性と関係を持っていくというつまらない文章。またテスト週間に現代語訳を覚え、事無きを得るしかないのだろう。

 だがこの授業は嫌いではない。柴野がひとたび言葉を発すると次々に生徒が顔を埋めていく。伊藤咲良も例外ではない。しかし彼女は側から見ると起きているのではないのかというぐらいの良い姿勢で眠りにつく。目を閉じていなければ本当に気づかない。授業を聞かなければという心持ちがあるのか、黒板の方を向いたまま眠る。とてもありがたい習慣だ。起きている天真爛漫な姿とはまた違ったかわいい寝顔を見せてくれる。この席になってから柴野の授業を一度も寝ずに受けているのはおそらく僕だけだろう。



—2時限目 体育

 男子が教室、女子が更衣室で着替えて体育館に集まる。今季は男女ともに屋内スポーツなのだ。体育館の真ん中をネットが横断し、半分を男子がバスケで、もう半分を女子がバドミントンで使用する。

 運動神経が格段良いわけではないが、小学校から続けているサッカーのおかげで、周りの男子より体の動かし方は上手い方だ。バスケ部には及ばないものの、1ゲームに2点ほど得点することができた。ハイタッチをしながら視線をさりげなく伊藤咲良の方へ移す。ああ、やはりかわいい。他のチームが試合をしている間は、みんなと応援しつつも、見ているのはもちろん伊藤咲良の姿だ。伊藤咲良はバスケ部に所属しており運動神経は割と良い方だ。しかし道具を使う競技はあまり得意そうではなく、高く上がったシャトルに狙いを定めるが、ラケットは見事に空を切る。周りからなじられるが、実にかわいらしい。体操服という非日常がいかに貴重なものか、この期間に噛みしめなければならない。



—3時限目 生物

 体育後に急いで着替えて生物教室に移動する。

「相沢くん、今日って実験だっけ?」

不意に話しかけてくる伊藤咲良の方を見ると前髪がおでこに貼り付き、首筋はまだ汗ばんでいる。

「確かそうだったはずだよ。」

声の震えを抑えながらそう返し、伊藤咲良の頰がまだ熱を帯びていることに気づいた。僕の頬が一層赤らんだ。

 生物教室の座席は出席番号順に男女2人ずつの班である。そう伊藤咲良と同じ班。生物の座席は通年のものなのでつくづく運が良い。小、中学校とクラスの自己紹介を最初に頑張ってきた甲斐があった。卒業式も学年代表で大きな返事をしたことが、「通年」という権利を与えてくれたのだろう。今日の実験はユスリカというムシから「だ線」を取り出し、パフの存在を確認するというものらしい。よく分からないが手順通りに進める。他の班ではムシなど意に介さず男勝りに実験を進める女子がちらほら見受けられるが、この班、伊藤咲良ともう1人は普通の女子であった。ムシはあまり得意ではないが、ここで手を上げないわけにはいかない。江崎も同じ考えだったのだろう。2人でぎこちなく実験を進め、称賛を得た。「ありがとう」の屈託のない笑顔。うん、十二分だ。



—4時限目 コミュニケーション英語

 昼食を済ませ、昼休みを終えた後なのでかなり眠気に襲われる。しかし、ここで寝てしまってはいけない。伊藤咲良の横顔を一瞬たりとも見逃してはならないのだ。他人からすれば脅迫めいた観念に思えるかもしれない。

 鈴木に指名され、英文を読む伊藤咲良。素人目にも分かるほど伊藤咲良の英語は流暢だ。誰がどう聞いても鈴木の発音より数段上だ。小学校時代をカリフォルニアで過ごしたらしい伊藤咲良はいわゆる帰国子女である。「では文中の it はどこの部分を指しますか?」という問いにも間髪入れずに答える。高校レベルの英語は難なくこなせるのであろう。そんな英語では、伊藤咲良は心なしか他の科目より活き活きした表情を見せる。僕の観念はより強いものとなる。



