グリーン・フェニックス

羽音 彰麿

第1話 夏の誕生日(赤手)

 淡い緑の匂いがそよ風に乗ってあたりにける……。レノーはまだ夜の明けぬうちから起きていた。星空はじきに燃えあがり、やがてあおい空にそのいろどりを変えるだろう。遠い東の島では、だれもがあおい空に魂をうばわれるという。だがレノーはその話を信じなかった。


 (自分の魂はだれにもうばわれはしない。ただやがて肉体が滅びると同時に、消えてなくなるだけだ)


 レノーの運命はさだめられていた。彼は病におかされていた。その土地の病にかかった者は、祝祭の日に村を追い出される。レノーのように消えてゆくさだめの者は過去にもいた。村を追放されるまでどのように過ごすかは、病んだ者それぞれだった。運命に逆らいあらがう者、なされるままに受け入れる者、逃亡して行方知ゆくえしれずになる者……。彼らはクフィーニスと呼ばれ、呪われて一人旅に出される。そして形式上、次の祝祭の日までに村に戻らなければならない。「あかし」を持ち帰った時にのみ、クフィーニスは生き続けることができる。土地の病をいやすのは、唯一この「あかし」だけだからだ。


 レノーは北の空を見あげた。十二の星々からなる「時の」座が見え、その輝きを刻一刻と失いつつあった。空の一部を埋めていた「騎馬きば」も「竪琴たてごと」も東の空の薄明りからの光の中に吸いこまれてゆき、おびただしい数の星々の赤や黄や緑や青をとかしこんだ朝焼けが少しずつ広がってゆく。極彩色ごくさいしきの鳥の野卑やひな鳴き声がして、蝶や蜂がかすかに動き始める。また新しい一日が始まった、新しい夏の歌だ、とレノーはつぶやいた。


 自分だけの秘密の場所に彼はいるのだった。小さな谷を見下ろし、低い稜線りょうせんのぞむ、しだれた枯れ木に囲まれた隠れ家。ここにいると安心する。自分からは四方しほうや空や谷が見られるけれども、外からは自分の姿は見られない。他人の通り道からも遠く離れている。


 一晩じゅう、この山や谷を、百のたいまつが、あるいは遠く駆け、あるいはじっと一カ所にとどまる者たちによってともされつづけていた。それらの炎の色あいも、星の輝きに似て、あざやかな山吹色だったものが、淡くさだかでない透き通った色をした、空気の揺らめきにうつろっていった。朝がおとずれた今では、あちこちの小屋からあがる白い煙が、燃えさかる炎がそこで消されたことを示すばかりだった。


 (皆まだ自分の姿を探している、でもむだだ、結局自分からあの場所へ出て行くのだから)


 レノーには逃亡するつもりはまったくなかった。ただ生まれ育った山や谷間での日々を思い起こし、自分の秘密の場所にいたかっただけだ。


 空が割れるような、太鼓を打つ音が響き渡った。谷間にある中央広場に集まれ、という合図だ。たいまつをもよりの小屋で消した百人の追跡者たちが、レノーの捜索そうさくをあきらめ、しかし弓や剣をたずさえて、儀式の主な舞台である広場をめざして歩きだす。

 レノーも行動を起こした。秘密の場所から、だれも通らない道ならぬ道を全速力で駆け、だれよりも早く中央広場に行き着こうとした。途中流れの小さな川を飛び越え、畑を横切った。

 祭りが終わると麦刈むぎがりが始まる。クフィーニスが出るとその年は豊作ほうさく、という言い伝えがあった。その通り、麦はよく実っている。


 (いまに自分は殺されるのだ、これまでに「あかし」を持ち帰った者など一人もいやしない。「あかし」ってなんだ? ——いや、それよりも……)


 レノーは自分がクフィーニスになった日のことを思い出した。彼はまめに父や母の手伝いをこなす、平凡な少年だった。まだこの谷が白い冬に閉ざされていたある日のこと、彼は明け方から狩りに出かけていた。前日に仕掛けたわなをしらべ、つもった雪の上に残された獲物えものの足跡をたどったり、新たにわなをしつらえたり、することはたくさんあった。


 年かっこうの変わらぬ兄といっしょだった。一匹のドンの足跡をレノーが見つけた。林の中で樹の上にのぼったのだろう、追跡はそこまでだった。

 兄がわなをこしらえ始めた。レノーは樹を見上げ、あちこちの枝の上に、白い冬のよそおいをしたドンの姿を探し求めた。


 灰色の曇り空、針葉樹の暗い、雪によってまだらにけずられたように見える緑と黒の枝葉えだは、濡れた茶色の幹。時おり小さな雪のかたまりが落ちてきてドンのいどころを知らせる。しかしドンの姿は見えない。探し迷っているうちに兄のいる所からずいぶん離れて来てしまった。だが雪の降りはさほど強くはなく、自分の足跡をたどれば兄の所に戻れる。


 振りかえった時、レノーはドンを見た。彼の裏をかいて、ドンはもと来た方へと戻ろうとしたのだ。すでにドンは樹から降りていた。ドンは高価なけものだった。ドンが、というよりは、ドンの毛皮が、だったけれども。このままでは逃げられてしまう。兄のこしらえたわなの方へ行くともかぎらない。

 レノーの狩りの能力を考えてみれば、追う必要はなかった。罠はいくつもあり、ドンはいずれそれにかかるかもしれない。だがドンをいま捕えたい。レノーの子供っぽい我意が勝った。人間が走って、素手でドンを捕まえられるわけもないのに。兄は年の割りに大人で、弓の名手だった。いちおう兄のいる方へとドンを追うけれども、自分が奴を捕まえるのだ。


 ドンは木立こだちの中、雪の上を素早く跳躍ちょうやくして不規則に進路を変えて逃げる。レノーは足の速いのがだった。ドンの後をたいへんな勢いで追いかける。だがドンは捕まらない。

 運よく美しい獣は兄のいると思われる方に逃げている。しかし……。


 (樹がじゃまだ。樹がじゃまなんだ……。樹さえなくなればドンを捕まえられるんだ)


 。目の前にしている木々が真二つに裂けて倒れる、そのくっきりとした像がレノーの脳裏のうりに浮かぶとほとんど同時に、もうもうとした白い雪煙ゆきけむり地響じひびきを立てて、本物の樹木がつぎつぎに倒れて行った。

 そして山がうなりほえる声が聞こえ、レノーは樹木の立ち並ぶ背後へと走り、いちばん近くの樹に飛びつくと大急ぎでできるだけ高くそれに登った。すぐになだれがやって来た。だがそれは比較的小さななだれだった。

 レノーのいた辺りは直撃をまぬかれたが、けて倒れた樹の一部が谷へ流されるのを見て、彼は恐ろしくてならなかった。

 兄はどうなっただろう? 白い煙が徐々じょじょに消えて行くとともに、あたりの様子がすっかり変わってしまっているのが見て取れた。ひどく静かな中で、レノーはまだ登った樹にしがみついていたが、遠くから兄が自分を呼ぶ声が聞こえてくる。


 ドンなどもうどうでもよかった。レノーは知っていた、それが土地の病で、自分がクフィーニスになったことを。一人ふるえていると、駆けつけた兄が荒い息づかいでレノーにケガはないか、とたずねた。兄もまっさおな顔をしていた。

「あれを見ろ」

 兄が指さす方を見やると、近くで二つに裂けた樹の枝の下敷したじきになって、あのドンが、死んでいた。

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