あなたのいる場所

旅人

Ver. 1

 私が大崎和明に出会ったのは、都庁で行われた新規採用職員向けのオリエンテーションでだった。彼は黒いスーツを着て、少し猫背気味にパイプ椅子に座って字の細かい文庫本を読んでいた。眼鏡をかけた顔は俯いていても知性を感じさせるもので、ふさふさした髪は太くてくせ毛だった。背の高さは平均くらいで、中肉中背と言ってよかった。全体的に、大学時代に共同研究でお世話になった首都大学の院生たちに似ていた。年は私より少し上、三十歳手前くらいだろうか?


 私が彼を見て驚いたのは、彼が三類、つまり高卒相当の職員の席にいたからだ。私は少し迷って、彼に声をかけた。

「すみません……、あなた、多分、席を間違えていますよ」

 そう言って私は「三類」と書かれた札を指差した。彼は驚いたように文庫本から目を上げた。パタンと本を閉じて私を見上げる。本のタイトルが垣間見えた。岩波文庫の『存在と時間』、ハイデガー著。

 彼は少し紅くなって、私に戸惑ったような目を向けた。

「いえ、正しいと思います。私は三類なので」

 そう言って、スーツの内ポケットから書類を出してみせた。


「東京都庁新規職員オリエンテーションのご案内。三類(障害者枠採用)採用 大崎和明殿」


 私は息を飲んだ。気詰まりな時間が流れる。彼は全く健康に見えた。脚も、腕も、スーツの上から見た限りでは健康そうだった。内臓の病気だろうか?

「身体障害ではないです。精神の方なので」

 彼は両手を上げて少し笑った。無意識に彼の身体を眺め回していた自分に気づいて今度は私が紅くなった。

「ごめんなさい、私……」

「いいんですよ。私、大崎和明と言います。事務職です。趣味は読書と散歩です。よろしくお願いします」

「私は洲本陽子です。同じく事務職です。趣味は……」

 私はここで詰まった。初対面の同僚に、趣味を言い合うのはなんだか変わっているな、と思った。合コンみたいね、そう思って私は思わずクスリと笑ってしまった。

「趣味は、カフェ巡りと読書です。小説しか読まないですが」

 そう言って彼の膝のハイデガーに目を落とす。彼は笑った。

「私も小説は読みますよ。カズオ・イシグロとか」

「え、本当ですか? 私も好きです、『私を離さないで』とか」

「ぼくも読みました。切ないですよね、すごく……。今は “Nocturnes” を読んでいます」

 私はいきなり出てきた英語に戸惑った。綺麗な発音だった。

「誰の本ですか?」

「カズオ・イシグロですよ。あぁ、日本語では『夜想曲集』って言うんだっけ」

「英語で読んでいるのですか?」

「ええ。読みやすいです。ぼく、昔読んだ時にサマセット・モームは難しいと思ったんですが、最近の本は読みやすいですね」

 そう言いながら戸惑ったように笑う。一人称がいつの間にか「ぼく」に変わっていた。可愛らしい人だ、と私は思った。


 ***


 四月に入って仕事が始まってすぐ、私は彼と同じ部署に配属された。彼は私のことを覚えていて、にっこり笑って歩み寄ってきた。

「洲本さん、同じ部署でよかった。ぼく人見知りなので」

 そう言って、彼は少しはにかんだ。

「私も、大崎さんとまたお話しできて嬉しいです。あ、『夜想曲集』読んでますよ」

「えぇ? 嬉しいなあ」

 そこへ係長がやってきた。背が低い、赤ら顔の太った男で、偉そうにしているな、というのが私の第一印象だった。

「君たち、金曜日は七時から課の飲み会があるから、君も来なさい」

「あ、私は前に申しましたが欠席します」

 彼が平然と言ったので、私はびっくりした。係長は眉をひそめた。

「新歓だよ、君。特段の用事がない限り来なさい」

「それは職務の一環ですか? 服務規程にはなかったと思いますが」

 係長は呆れたように彼を見上げた。

「大崎くん、酒の席だぞ、君だって……」

「私はお酒が飲めません、採用の時に申したはずです。抗精神病薬と相性が悪いのですよ」

「ちょっと待っていなさい」

 係長はオフィスの上座へ歩いて行った。私は彼に耳打ちした。

「大崎さんって、すごいね」

「へへへ」

 彼はさっきとは打って変わったふやけた笑顔で、でも、少し戸惑ったように、笑ってみせた。


 ***


 飲み会はそこまで酷くはなかった。前職のパワハラで懲りた私は、公務員を選んでよかった、と思った。私の隣に座ったのは私の四つ先輩にあたる、栗崎という女性だった。ひとしきり挨拶的なことを交わした後、彼女はおもむろに話題を変えた。

「洲本さん、大崎さんと仲良いよね」

「はい……入庁オリで話が合いまして」

「面白そうな人だよね。いつも難しそうな本読んでるし」

「ええ、この間は英語で……」

 そこへいきなり件の係長が割り込んできた。いつの間にか向かいの席にいたのだ。

「大崎くんか、彼は三類じゃないか。うちは断りたかったんだよ。しかも障害者枠だし。障害者、って言っても精神だから、実際はどうだか」

 私はカッとなって何か言い返そうとした。大崎さんは物覚えがすごくいいし、いちいち説明されなくてもマニュアルを読んだだけで大抵の仕事を覚えてるじゃない……身を乗り出そうとする私を制して、栗崎さんが平然と言った。

