第8話 あなたじゃなくても?

「じゃあ、うちに来たらいいよ」


 そんな大胆なことを笑顔で押しきられ、結局私はこうして、家の方角と真反対に歩みはじめている。あまり馴染みのない景色、左手はずっと離してもらえないまま。知らない家々を後にしながら、隣を歩く横顔は鷹矢くんなのに、この繋いだ手は、まるで。

 そこから全身を巡ってくる熱に吸い寄せられるように、ピタリと肩もくっついて。そのせいで、浮かされたみたいにぼうっとする。

 そんな風に、しばらく沈黙が続いた後。

「…ハルカはやっぱり優しいね」

「え?」

 思い出したように鷹矢くんはポツリと言った。

「本当に、ハルカらしいや」

「何が?」

「…でも、」

 振り返り立ち止まって見せた笑顔は、「着いたよ」と伝えてくれる。慣れた様子で門の内側へ回した手は、閂を抜いた。

「そのお陰で、今夜は一緒にいられる」

 静かな住宅街に、キイイと門を開く音。それが彼の言葉を揉み消した。

「えっ?なんて?」

「なんでもない」

 まただ。流した目、悪戯っぽい口元はもう、ほとんど。

 今日の私、疲れているのかな。そう思い、強めに目をしばたたかせたところで、開いたドアから流れてきた、あたたかなお家の香りに出迎えられる。

「どうぞ」

 言われるがまま玄関に一歩足を踏み入れたらすぐ、家中の賑やかさがここまで伝ってきた。きっとパーティーの真っ最中。その笑い声に誘われたのか、棚に飾られた木彫りの聖歌隊が「ようこそ」と可愛らしくお辞儀をしてくれる。

「ただいま!」

 靴を脱ぎながら、鷹矢くんは奥へ向かって声を投げる。ほどなくリビングのドアが開いて、鼻筋の通った綺麗な女性がスリッパのソールを響かせた。

「お帰りタカヤ!」

 先ほど画像を見せてもらった、鷹矢くんのお母さんだ。暗めの亜麻色の髪を束ね、ニットワンピースに身を包んだ優雅な佇まい。その風貌から想像されるよりも数段快活な口調は、一言だけで素敵な人だと分かるほど。

「あら、そちらのお嬢さんは?」

「前に話した彼女だよ」

「!!」

 そんなにあっさり紹介しちゃうの?というか、もう話してたの?脱ぎ終えた靴を揃えて振り返る彼の後ろで、私はピーンと棒立ち。何をどう言おうか口をぱくぱく。

「あ、あの初めまして!…こんな時間に、突然、押し掛けてしまって、その…」

 いたたまれず、三度は頭を下げたと思う。

「そう!やっぱりあなたがハルカちゃん。こんばんは、タカヤがいつもお世話になっています」

 わあ、笑った顔、鷹矢くんにそっくり。

「いえ!その、こちらこそ!」

 恐縮して、再びがばっと下げた頭の上に、無邪気な声が覆い被さる。

「可愛いだろう?帰したくないから連れてきちゃった」

「えっ!?」

「あはは、ごめんなさいね。この子ちょっと強引で」

 割と爆弾のような鷹矢くんの発言も意に介していないのか、明るく笑いながら彼のお母さんは話し続ける。

「さあ、上がって。寒かったでしょう?グリューワインはいかが?」

 そしてゴブラン織りのスリッパを用意してくれた。

「うちのはノンアルコールで作ってるから大丈夫だよ。ハルカ、飲める?」

「苦手じゃなければ是非どうぞ」

「あ、ありがとうございます、いただきます…あっ、お邪魔します…!」

 こちらが圧倒されるくらいのウェルカムムードに、ブーツのファスナーを下ろす手はまごついた。コートを綺麗に折り畳むまで待ってくれていた鷹矢くんと一緒に、私はやっとリビングへ向かう。

「ね?心配いらなかっただろう?」

 ぽんと肩を抱かれて、耳元をくすぐる一言に、私は飛び上がる暇もなく扉の向こうへ連れられた。




「リーナ!お兄ちゃん帰って来たよ」

 とたとたとたたっ。鷹矢くんのお母さんの呼ぶ声を合図に、可愛らしい足音が聞こえてくる。今夜貰ったばかりらしい、テディベアやたくさんのおもちゃを両手に抱えて、小さなその子は体中で走ってやって来た。

