第48話 トーンドーン(その2)

 コーヒー二つと、サラダと木の実を注文して、椅子にもたれたレノーとクルルはくつろいでいた。レノーたちをじろじろ見る者もここにはいない。


 (もう西の空は赤黄色くなって来ている。ここがほんとうに昔チギレだったとしたら、あの海の底に、小島が沈んでいるはずだ。地元の人たちならそこに何があるのか知っているだろう。海の中なら、クルルはもぐって行ける)


 先に情報を集めるべきだ、と彼は気を引き締めた。包帯の巻かれた手と腕を、だれかに疑われないように。そういう意味では、クルルといっしょにいることは都合つごうがいい。かれたなら、あくまで大道芸人のファッションなのだと言って通し抜く。


『レノー、子供や若い人はあたちたちだけね』

 クルルの書き付けを読んで見回すと、たしかに中年以上の男女ばかりだ。人々は落陽に見とれたいのだ。

 注文したものが運ばれて来た。クルルがコーヒーをすする音を聞いて、彼は辺りがひっそりしていることに気がついた。皆落陽を待っている。レノーが物思いにふける間、クルルはサラダを食べ、木の実をかじった。

 夕焼けは徐々に深く空を染めて来ている。レノーはまた頭がぼんやりしてきていることに気づいた。


 (いま、ここでは困る。イマ、ココデハコマル)


 西の空には小さな雲が一つ浮かんでいるだけで、焼け始めた夕空が彼には血走った目みたいに見えるのだった。彼の言葉による思考は停止して、漠然ばくぜんとした絵画のような印象が変化をつづけながら彼をとらえてまなかった。時間はあっと言う間に過ぎて行く気もしたし、夕暮れはひどくゆっくりしているようにも思われた。


 クルルも落陽を見つめていた。陽も海も色がどんどん変わり、金色に染まり始めた。海の果てから河口まで、河口から河をさかのぼりここまで金色の光に染まり、どこからか遠い鐘の音が鳴るのが聞こえて来た。


 海からの夕風はカフェにいる人々を優しくいたわった。光と風……。辺りはもう若くはない人ばかりだ。天高く、すでに早い星が輝きだして、一日の終わりが訪れようとしていた。水面はちらつく光でいっぱいだ。

 レノーは突然言葉を思いついた。


「『金色きんいろの旅人たち』だ、ここにいるのはみんな金色の旅人たちだ、クフィーニスもドブシャリも関係ない」


 つい、そう口に出してしまった。それはとても危険な行為だった。

 

 レノーの万華鏡まんげきょうも金色でいっぱいになった。陽はいまや海に没しようとしていた。だれもが金色の世界と照応し合う至福しふくの時を過ぎると、落日はあっという間に人々の喜びを奪い去った。


 クルルがお手洗いに行くと言って席を立ち、レノーはぼんやりした状態から抜け出そうとした。その時その男と目が合った。麻の背広を着て立っている中年男だ。男は手招きでレノーを呼んだ。レノーは、なぜだろう、ふらふらと席を立って男のそばまで歩いて行った。クルルのことも忘れていたし、何の危険も感じなかった。しかしそれは初めてフェミと会った時のような安全な感じとは異なっていた。レノーの頭にはフェミのことすら浮かばなかった。


「よく来たね。こんなに遠くまで、ほんとうによく来た」


 男はそう言って、自分は医者のフィルだとつけ加えた。

「君たちを待っていたんだ。私は君たちの味方だ。君たちの仲間とも、すでに会っている」

 レノーはそこで思い出して、フェミとアルルはどこにいるのかと尋ねた。フィルはにやりと笑った。

「ついておいで」

 彼はついて行った。


 取り残されたクルルは戸惑っていた。手と顔を、洗ったはず、だ。そしてカフェのホールに、戻って来た、はずだ。だれもいない。レノーも、カフェにいた客たちも、ウェイターでさえも、一人もいない。明かりも何も、ともされていない。まだ空には薄明りが残っていたが、そんなことより、このカフェは営業などしていない。自分も、コーヒーなど飲んでいない。ほこりにまみれたテーブルに、レノーと自分の荷物が置かれている。コーヒーカップも何もない。こわれかけた椅子に、自分とレノーが腰かけていた、その形跡しか残されていない。近くにいたはずの馬も馬車も、どこにもなく、人の声すらせず、クルルは自分がレノーみたいにおかしくなってしまったのかと錯乱しかけた。


 レノーの名を叫んだが、ギャバギャバいうだけで、これは自分のいつもの声だ、少し安心した。あわてて荷物を確認した。何とか金はあった。何もなくなってはいない。ただ、レノーの姿がどこにもない。何が起きたのか、起きているのか、クルルにもわからなかった。とにかくレノーの姿を求めて、大きな荷物を背負うと彼の姿を探しに行った。

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