—5時限目 数学IIB

 数学の授業は少し楽しみだ。というのも僕はクラスメートより数学ができるらしい。授業終わりに毎回課題プリントが配られる。次の授業始めに、運悪く太田の気まぐれの標的にされた者がその課題の問題を解く。それに備えて4限後の休み時間にみんな急いで答え合わせを始める。そう、つまり僕の元に集まるのだ。とは言っても若干名に過ぎないが、その中に伊藤咲良も含まれる。他の生徒に教えながらも、真剣に理解しようとしている伊藤咲良の姿をしっかりと目に焼き付ける。

 今日は太田の気まぐれに相沢塾の生徒が2人犠牲になった。その内の1人が伊藤咲良だった。数学なんぞ正直どうでもいい。問題を解き終え、席に戻る伊藤咲良が僕の方を向き、微笑んでくれる。そう、それだけでいいのだ。他の誰でもない伊藤咲良だからいいのだ。でなければ、数学前の解法を教えている優越感や、教え子の成長を感じる達成感など無に等しい。伊藤咲良でなければ僕は数学なんて全くできなくていい。正直、授業そっちのけで伊藤咲良に見とれている僕より、授業をしっかり聞いていて、こんな簡単なベクトルの問題が解けないクラスメートの気が知れない。だから僕はこの才能に感謝している。




—放課後 部活

 円亀高校はよくある普通の高校だ。グラウンドではサッカー部と野球部が汗を流し、体育館ではバスケ部やバレーボール部、バドミントン部などが活動している。武道場も所持しており一通り部活動に触れている。決して広くはないが、全く場所が取れなくもない。文武両道を謳っており、実際に弓道部や吹奏楽部は全国大会常連、バスケ部やハンドボール部は県で1.2を争う強豪である。我らがサッカー部はそこには及ばないが、毎回県大会ベスト4ぐらいを維持しており、数年前には初の全国大会出場も果たしている。

 今日も厳しいメニューだった。ランやパスといった基礎練習の後、実践を意識したシュート練習、ディフェンス練習、紅白戦をかなりの量こなし、最後に走り込みというものだ。この練習をこなせているのは、昨年のベスト4を越え、さらには優勝というチーム全体の目標があるからだ。と綺麗事は言わない。もちろんそれもあるが僕にはもう1つ理由がある。そう、伊藤咲良だ。体育館のすぐ外にウォータークーラーがある。練習の合間に給水をとるのだが、その時間こそ待ち望んでいるものなのだ。体育館に入る扉がすぐそばにあり、部活中は開いているので中の様子が見える。バスケ部は本当によく走る。小柄ですばしっこい伊藤咲良を見つけるのはなんてことない。体格はもちろんだが、練習着で見分けられる。もちろん全て頭に入っている。今日は黒のシャツに赤いパンツの組み合わせ。最近のお気に入りらしい。短い給水時間を終え、また練習に戻る。この繰り返しだ。たまに給水のタイミングが被り、伊藤咲良御一行と出くわすことがある。男子が運動している姿はカッコいい(但しイケメンに限る)という世論があるが、逆もまた然りだと思う。体育の時とは比べ物にならない汗の量と頬の赤らみは、かなりそそられる。本当に伊藤咲良はかわいい。これがあるから部活が辞められないといっても過言ではない。



—放課後 M塾

 円亀高校から徒歩2分ほどの場所にM塾は立地している。小中高と生徒の幅は広いが、高校部に関しては円亀高校の生徒が9割以上を占めている。そう、つまり円亀高校のための進学塾なのだ。多い学年では、1学年280人の内、80人ほどがこのM塾に通っている。高校側はあまり塾の存在を良しとしていないが、事実、円亀高校が県内有数の〝自称〟進学校を名乗れているのはこのM塾あってこそなのだ。主な進学実績に名を連ねる生徒の多くがM塾出身である。