「おかえりおにいちゃーん!…あれっ?」

「…!」

 思わず私は口元を覆った。

 本物の梨衣奈ちゃん、なんて可愛いんだろう。ふんわりウェーブを描く、鷹矢くんと同じ朽葉色の細い髪。上向きの長い睫毛、まんまるの瞳。抱き締めたドールよりもよっぽどお人形のような顔立ちに、私はもう釘付け。

「ただいまリーナ、クリスマスプレゼントだよ」

「…あれっ!?」

 はっし。ものすごい瞬発力に、目は追い付かなかった。その小さな突進は、私のロングスカートで綺麗に受け止められる。

「こんばんは、清次遥です。よろしくね、梨衣奈ちゃん」

 ワンピースを沿わせるようにしゃがんで、キラキラの両目と高さを合わせる。あまりの愛らしさに私の緊張は自然ととけて、いつの間にかにっこり微笑んでいた。

「ハルカ…!?」

「うん?」

「…ハルカ、」

 私の膝に顔をぐりぐりと押し付けた梨衣奈ちゃんの言葉は、上手く聞き取れなかったけれど。

「…おかえり」

 確かにそう、聞こえた気がした。




 すっかり頬を赤く染めた鷹矢くんのお父さんと、そのご友人の方たちと少しお話をさせてもらった後、私たちは大人たちとは離れてソファーに腰を沈める。傍らには、私の背丈より頭ふたつ分は大きなツリー。そこに吊り下げられた木製のオーナメントが、空調に肩を揺らしていた。ぐるりと巡らせた灯りは桃、緑、橙、青。かわりばんこに私たちを塗っていく。

 そうやってあたたかな笑い声の絶えないリビングルームで、充分に熟成した最後のシュトレンを頂きながら、何杯目かも分からないホットワインに口をつける頃。

「リーナに、プレゼント何がいい?って聞いたら、なんて答えたと思う?」

 もう眠そうにしている彼女のふわふわの髪を撫でながら、鷹矢くんはそんなことを問いかけた。

「え?」

 すると梨衣奈ちゃんも、ブランケットが背中を滑り落ちていくのも厭わずに、こちらを見上げてふふっと笑う。その可愛い笑顔に夢中にさせられ、私はついにフォークへ伸ばした指先を引っ込めた。

