書き落とし短編集
渡辺都
万有引力
空は曇っていたが、いやに明るかった。
目の前には、駅前の雑居ビルの一階に入っている書店がある。書店らしく、自動ドアには小説や漫画を問わず新刊の発売を告知するポスターがみっちりと貼られている。人通りが少なく、またわずかな隙間から見える店内にも人が居ないようで、駅前だと言うのにいやに静かだ。今日ここで、両親への復讐を果たす準備をする親不孝者がいるとは、誰も夢にも思うまい。……そもそも、思う人が居ないのだが。
今日ここへ来た目的は一つ。谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』という本を買いに来たのだ。思わず武者震いをしてしまう。この本をあのひとたちにたたきつけてやったら、どんな顔をするだろうか。自分たちの行いを反省するのか、それともあのひとたちのことだから、自分のことは棚に上げて僕を罵倒するかも。この恩知らずが!なんて言われちゃったりして。おっと、そろそろ時間だ。バスが来る。
狙い通り、僕の後ろの停留所にバスが到着した。扉の開く音がしてたくさんの人が出てくると、僕をきれいに避けて駅の方へと向かう。たくさんの話し声と足音が僕の思考を塞いだ。うまくいった。これで立ち往生せずに意を決して書店に入ることが出来る。書店の前で立ちすくむことは一度や二度ではなく、そのたびに僕はあのひとたちへの復讐の機会を逃してしまっていた。前は、街外れの書店の前まで来てためらってしまった。でも今回は違う。この鬱陶しくてうるさい雑踏が今ではコンサートの後に浴びる拍手のように心地が良い。ふっと息をついてビルを見上げ、
バスのドアが閉まる音を合図にして書店の中へと飛び込んで行く。
書店の中はがらんとしていて出版業界の不況を目の当たりにした感覚を覚えた。本、好きなんだけどな。どうしてみんな読まなくなっちゃったんだろう。平積みされているベストセラーの本を一冊手に取り、ページをめくる。なんでも最近はあるアニメ映画の影響でボーイミーツガールなんてものがはやっているんだとか。僕も流行にあやかって運命の出会い、とやらをしてみたいものだ。僕は自分の家族が欲しい。選択権なく与えられた家族ではなく、ちゃんと選んだ人と築く家族が。
数ページ読んだところで慌てて我に返った。これからヒロインと初めて出会うシーンで、それなりに面白かったのだがいかんせん今日の僕は復讐の道具を買いに来たのだ。油断してはいけない。本を元の平積みへもどし、詩集のコーナーを探す。そこまで広くない書店なので、店員さんの手を借りずに見つけられそうだ。僕はいくつかの棚を渡り歩いて目的の棚へと誘われていった。
「谷川俊太郎……っと」
指をさして棚をなぞっていく。正直詩はよく分からない。どうして僕が二十億光年の孤独を探しているのかも、僕はよく分かっていない。ただ、惹かれたのだ。それは、僕が孤独であるからかもしれない。
僕があのひとたち――一応、僕の両親――への復讐を決意したのは、新品のまま長らく放置されていた、ベビー用品や、女の子の名前のところに付箋や印が付いた名前辞典を押し入れから見つけたときだった。それまでもあのひとたちの言動に抱いていた若干の違和感は、その瞬間に僕を孤独にした。母親が僕の顔に手を伸ばし、肌がきれいだといった後に「もったいない」と言ったことや、仕事帰りの父親が母親の一人で家事をして大変だという愚痴を聞いたときに「女の子だったら手伝ってくれるだろうにな」と言ったこと。実際には、風呂掃除だったりとかできることはやっていたのに。つまり僕は、両親の望んだ性ではなかったという事実が、今まで喜んで受け取っていた愛情めいたものを一瞬で生ごみにした。だからこそ、復讐するんだ。僕はあなたたちの子供じゃない。だって女の子じゃないから。あなたたちが僕に与えていたのは愛情ではなく本来だれか女の子に与えられるべきだった感情の切れ端で、あなたたちは僕の家族ではない。僕は孤独、一人なんだということをあのひとたちに伝えることが復讐なんだ。
「あった……!」
