第3話 夜陰 3

 エモノとは? 僕は耳をすました。

 子供の泣く声、女がさっきの男に謝る声、片足を引きずるような足音がおぼろげに聞こえた。


「杞憂だな。薬はバッチリ効いてたぜ」

「でも、さすがにあの子も無傷では済まないよね……どうなることやら」

 階下から聞こえる話し声は、あの痩せた男と耳族の女。どちらも嘲るような調子があった。


 旅人を泊めた一軒家の住人がじつは……という噂や物語はよくあるが、僕がその旅人の立場になるとは。

 僕は、殺されるのが、ではなく、殺されても死なないために亡者だとばれるのが怖い。ローラを失うことの次に。

 というのも、亡者を殺せずとも半永久的に行動できなくする方法がいくつかあり、人々に広く知られているのだ。

 たとえば活火山の火口に放り込むこと。だから火山に近い温泉街を避ける道を選んだのに、このざまだ。


 気づいたら子供の声はやみ、代わって片足を引きずる足音が近づいてくる。

 どこを通れば見つからずに逃げられる?

 いっそ憐れな女と子供のために、殺されたフリでもしてやるか。でも、約束はどうなる? ローラ……。

 足音が、近くで止まった。

 僕は扉の脇で身構えた。

 きい……とかすかに軋んで開いたところで、僕はそいつを捕らえた。

 フードを深く被った、やつれた女だった。僕の手持ちの短剣を抜くまでもなく、彼女のナイフを奪って突きつけた。


「あんた、子供を人質に取られて脅されているんだろ」

 そいつは頷いた。

「私たちはもともと、旅の途中、ここに泊めてもらおうとして……」

「僕を殺すのは諦めろ。子供と逃げる手伝いはするから」

 ああ、言ってしまった。解決したら銀狼亭まで全力疾走だな。


 僕は女を放すと、左袖をまくり、奪ったナイフで自分の腕を傷つけた。滴る血をナイフに塗りつける。その場にへたりこんだ彼女の目が驚きに見開かれている。

「大丈夫、いい薬を持ってるんだ。一人分ね」

 一人分と言ったが、彼女に分けてやれないどころか、そもそも薬などない。亡者ならではの回復力が頼りだ。治りが異常に早いのを隠すために、すぐ袖を元に戻した。

 ナイフは良い感じに血塗れだ。


「これを見せれば、奴らは僕の遺品を物色しに、この部屋に集まる。その隙に逃げるんだ。僕はなんとかするさ」

 女の目は一瞬輝き、不安に曇った。

「……無理よ。信じてもらえない」

 そういえば、そのままの服装で返り血を浴びずに戻るのも変か。と考えていると、彼女は意外なことを語った。


「私に回復の魔力があるのを、あの連中は知ってるの。ナイフに自分の血をつけてから傷を治したと思うでしょう」

 回復の魔力か。リデル様にもあると聞いたが、意外に珍しくないのだろうか。

「でも、このごろ上手くいかなくて、役立たずは魔人狩りに引き渡すと脅されて……」

 魔人狩り。この一言で僕の肚が決まった。


「マントを貸してくれ。血に汚れたから捨てたとでも言えばいい」

「はい……でも、顔は見ないで」

 この館に入ったとき、彼女のフードの陰から青痣が見えたのを思い出した。

「そう? どんな顔でも、体を張って大切な人を守る貴方は美しいと、僕は思うよ」

 もちろんローラと比べる気はない。誰が何と言おうと、ローラは僕の女神である。


 マントを受け取ると、僕は適当に壁や床を叩きながら大声を出した。

「ぎゃーーー! 何すんだ! ああ……体が重い……あの夕飯か……薬が……。畜生、だまされ……た」

 ドタッ、と倒れたような音を出す。

「さ、行くんだ」

 さっきのナイフを受け取り、女は言った。

「あの子は、妹なの」

 決然と彼女の出て行く足音、扉の開閉する音に紛れて僕は入口から死角になる位置へ身を潜めた。



(続く)


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