「なんだろう?なあに?」

 あと一口ほどのシュトレンを、お皿ごとテーブルに置いてから尋ねる。

「…『おねえちゃん』って言ったんだよ」

 鷹矢くんが答えを発表すると照れたのか、破顔しながら、梨衣奈ちゃんはブランケットを頭から被りなおした。身を左に右にとひねってもじもじし始める。

「お姉ちゃん?…あっ、そっか、欲しいっていつも、言ってるんだよね?」

 隙間から覗く顔に、ねーと笑顔を近づけると、小さな両手いっぱいに赤いほっぺを包んでしまう、可愛すぎる梨衣奈ちゃん。

 その様子にほくほくしている私に、隣から大きな手が伸ばされる。

「だからプレゼントはハルカにした」

 それが私の両肩を包んで、ぐいっと更に前へ。

「えっ!?」

「リーナのお姉ちゃんになって」

「なって!」

 無垢な笑顔、ふたつ。予想だにしない鷹矢くんの発言に、私は交互に二人を見た。

「えっ、私…!?」

「ここにいる間だけ。ね?」

「ね?」

 可愛く傾ぐ顔、ふたつ。確かにびっくりするお願いだけど、こんなに可愛い笑顔を見せられて、断る人なんていないと思う。

「うん、もちろん!」

 この天使の前では戸惑いなんて瞬時に消える。だから意識しなくても、満面の笑みで返事を言えた。

「やったあ!」

「良かったね、リーナ」

 きゃっきゃと一頻り跳ね回ると、梨衣奈ちゃんは鷹矢くんに頭を撫でられて嬉しそう。そして私の膝の谷間から顔を覗かせて、これまた甘くねだるのだ。

「ねぇハルカ、きょうはリーナといっしょにねよっ!」

「私と?」

「うん、おんなどうしでおはなししよ!」

 見た目とはかけ離れた、ちょっと大人びた言葉選びに私はクスリと笑ってしまう。

「ふふ、うん、いいよ」

「女同士かあ、僕も仲間に入れてくれない?」

「だーめー!おんなのこのへやには、おとこのこははいれないの!」

「えー、そうなの?僕も一緒に寝たかったなぁ」

「えっ!?」

 きょとんとした顔、やっぱりふたつ。

 分かっている。冗談だっていうことくらい。特別な意味は無い、無邪気な一言に決まっているのに。

 ついびっくりして、ツリーの星も瞬きのリズムを崩すほど、大きな声を出してしまった。

「どうしたの?ハルカ、おねつ?」

「えっ、ううん、違うの。なんでもないよ!」

 身を乗り出す梨衣奈ちゃんに、慌てて私は手と首を横に振る。真っ赤な色を吹き飛ばせと思い切り。

「…そっかぁ!じゃあリーナ、おやすみのしたく、してくるね!」

「うん」

 にっこり笑ってとたとたとたたっ。この手を今度は緩やかに振る。お母さんを引っ張る梨衣奈ちゃんが扉の向こうへ行ってしまうまでを見届けてから私は、先刻の恥ずかしさを溜め息に込めてゆっくり吐き出した。

「ふうー…」

「疲れちゃった?ハルカ」

「ううん、そんなことないよ」

「そう?まだ顔、赤いけど」

 それは鷹矢くんのせい、だなんて言える訳もなく。目が合った、と思ったら、心配そうな彼の顔が近づいてくる。心臓が跳ねるごとにホットワインが忙しく波立つ。

「あ、えっと!」

 咄嗟に視線を逸らして、カップの中の私を見る。瞼を縁取る熱が、瞳を潤ませていた。

 何か話していないと、落ち着かない。今は夜で、ここは彼の家で、否が応にも意識してしまうから。私は必死で話題を探った。

「そういえば、タカヤくんは…」

 ピクンと傍で、止まる息。

「…タカヤがどうかした?」

 それから少し、かたい声。

「えっと、その、今日、時々…顔出したり、した?」

 こちらへ向けられていた彼の両瞳が、はっきりと背けられる気配を感じて。

「…してないよ」

 入れ違いに私は彼を追う。でも、すでにツリーを見つめる頬の輪郭だけじゃ、どんな顔をしているかなんて分からない。

 チカチカ、沈黙を追い出すように、その白い肌は桃に緑に染められていく。

 鷹矢くんがそう言うなら、やっぱり私の気のせいだったのかな。あんなに、何度もタカヤくんを感じたのに、全部。

「そっか…」

 ふうっとひとつ、手元の葡萄色に小さな波紋。それが伝わってしまったのか、鷹矢くんはゆっくりと、ツリーの明かりに彩られた横顔を見せる。

「…なんで急に、そんなこと?」

「えっ、ううん、なんとなく…最近見てないなって」

 私の言葉に、鷹矢くんは少しうつ向かせた睫毛を何度か上下させていた。

「…出てこないように、してるからね」

 橙から青へ、移り変わる照り返し。

「…どうして?」

 ふっと無理やり上げただけの口の端からは、何も読み取れない。

「ハルカを困らせるから」

 だからもちろん、そんな答えが返ってくるなんてことも、想像できなかった。

「え?」

 反芻すればするほど、「どうして?」がまた口をついて出そうになった。何か気に病んでいることがあるのかなと、私は思い当たる限りのフォローを試みる。困ったと言えば、そうだ。