「大崎さんは東大の院卒ですからね、今後に期待しましょう」

 私は一瞬、栗崎さんが何を言っているのか分からなかった。トウダイ? その言葉を変換したとき、私は彼のちぐはぐなところがぴったり組み合わさった気がした。そうか……。

 係長は喉の奥から唸るような声を上げてそっぽを向くと、そのまま何処かへ行ってしまった。

「係長はね、地方国立大学の学部卒だから、東大院卒のインテリが部下にいるのが気に食わないのよ」

 栗崎さんはそう言って笑った。


 ***


 しばらく研修が続いた後、本格的に仕事が始まった。大崎さんはいつもエクセルのマクロを組んで仕事を数時間で終わらせると、デスクで資格勉強と称して本を読んではのんびりしていた。時短勤務でも時間が余るほど便利なマクロを、彼は誰にも言わずにこっそり使っていたが、私だけにはコードをくれた。おかげで残業する日がかなり減った。係長は何も言わなかった。

 空いた時間で私たちは都庁近場のカフェを一緒に巡るようになった。当時、恋人と別れてすぐだった私は、大崎さんと一緒にいられて、人と話す時間を持てたことに感謝していた。私たちは恋愛についてはお互いに何も言わなかった。あの日までは。


 六月のある日、雨が降っていたあの日、彼はいつになく落ち込んで見えた。雨粒が打ち付けるカフェのガラス窓を見るともなく見ながら、彼はぼそりと呟いた。

「最近、あまり眠れないんだ」

「どうしたの……?」

「昔、ここに来る前、大学にいた時なんだけど」

 そう言って、彼は遠い目をした。その見つめる先を追った私は、カフェの奥で談笑するカップルに目をとめた。まだ二十代前半に見える二人は、テーブルの上で手をつないでいる……。不意に彼が私の方に向き直った。

「大学院の最後の年、大好きな人ができたんだ」

 彼はそれから堰を切ったように話し始めた。二十七歳の春に他大学の学部生に恋をしたこと。彼女に好きと言われて、生まれて初めて付き合ったこと。彼女はまだ二十歳で、素晴らしく優しくて、可愛くて、頭が良かったこと。二人で東京中をくまなくデートしたこと……。

「でも、彼女は浮気をしていたんだ。ぼくは二番目だったんだよ」

 そう言って、彼は私を見つめた。

「苦しかった。大好きだったから。ぼくを選んでくれたら、と思った。でも、無理だった。詩織はぼくを捨てて、彼氏のところへ……」

 そこまで話した時、彼の目から大粒の涙がこぼれた。

「大崎さん……」

「ごめん、なんでこんな話をしたんだろ、ぼく」

 そう言って悲しそうに微笑む彼。気がつくと、私はその手を取っていた。


 それは本当に一瞬の決断だった。そこに思考はなかった。私たちは見つめあった。

「私、あなたの気持ちが、すこしだけど分かるよ」

 大崎さんは黙ってうなずいた。その目はすごく悲しげで、言葉にならない想いを訴えている。


 ***


 彼の家は東大の本郷キャンパスのすぐ近くだった。学生時代から同じところに住んでいるんだ、と言いながら彼は私をソファに座らせた。二人分のコップを持ってきて、私の前に両方差し出した。

「どっちがいい?」

 私は笑った。

「同じじゃないの?」

「同じだよ」

 彼もつられて笑う。

「でも、ぼくが怖い人だったらどうする? どっちかに睡眠薬を入れてるかも」

「睡眠薬を入れてどうするの?」

 彼は言葉に詰まった。

「それは、その、そういうことを……」

 私は彼の右手からコップを取って、その顔を見つめた。心臓がドキドキしている。

「睡眠薬なんて飲ませなくても、私は初めからそういうつもりでここに来たよ」


 事が終わった後ベッドに並んで身を横たえながら、大崎さんは私の肩を抱いた。

「洲本さん……」

「陽子でいいよ」

「じゃあ、陽子ちゃん、ありがとう。幸せだよ」

「和明も、ありがとう。私も寂しかった」

「ぼくたち、似ているかもね」

「そうだね、二人とも耳がふたつ、鼻がひとつ、目がふたつあるし。これってもしかして偶然? それとも運命かしら?」

 そう言いながら私は彼の顔をあちこち引っ張った。和明がクスクス笑う。

「陽子ちゃん面白いから好き」

 私はその無邪気な笑顔を見ながら、少し心の底で良心が痛むのを感じた。私は、本当にあなたを愛せるのだろうか。

 真顔になった私を見つめて、彼は私の長い髪を手で梳いた。

「陽子ちゃんの髪の毛、黒くて長くて綺麗だね」

 そう言って相変わらず戸惑ったように笑うあなたは、私の心のどこに住みたいのかな……。


 三日後、元カレから電話が来た。よりを戻したい、と言われて、私はうん、と言った。その言葉を電話口で言った瞬間、私の脳裏に和明の顔は、浮かばなかった。


 ***


 和明が死んだのは八月の暑い盛りだった。彼氏とよりを戻した、あなたとは勢いで寝てしまったけれど、これからも友達でいてね。そう言った私を、彼が許してくれたかは分からない。彼は最後まで、最後の最期まで、戸惑ったように笑いながら、でも、眼鏡の奥で、ずっと悲しそうな目をしていた……。


 あなたは私の心に居場所を見つけたのね。後悔という名の居場所を。


 ごめんなさい。


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あなたのいる場所 旅人 @tabito

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