 僕ももれなくM塾に通っている生徒の1人だ。この塾には本当にお世話になっている。中学3年時に入塾し、スパルタとも言える授業を受けたおかげで、無事円亀高校に入学することができた。そのまま持ち上がりで塾に籍を置いていれば、そこそこの大学に進学できることが約束されている。そしてなにより感謝しなければならないことは、伊藤咲良もこの塾生であるということだ。高校から通い始めたのだが、塾ではかなり上位に位置付けている。M塾はよくある集団授業を行なっている。英語では一番上のクラスの伊藤咲良は、数学は上から二番目のクラス、つまり僕と同じクラスに所属している。お世辞にも数学ができるとは言えないが、英語の実力、全体の期待値も込めてこのクラスに配属されたのだろう。僕はこの週2回ある数学の授業がとても楽しみである。教室の座席は自由だが、ある程度固定化されてくる。伊藤咲良の斜め後ろが僕の特等席。学校指定の問題集を解いていき、指名された者は黒板に解答を書くといったやり方だ。適宜講師の解説やアドバイスが入るが、僕はあまりそれを必要としない。黒板に解いている伊藤咲良の背中で語るシーンも好きだが、やはり黒板の数式を理解しようとしているその横顔を見る方が好ましい。右手が頬の小さなホクロを隠している時間で理解度が測れる。英語も伊藤咲良と同じクラスになれれば万々歳なのだが、あのバケモノ揃いの教室で授業を受けることを想像するだけで恐ろしい。努力でどうこうなるレベルとは到底思えない。だからこの貴重な数学の時間を堪能しなければならないのだ。















この何気ない日常が僕は好きだった。いや、何気ない日常に存在する伊藤咲良が好きだった。見ているだけでこれほど幸せなのか。人をこんなに好きになるのは初めてだ。この気持ちが何なのか分からない。どうしたいのかも分からない。ただひとつだけ分かるのは、僕は伊藤咲良が好きだった。








—ある日 教室

 放課後、部室へ向かおうとしていると、宮脇に呼び止められる。伊藤咲良の親友だ。

「部活終わったら体育館裏に来て。絶対ね。」

言い終わるや否や、勢いよく教室を飛び出していった。いきなりのことで何を言っているのか理解できない。少し間を置き状況の整理を始める。伊藤咲良には全く及ばないが、彼女も世間一般でいう「かわいい」の部類に入るのだろう。部員の中で度々話題に上がっている。淡い期待をしているわけではない。断じて僕は「イケメン」、「かっこいい」などにカテゴライズされる容姿を持ち合わせていない。これは謙遜でもなんでもない。幼稚園時代から今まで告白をされたこともなければ、バレンタインを受け取ったこともない。彼女などもってのほかだ。ただ、自己評価を下すなら「中の中」といったところだろう。初対面の女性に嫌悪感を抱かせるほど酷い容姿でないことは自覚している。しかし、初対面の女性の瞳孔を開かせるほど魅力的な容姿でないことも自覚している。ともあれ、呼び出しを無視する勇気はないので向かうしかない。



—ある日 体育館裏

 部活を終え、いつもなら塾へ向かわなくてはならないの時間なのだが今日は違う。あの一件を清算しなくてはならないのだ。部員にはそれとなく理由を告げ、指定された場所に来ている。

 数分。普通の男子高校生ならこの時間が何倍にも感じるのだろうか、以前本で読んだことがある。しかし、僕にとっては数分のことだった。コツコツ...。ローファーと体育館周りのアスファルトが擦れ合う音がする。あの角からやって来るのだ。直感した。刹那、曲がり角から伊藤咲良が姿を現した。






どういうことなのだろう。

頭をフル回転させようとする前に伊藤咲良が話しかけてきた。


「ごめんね、時間取らせちゃって。春菜から聞いた?」


聞いたといえばここに来るようには聞いたのだろう。


「うん、部活終わりに体育館裏に来てって言われた。」


伝え漏れはない。


「それだけ?」


意外な回答に少し戸惑ったが、


「うん。」


とだけ返した。


「そっかぁ...。よし、じゃあ言うね。」


何かを決心した彼女の顔は、どこか照れくさそうでかわいかった。




「あのっ...、アイザワクンノコトガスキデス!」





















−僕は好きだった。

屈託のないその笑顔。

授業中の真剣な横顔。

全てを忘れさせてくれるその寝顔。

友人と話しているその姿。

部活で汗を流している姿。


あらゆる伊藤咲良が好きだった。




本当にそうなのだろうか。確かに伊藤咲良を見るのが好きだった。この命題は真だ。だが僕が好きだったのは伊藤咲良なのか、伊藤咲良を見ることなのか、伊藤咲良を見ている僕自身なのか、、、




考えれば考えるほど分からない。

メビウスの輪を走り続けている。

どこかに切れ目はあるのだろうか。





















僕は好きだった。





だから僕は失った。

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