「あ、文化祭のときのこと?大丈夫だよ!ファッションショー、かえって評判良かったって、美冬ちゃんも…」

「それに」

 でも、それは遮られる。


「…いつか、傷つける」


 刹那、歪めた頬。整った眉、綺麗な瞳にも連鎖していく。そう言う鷹矢くんこそむしろ、傷ついたように苦しそうで。

「…鷹矢くん?」

 ホットワインは湯気を失う。とっくに、冷めてしまっていた。

「どういう…意味?」

 思わず聞き返すけど、はっとした表情は取り繕うように、みるみるその荒波を消していく。

「ハルカー!まぁだー?」

「…リーナがお待ちかねだね。ハルカも支度、しておいで」

 いつものやわらかさを拾い上げて、にこりと微笑む鷹矢くんは、それでも、少し。

「うん…」

 そんな風に笑うこと、今まで無かったのに。

 これ以上深く追わないでと、その笑顔に言われた気がしたから、疑問を断ち切るように、コトリ。私は飲みかけのマグカップをローテーブルに置く。

「…おやすみなさい」

「おやすみ、ハルカ」

 辛そうな彼の表情が焼き付いて、扉を閉ざしてもそれが引っ掛かって、私はしばらくノブから指を離せなかった。




「どうぞ!」

「ふふ、お邪魔します」

 梨衣奈ちゃんのお部屋は、絵に描いたような女の子の空間だった。薄いピンクの壁に包まれて、大きなナチュラルウッドの棚いっぱいに住まうテディベアとお人形が、お利口に座って小さな主の帰りを待ち詫びていた。梨衣奈ちゃんはそのひとつを持ち上げると、私に手を振って見せる。

「シンデレラも、ようこそっていってる」

 きっと大切にされてきたのだろう。擦りきれてはいても綺麗に整えられたドレスを纏うお人形は、やっぱり幸せそうに笑っている。彼女は突然訪問した私を、歓迎してくれているそうだ。

「わあ、ありがとう」

 私がお辞儀をすると、三人はふふっと笑い合う。今夜は賑やかになりそうねと、ガラスの瞳に言われた気がした。

 シンデレラを棚に座らせると、梨衣奈ちゃんはくるりと振り向いて私に手を伸ばす。

「はい、ハルカ」

 ちょっとだけ思案したけど、すぐに分かった。着ていたガウンを、その掌に乗せる。すると満足そうに梨衣奈ちゃんはそれをコートハンガーへ掛けていく。

「ありがとう、梨衣奈ちゃん」

「どういたしまして!」

 脱いだらさすがに肌寒かった。何せ着ているのは半袖のTシャツ。とは言え、鷹矢くんのだから少し大きくて、肩が落ちて肘にかかるくらいだった。彼のお母さんからお借りしたストレッチパンツも、丈があまるから二つほど折り返している。

 袖をいじりながら私は、先程の鷹矢くんの表情を思い出していた。あのままリビングを後にしてしまって、本当に良かったのかな。

「どうぞ、ベッドにはいってね」

 気になるけど、嬉しそうな梨衣奈ちゃんの前で、心配させるような顔もできない。勧められた通り、綺麗に伸ばされたシーツに手を掛ける。

「うん、じゃあお言葉に甘えて…」

 ドアを開けるのも閉めるのも梨衣奈ちゃん、小さな手で布団を掛けてくれるのも梨衣奈ちゃん。これだと、私はまるで妹として迎えられたみたいだなと、精一杯のおもてなしにふふっと、口元を羽毛に隠した。

「じゃあ、けすよ」

「お願いします」

 枕元の棚に置いてあるリモコンを操作すると、私たちはぼんやりとしたオレンジに沈む。本来なら、これが心地よいまどろみを連れてくるはずだけど、梨衣奈ちゃんのお楽しみはきっと、これからなのだ。