本を見つけた瞬間、思わず息をのんでしまう。心臓がうるさいくらいに早鐘を打っている。衝撃で血液が波打って、本棚を指さす僕の手を震わせている。もう少し、もう少しで手が伸びるのだ。視界が、その中心にとらえた本だけを残してどんどんにじんでいく。あと数センチ。僕は必死の思いで手を伸ばす。たかが本だ、爆発なんかしないよとどこか冷静な頭の中の僕が自身を見て嘲る。それでもこの本は、爆弾なのだ。あのひとたちへの最大の反抗となる本が、あと少し手を伸ばせば僕の物になる。そのほんの数センチがたまらなく長く感じた。あと少し。この本を買って、あのひとたちに渡さなければ。
そしていよいよ本の背表紙に触れたその瞬間、僕は奇妙な暖かさを感じた。今までに感じたことのない、不思議な暖かさだった。完全ににじみきってしまった自分の視界を、頭を振って正常に戻す。僕の眼には、「二十億光年の孤独」に指をかけた僕の手と、それに重なるように添えられた誰かの手、だった。
「これは譲れません」
最近流行りのボーイミーツガールだと、これがいわゆるヒロインのとのファーストコンタクトなのかも知れないが、僕は相手をろくに確認もせず、反射的にそう言葉を紡いでしまった。悪いけど、この爆弾は譲れないんだ。
※
男の子の手だった。あの方々に対する復讐の爆弾ばかり見ていたから、つい私のほかにもう一人、偶然にも同じ本に手を伸ばしている人がいるなんて気がつかなかったし、思いもしなかった。意図せずして触れたその手は大きくて、すらりとした長い指が本の背表紙をまるで危険物でも扱うかのようにつまんでいた。……いや、気のせいなのかもしれない。ただ単に、私と同じ境遇なのかもしれないと、ひそかに期待したからそう見えただけなのかも。
「これは譲れません」
低くて落ち着いた声が私の上からゆっくりと降ってくる。しっかりした腕、大きな肩、少し太い首。若干伸びた無精ひげは、あんまり似合っていなくて思わず笑いそうになってしまった。だって、顔にはまだどこかにあどけなさが残っていたから。背伸びして大人になってそうな、そんな可笑しさがあった。
「本当にすみません」
彼は私をまっすぐに見つめてそう言った。その目にどこか親近感を覚えてしまい、はてどこかでこの目を見たことがあったかなとつい考えてしまう。彼の黒い――日本人だからということを除いても――瞳は、どこか沈んだ印象を私に与えた。その中で何かが動き、私は思わず見入ってしまうが、動いたのは彼の瞳の中に移った私だった。髪、梳いてない。ぼさぼさだ……。
「大事な本なんです」
彼はそう付け足して笑った。私がいつもあの方々の前で笑うみたいに、無理やり笑っているなとなんとなく思った。動いているのは口の端だけだったから。それに、私に笑いかけたって無意味だって思っているはずだから。私も、あの方々に笑いかけたって無意味だって知ってるから。私の生は望まれたものじゃなくて、私がどうなろうがあの方々――一応、私の両親――は興味がないからこそ、無意味に笑う。だから、どうして名前も知らない初めて会ったばかりの彼の眼に惹かれたのかがわかった。私と同じなんだ。どうしてまだ生きているんだろう、なんて思いながら毎朝覗く鏡に映る、私の死んだ眼とおんなじなんだ。私は、この数分間の逡巡で、彼と私が似たものであるというある種の確信を得た。
「私にも、わかる気がします」
ピク、と彼の目じりが動いたのを見逃さなかった。同情なんていらない、とスレてしまった結果なのか、はたまた仲間を見つけた喜びからかわからないけど、私の言葉にこの人は反応してくれた。いつも虚空を斬るかのように誰にも相手にされない私の言葉が、初めて人に届いた!
「……大事な本ですよね?」
この人となら、会話ができる。私の話を聞いてくれて、私の話に返してくれる。もちろん、彼から飛んできたらきちんと返すつもりだ。私と話をしてくれる唯一の人なのだから。私がどんなところでどんな思いをして生きているか、まだ知らないから……。
「ええ。大事な本です」
「誰かに渡すんですか?」
私の言葉を聴いた瞬間、彼は大きく目を見開いた。思わず笑みがこぼれてしまう。無意味な笑みじゃない。こんなところまで目的が一緒という喜びよりは、私の話を聞いてくれているという喜びのほうが大きい。それに、彼もなんだかうれしそうな顔をしている。一緒の顔になるための笑みだ。あの方々に向けるものとは違う。
「ま、まあ……」
「誰、ですか?」
どういうわけか少しうれしそうだった彼の顔は少し翳ってしまった。脳内信号が一気に危険を知らせる。今までの経験上会話している相手の気分が落ちたらすぐにあやまらなきゃいけないことはわかってる。……そんなつもりなかったのに!
