第19話 遠魔鏡
身体を洗ったり洗濯したりするうちに、どこかの寺院から朝の鐘が聞こえ始めた。眼帯はまだ乾かないので予備を使うことにした。僕の髪や左眼と同じ黒。
出発にはまだ早いが職場に行く決心が鈍らないうちに出る。途中に寄るところも思いつかず、かなり早く着いた。
相談室にはドナ室長しかいないが、先輩たちの荷物がもう置いてある。
「おはよう。昨日の地震、びっくりしたわね」
「ですね……」
昨日は地震のほかにも驚くことがありすぎた。
室長の顔に違和感を覚えたが、短いツノから二重アゴまでおかしなところはなく、理由は分からない。そもそも僕が人の顔のことを言えるような状態ではなかった。
「セロとサリアは、研究室の遠魔鏡で地元のようすを見ているわ。だから早く来てたってわけ。近所からも遠魔鏡を見にくる人がいるかもしれないから、誰かしら受付にいないとね。始業までまだ時間があるから、貴方も見に行っていいよ」
「遠魔鏡……?」
「世界のあちこちにある魔法の鏡がつながっていて、遠方の出来事が分かるのよ」
魔術に詳しい人たちが集まる所には進んだ物があるんだな。
記憶のない僕には、地元の安否を確かめるという発想はなかった。
ローラの無事なら泣きたくなるほど鮮やかに確かめた。リデル様とラケル氏の顔が一瞬頭に浮かんだが、いまはあの一族のことを考えたくない……。
でも、やっぱり気になるのは……。
「あちこちって……塔の上階層も?」
「あはは。風刺家みたいなこと言うわね。もちろん『上』にも遠魔鏡はあるはずよ。でもこちらからは見られないの。向こうから連絡してきたら別だけど……」
そこに、金髪を弾ませてサリアさんが現れた。
「お世話さまです。あ、モロー君おはよー。津波はなかったし、
話す時間あたりの話題の数!
「それは何より。メガネはね、孫に泣かれちゃってねぇ。こっちのほうが似合うみたい」
室長の完全な返し!
「お孫さんいらっしゃったんですね!」
「そうなのよ。生まれたのはあなたが入ってくる前の年ね……」
そうか、違和感の原因はメガネか。
僕は室長の新しい眼鏡を古いのより先に見ていたわけだ。
お孫さんにしたって、たぶん新しい眼鏡がよくないとかいう話ではないんじゃないか。うまく言えないけど……。
「震源が、ほぼセロの地元です」
サリアさんは話題を地震に戻した。
「ルバーブ温泉のほうかしら」
「はい。……ともかく代わりますよ。室長も遠魔鏡をご覧になるほうがいいですって」
相談室にサリアさんを残して、室長と僕は遠魔鏡を見に行く。
遠魔鏡というものは壁に掛かった普通の鏡のような外観だが、鏡面には使用者の知りたいことを映すことができる。
いまは地図が映し出されている。
その地図は僕が東都を目指したときに見たのと似ているので、北都から東都までを描いた物だと分かった。
地図の中心に、赤い×印が太い線で描いてある。そのすぐ横に、町と温泉を表す記号がある。東都から街道を北に行ったところに位置する温泉街、ルバーブ市だ。
小さく丸く赤い印が集まっている。
それを囲むように橙色の、さらに外側に黄色の丸い印が散らばっている。
東都の北側はだいたい黄色い印で、穿月塔だけは橙色だ。南側を見て、黄緑色や青色の印もあると気づいた。東都より西にはとくに何の印もない。
「印の色が赤っぽいほど、揺れが大きかったのですか?」
「あなた、これを見るのは初めてですか。大まかに言えば、そういうことになりますね」
誰にともなく疑問を口にしたら、答えたのはセロ氏だった。
「ただし、これは各地の遠魔鏡での観測結果を集めたものです。すなわち、遠魔鏡のない場所の被害を把握することはできません」
ルバーブ温泉街の南側から、東都に通じる街道沿いに被害が大きいように見える。
僕がおもに通ったのは街道ではなく、その西を通る山道だ。何の印もない。
温泉街より北は大丈夫そうだ。地図の地の色に紛れて気づきにくいが、黄緑や青の印がたくさんある。
東都より東の海辺までにも、黄緑の印がまばらにある。
「室長の娘さんは、たしかクオレ村にお住まいでしたね」
セロ氏がそんな事も知っているのは、サリアさんより前からここに務めているからだろう。
クオレ村は街道沿いの、東都とルバーブ市の中間にある村だ。黄色い印がついている。
「そうなのよ。いま夫婦と孫で遊びに来てるんだけど、今週末、というか明日発つ予定でね……」
「それはいけません」
セロ氏の口調は静かだが、いつになく重みがある。威圧感までも感じさせるのは、並外れた長身のせいだけではないだろう。
「道中、崖崩れにでも遭ったら助かりませんよ。余震が来ないとは限りませんし、そうでなくても西のほうで強い雨が……」
セロ氏は鏡をつつき始めた。
「鏡よ、今日の天気は?」
とうとう鏡に話しかけたが、何も起こらない。
そこに、格式ありそうなローブを纏った非常に小柄な2人連れが現れた。どこかで見た気がする。
「もうやだ、この鏡は私たちにしか従わないって忘れたんです?」
「ちょっと良いかね、今日の天気を見たいんじゃ」
思い出した。昨日の寝袋爺さんと弟子らしき人だ。衣装が違うと雰囲気も違う。向こうも僕に気づいた。
「おお。相談室の新しい職員とはお前さんじゃったか!」
「えっ……、じゃあ魔力もないのに魔力コントロール練習室に入って暴れて壊した新入りって、あなたなんです⁈」
「ところで、今日の天気を見せていただきたいと思っていたところなんです」
セロ氏の頼みに、老魔術師が鏡に触れると一瞬で地図の様子が変わったようだ。
砂色の頭と、帽子を被った白髪頭が縦に並んで鏡がよく見えない。
「ふむ、雨雲は衰えてはおらんようじゃの。明日には……早ければ今夜にでも、ここいらも降るじゃろう」
「では、たとえば明日クオレ村へ発つなんて、延期したほうが良さそうですね。土砂崩れが起きるといけませんから……」
セロ氏は自分の地元が気になるだろうに、室長の親戚のことまで心配している。
「そうかの? 上手く雨を避ければどうということはないじゃろ」
「いや、ダメでしょう⁉︎ 余震が来たらどうしろと⁉︎」
何故か押し問答が始まった。
「分かったわ。大事をとって、娘一家にはもう少し居てもらいます」
ドナ室長は部下の意見を採用した。
すると老魔術師も何かを思い出したように頷いて
「余計なことを言ってしもうたの」
と、セロ氏に詫びた。
僕はというと、誰にも知られずにあの山奥の廃屋を訪れるなら、むしろ今夜がチャンスではないか……と考えている。
危険もあるし、不死身であることを利用しようとするなと釘を差されてはいるが、どうせそれしか僕の取り柄はないのだ。
こんな日なら、差押えにくる役人だとか、新しい持ち主だとか、彼らから財産を守りたいジュゼット家の関係者とか、そんな人たちと鉢合わせしなくて済む。
エレンの心に重くのしかかっていた石像を谷底へ葬り去ろう。
僕はもし誰かに裏切られたなら、相手の幸せを願って許せるような聖人君子になれそうにない。けれど、せめて約束は守るのだ。
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