第50話 幻覚
「失敗だ」
レノーは、フィルがそう言った気がした。今度レノーが落ちたのは、現実とも夢ともつかない奇妙な世界だった。
彼は診察室にいるフィルとレルムを眺めていた。レルムは黙々とレノーに
「失敗だ。薬が効きすぎた。いったいなぜだ? レルム」
助手は黙っている。
「身体が小さいから? いや、そうではない。薬の分量が多すぎたことはたしかだ。せっかく捕まえたクフィーニスだ、薬が切れたらもう一度
フィルは椅子に腰かけて何か考え事をしていたが、突然手を打つとまた話し始めた。
「こいつはドブシャリといっしょだった。荷物も持っていた。あのドブシャリとレノーの荷物を、どうにかして手に入れられないだろうか?」
「ドブシャリは話なんかできませんよ」
レルムが沈黙を破って言った。
「カフェに行って、レノーの荷物があるかどうか探して来ます。あったなら、持ち帰ります」
「そうしてくれ。手を焼かせる奴だ。これまでの連中とは違うんだ、あと一息で重要な情報が手に入るんだ。絶対に
「まさに絶好のカモですよね」
「待てよ、こいつは、自分は病気だと言っていた。何の病気だ? それで飲んでいた薬のせいで、私の薬が効き過ぎたのかも知れない」
「こんな小僧に、高い薬を買うほどの金があるとは思えませんが」
「こいつには何人か、仲間がいるらしい。トーンドーンに来ているようだ。ことは慎重に、しかし素早く運ばなければならない」
「これだけ薬が効いていれば、当分目を覚ましたりはしないでしょう?」
「そういうことだ。目が覚めてきたら、あやしながらでも情報を聞き出すさ」
「能力を使ったりしないでしょうね?」
「まさか。使ったとしても、せいぜい服に穴が開く程度だろう」
「かわいいクフィーニスですね」
「まったくだ。実に都合がいい。あの
フィルはレルムと二人でレノーの身体を抱え上げると、さらに奥の部屋につづく廊下を運んで行った。地下室へと、階段を下りて行く。
「レルム………こんな機会はめったにないぞ」
承知しています、と助手は答えた。
「うまくすれば億万長者だ」
では行ってきます、と微笑んでレルムは診察室を出た。静かになった診察室で、医者はつぶやいた。
「まぬけな助手めが。お前も田舎者なんだ。金は私の独り占めだ」
こうしたすべてのことを、レノーはそれぞれの部屋の天井の近くから眺めていた。何がどうなっているのか、わからない。
気がつくと彼はその部屋の中にいた。まっくらだ。何かすえたような臭いがする。もうフィルやレルムの気配はしない。この部屋だけが世界の全部になってしまったようだ。何とかして診察室に戻ろうとして、彼は自分が鎖につながれているのに気づく。
同時にでも、診察室に戻らなければならないと強く感じた。だがしばらく意識がいったん途絶えて、それから手さぐりで暗闇に腕を伸ばすと、柵、のようなものに行き当たる。——ここは牢屋だ。
(あの医者は俺をだました。ここから逃げ出さなければならない。いや、この牢の方が、フィルよりさらに恐ろしい。俺は変な薬を飲まされた。鎖の金属音がじゃらりと鳴る。動きがどんどん鈍くなってくる。鎖を外せるのか?)
その金属音は、彼が立てたものではないことに気づいた。意識が緊張する。
彼は自分の身体が、いくらも動かなくなったと判断した。
(動かない。まるで
さらに緊張が高まる。だが突然、不意に意識が遠くなって、彼は、これは夢だと思うものを見始めた。
海が青い。白い翼の海鳥たちが、切り立った崖の上を飛んでいる。
ほとんど人のいない、大きな崖の上に、二つのちっぽけな生き物の姿が見える。フェミとアルルだ。フェミは日焼けしている。何の話題か、会話を交わしてから二人は日陰を求めて海を背に歩き始める。ずっと向こうに濃い緑の森が見えている。レノーはフェミに話しかけた。
≪フェミ、何かわかったかい?≫
フェミはレノーの存在に気がつかない。アルルの手を取って、彼女はゆっくりと歩いている。
「何もわからなかったね」
ギャバ、とアルルが返事する。レノーはもう一度フェミに語りかけた。
≪フェミ、初めての海の感想は、どう?≫
アルルのペタペタいう足音が聞こえる。強い風が吹いて、フェミは手で髪を押さえる。彼女は突然歌い始める。だが風が強くて彼の耳には途切れ途切れにしか聴こえない。
……
行こう 行こうよ
ペタリン連れて
……男の人を
……知っている
見た……ない……へ
ジプシーにだって……
もしも……見失い
離れ離れになる時は
ペタリン……見つけ
引き合わせ……
彼が初めて聴く歌だった。
(俺はいま、彼女のそばにはいないんだ。ではどこから二人を見ているのだろう? そもそもこれは、夢なのか?)
彼は何か大事なことを忘れていた。
空の
(もう夜なのに、なぜこんなにまぶしいのだろう? いや、あの医者たちと出会ってから、どれほどの時間が過ぎたのだろう? 俺はみんなのそばにいるべきなのに、どうしてそうじゃないんだろう?)
レノーの発想は、フィルの薬を飲んでから、すっ飛びつづけていた。彼はその薬で夢のような、幻覚を見ていた。
そして今度は、過去にどこかで会ったことのある人たちが、彼のまわりを取り囲んでいる光景の中にレノーはいた。皆絶対に彼がよく知っている人たちだ。彼はそう判断した。
だが彼が声をかけようとすると、人々の姿は皆消えていなくなってしまった。
一度も話したことのない顔見知りを、あれはレジーだった、と彼は決めつけておかしかったし、彼が名前を思い出さなければならない人はまだ他にたくさんいた。
レノーはまたフェミとアルルの姿を見始めた。二人はのんびり歩いている。彼は二人を見失うまいとした。もう森の近くまで来ていた。彼はまたフェミに話しかけた。
≪フェミ、俺はいったい、どこにいるんだろう?≫
その問いは彼に悪夢を思い出させた。しかしまだフェミとアルルの姿は見えている。
≪クルルとはぐれてしまった≫
彼は必死になってフェミに訴えた。
≪みんな、トーンドーンに早く来てくれ≫
俺は鎖につながれている、そう彼がつぶやくと同時に、フェミが彼の方を振り返って、彼の顔を見つめたように思えた。
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