すぐさま、ごめんなさいと謝って手を引いた。よく考えれば手もなんだかんだ触れたままだったけど、今はそれどころじゃない。一気に血の気が引いて、彼の手から離した手が自然と頭の上へ向かう。これは、いつも謝るときの癖。
「大丈夫ですよ」
え、と間抜けな鳴き声を出してしまい、顔が熱くなる。いつもと違って振ってきたのはやさしい言葉で、思わず体の力が抜けて、へたり込んでしまった。
「うわ!だ、大丈夫ですか?」
彼の長い指が私の手のひらにまとわりついて、なんともいえない安心感を与えてくれる。恥ずかしくて、顔が直視できずにうつむいたまま彼に返す。
「だ、大丈夫……です」
「すみません、脅かすつもりはなかったんです。ただ……」
彼はそういいよどんで押しだまってしまった。ただ?と、続きを促すと、彼は意を決したように続けてくれる。
「一緒の境遇なんじゃないかって、期待したくなかったんです」
期待するのが怖い。その気持ちは十分にわかる。私もたくさん期待しては裏切られを繰り返してすっかり期待するということを忘れてしまった。それなら、私から行動するべきじゃないのか。ちっぽけだけど、彼にできることはそれしかない。
「……両親に渡すんです」
彼が息を呑む音が聞こえた。あたりかはずれかはわからない。でも、そのまま続けるしかない。
「私、年の離れた兄がいるんですけど……年齢差からして、たぶん作るつもりのない子供だったんだと思います。」
彼に手を引いてもらって地面から立つ。今度は、しっかり彼を見て。
「望まれた生じゃないんです」
スッと心の奥底にある何かに触れる。まるで、氷塊みたいなそれは触り続けるとどんどん私の心を冷やしていく。それでも、彼に伝えたい。私の話を聞いてくれるたった一人の人だから。
「愛情っぽいものはもらえましたよ。でも、兄に対するものとはやっぱりどこか違うんですよ」
何か特定の出来事がある、とかそういうわけではない。強いて言えばよく手を挙げられていたことだろうか。
「だからこれは、親に対する復讐なんです」
「復讐……」
「そう。こんなきれっぱしの愛情なんかいらねーよって、顔面にたたきつけてやるんです」
今まで押し付けられたきれっぱしの愛情を、二十億光年の孤独に乗せて顔にたたきつけるところをそうぞうしたら、なんだか急に可笑しくなってしまった。くつくつと腹のそこから笑い声が止まらない。
「……僕もですよ」
一瞬で、笑いが引っ込む。こんどは私が聞く番だ。
「僕の場合は、性別のほうの性です。望まれない性」
「つまり、女の子がよかったってことですか?」
「そう。笑っちゃいますよね。使いもしない女の子用のベビー服いつまでも仕舞ってるんです」
「それは……笑っちゃいますね!」
私たちの親というものはどうしてここまで間抜けなのだろう。愛せないなら素直に捨てればいいものを。世間体かな。ということを私が言うと、もう可笑しくて可笑しくて、二人して本棚に腰掛けて腹を抱えて笑ってしまった。
「生ごみ!きれっぱしの愛情でも言い過ぎかなって思ってたのに!」
中でも彼があのひとたちからもらったものを生ごみと形容したのには腹がよじれてしまうかと思った。
「ね!生ごみで育つって植物じゃないんだから」
「私たちが植物みたいに何も言わなかったらよかったのにね」
「そう思ってたからこそごみで育てられたんでしょ!」
本当に、本当に楽しい時間だった。散々笑った後、私たちはどうしてお互いが谷川俊
太郎の「二十億光年の孤独」にたどり着いたのか気になって、話してみたくなった。
「そもそも、どうして谷川俊太郎にしようと思ったの?」
「私?私は……ほら、ここ」
本を取り出して詩の一部を指す。
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
「求め合うってあるじゃない?あんたたちには何も求めてないって大声で言うつもりだった」
そういうと彼は、おんなじところだと言って押し黙ってしまった。そうしてそのまま、ゆっくりと時間が過ぎていく。無言だけど、心地の良い時間が。
「……帰ろっか」
時計はとっくに七時を回っていた。何時ごろに書店にはいったか覚えていないけど、少なくとも一時間はこうしていた気がする。
「そうだね」
彼は、送っていくけど、その前にと言ってトイレへ行ってしまった。残された私は、「二十億光年の孤独」と一人向き合った。
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
くしゃみをした、というお茶目な文面に、ふと元々合ったのかわからない、いたずら心に火がついた。いたずらというよりは、サプライズとかに近いのかもしれないけど。
※
いろんなところが一致した彼女だったけど、さすがに家の方向は違った。それでも、途中までは一緒だったので送っていくことにする。明日のこととか、どこの学校に通っているのかとか、取り留めのない話をして、分かれ道までたどりついた。
「今日はありがとう。楽しかったです」
本当に、楽しかったから。きちんとお礼を言わなくちゃね。
「……私も。」
街灯の下で暗くてよくわからないが、彼女がなんだかもの言いたげな表情をしていることに気づく。
「どうしたの?」
「これ」
彼女が差し出したのは一冊の本だった。「二十億光年の孤独」、僕にはもう必要ない。
「あ、ありがとう……でも、もう必要ないよ」
「必要だよ」
「へ?」
どういう意味かわからずじっと彼女を凝視すると彼女は、頬を少し膨らませ僕と彼女、お互いを交互に指差しながら、
「万有引力」
とひとこと言った。
空はいつの間にか晴れていて、星が見えた。明日はきっと晴れるだろう。
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