 頭まで布団に潜ったかと思うと、悪戯っぽい笑顔で私の胸元にしがみついてくる。すぽんっと顔を出して、さっきまでの眠そうな目尻はどこへやら、瞳を爛々と輝かせて。

「あのね、リーナね…」

 そうして他愛のない話をいくつかした後、徐々にとろんとしてきた梨衣奈ちゃんは、鼻まで被ったシーツから目だけをこちらに寄越してくる。

「…ハルカ」

「うん?」

 ぐいとそれを引き上げながら梨衣奈ちゃんは、どこか真剣な眼差しだった。

「ハルカは、あったことある?」

「誰に?」

「もうひとりのおにいちゃん」

 ドキリとした。タカヤくんのことだ。ついさっき、鷹矢くんと彼の話をしたばかり。私の胸の中を未だぐるぐると回ったままでいる。

「…うん、あるよ」

 そうは言いつつも、文化祭以降もう随分と会っていない。今日何度か、もしかしたらと思ったけど、違うと否定されてしまったし。

「…数えるほどだけどね」

 不思議だった。彼の話題になれば途端に、梨衣奈ちゃんのこの真っ直ぐな瞳にも、彼のような強さがあると知る。そして気づいてしまうと兄妹の瞳は重なって、私を射抜く。

「ハルカは、おにいちゃんのこと、すき?」

「えっ!」

 問いかけているのは梨衣奈ちゃんなのに。今日の私は本当にどうかしている。タカヤくんに詰め寄られたように感じて、一瞬臆してしまう。

 ただ相手が小さな女の子だとしても、こんなことは平静で言えるはずもない。情けなくもじもじすること数秒、私はしぼんだ声でやっと頷いた。

「うん…」

 それを聞いて、梨衣奈ちゃんはこちら向きに体勢を変えた。私を正面で捉える。息を吸う。

 唇だけがスローモーションで動く。


「おにいちゃんがすきなのが、あなたじゃなくても?」


「…え…」

 頭がキンとした。冷たく湿った手で、満遍なく全身を撫で回されているような感覚、息苦しさ。

 依然として梨衣奈ちゃんは真剣だった。からかっているとか単なる好奇心だとか、そういうことではない。だからこそ、かえってこの問いは私の胸を押し潰す。

 それは忘れてはいけないこと。残酷で、シンプルな事実。

「あ…」

 でも、私はいつの間にかどこかへ追いやってしまっていたのかもしれない。自分の都合の良いように。

「…ううん、ごめんね。いまのなし」

 私が困っているのを察してか、梨衣奈ちゃんは目を伏せる。私のTシャツを両手で掴んで、そこに額をピタリとくっつけたら、細い声で呟いた。

「リーナね、おにいちゃんのことも、ハルカのことも、みんなだいすきよ。だから…」

 少しずつ強まる、私を引く手。

「おねえちゃんって、よんでいい?…」

 こもらせた声が少し震えていた気がして。

「梨衣奈ちゃん…。うん、もちろん…」

 私は努めてやさしく髪に触れる。鷹矢くんが――お兄ちゃんがそうしていたように。

 するとほっとしたのか、その瞼は次第に降り始める。ぎゅう。私の服を握りしめる小さな手が、より一層縮こまる。

「いなくならないでね、おねえちゃん…」

 存在を確かめるように何度も。

「…こんどは…ぜったい…」

「梨衣奈ちゃん…?」

 ぐんと胸にかかる重み。遅れて聞こえてくる寝息。健やかで、あたたかいリズムを全身に受け止める。

 わずかに動く梨衣奈ちゃんの睫毛を見守りながら、私は撫でていた手をそのまま背中へそっと添わせた。


「私じゃなくても…か」

 自覚していたはずだった。けれど、今改めて突きつけられ、苦しさを感じたのは、それが足りなかった証拠。

 「ハルカ」をやりきってみせると抱いた決意に揺らぎはない。その先にあるものを信じたい気持ちも。だったらもっと撤さなければ。もっと「私」を封じ込めなきゃ。ちゃんと「ハルカ」に成らなきゃ。

 そのままでいいと言ってくれた鷹矢くんに、私はきっと甘えすぎていた。

 鷹矢くんといると、とても安らげるから。役ではなく、本当に私を見てくれているようで。「いつまでも一緒」の幸せに、さわれそうなほど。願わくば、このひだまりにずっと溶けていられたら。

 その一方で、時折奥からせり出してくるかたちの見えない気持ちが、私をそこから追い出そうとして。

 まどろみに目を閉じたら、そんな夢に淡く苛まれた。 




 薄く開いた瞼の隙間から、変わらず横たわるオレンジ色の仄暗さ。たぶん寝ていたのだろうけどその実感はあまりない。瞬きを繰り返すうち、やけにぱっちり目が覚めてしまった。

「…」

 今、何時だろう。少し身をよじると、今の今まで私の服を握っていた梨衣奈ちゃんの両手はすでにゆるんでいて、あっけなく抜けてしまう。くっきりと花形の皺がふたつ刻まれた上体を起こし、私はそうっと部屋を後にした。


 廊下は冷たい空気に覆われて、シンとしている。裸足をつけば三歩で、氷の床に体温を奪われた。今夜は冷える。

 もうご家族の人は皆、床についているようだ。少し乾いた喉を潤して、早く梨衣奈ちゃんの部屋に戻ろう。

 そう思いながら、電気も点けず階段をゆっくり降りきると、リビングからつうっと細長く漏れる明かりが目についた。

 ツリーの電飾だけじゃない。もしかして、と気になってドアから覗いてみたら、ダイニングの弱い明かりを被る影。

「…鷹矢くん?」

 やっぱり彼だった。座ったまま、腕を畳んで伏せている。長い睫毛は綺麗に並んで動かない。こんなところで寝入ったら、体を冷やしてしまう。

「鷹矢くん」

 そう思って私は、すぐ横で呼び掛ける。

「寝てるの?風邪引くよ?」

 微動だにしないその腕に触れようとした瞬間、

「……だか……任せ…って…」

 眉が波打つ。

「え?」

 苦悶の表情を浮かべながらの、細切れの単語は、寝言?でも、いやにはっきりしていて。

「…こ…夜…頼……ら…僕に…」

「鷹矢くん」

 膝立ちになって、少し乱暴に揺すってみるけど、苦しそうな口元は変わらず言葉を絞り出す。

「…何言っ……だ、今ま…さんざ…」

 額を滴が伝い落ちる。震えるほど拳を握って、今度は激しい口ぶり。

 まるで、一人二役。

「…そんな…じゃ、傷……る…!」


 ――いつか、傷つける。


「鷹矢くんっ!」

「…!」

 耳のすぐ横で、大きな声を出して呼ぶと、彼は腕を伸ばしてがばっと起き上がる。すぐに私を映す見開いた瞳、その奥が強くて、切なくて、

「タカヤ、く…?」

 私は目を逸らせない。あたたかい場所から強引に手繰り寄せられたように、氷の上に繋ぎ留められたように。でも、どこか遠い、その目は誰を、見ているの?


 ――おにいちゃんがすきなのが、あなたじゃなくても?


 喉が締まりそう。見つめられるほど、私の向こうのその人を欲していると、思い知るから。でも、ここにいるのは私。心で叫ぶけどそれは、出口を求めてさ迷うばかり。封じ込めると決めたから、

「…っ」

 「私」に言葉を許さない。

「ハル、カ…」

 掠れた声。ぐらり、と。陰に飲み込まれたと思ったら、もう。

「あ…っ」

 ぎゅっと、折れてしまいそう。

 後ろに倒れ込む寸前で、彼の両腕がそれに抗い私を引き寄せる。

 首に絡まる体温と息遣い。そしてやっと理解する、抱きしめられたこと。動けないのか、委ねてしまっているのか、曖昧なままで。彼の腕の中にいるのが誰かなんて、考えたくなかった。

「…」

 私の肩を力任せに覆う濡れた手、きっと汗。少し視線を落とせば、首元までぐっしょりなのがすぐに分かった。相当にうなされていたみたいだ。

「…あの、大丈夫…?随分、」

「ここに…いたんだ…」

 おそるおそる尋ねる私を、遮る声は。

「え…?」

 まだ、震えていた。

「…」

「タカヤ、くん…?」

「どうした…こんな、時間に」

 彼だ。

「…うん…ちょっと、目が覚めちゃって…」

 確信したら、泣きそうになった。

「そっか…」

 タカヤくんが喋るたび、熱風のような吐息が私に染み付く。強く腕を回されるほど、私の両手は行き場を失う。なぜこんな気持ちになるのか、どうしたら良いのか、解らなくて。

「そしたら、うなされてて…」

 文化祭で抱き上げられたときとは比べ物にならない、突き上げるような眩暈。

「…」

「タカヤくん?大丈…」

「…やっと…」

 息も切れ切れの、タカヤくんの言葉は上手く届かない。

「え?」

 でも、熱い吐息の合間に、

「…メリー、クリスマス…」

 それは、今までにないくらい、やさしく響く。

「ハルカ…」

 だから耳元でそう呼ぶ名前が、私のものであって欲しかった。今だけ「ハルカ」を脱ぎ捨てたかった。けれどそれをぶつけてしまったら、きっともうこの腕の中にはいられない。

「うん…」

 息が苦しい。

「メリークリスマス、」

 愚かな願いを打ち消すために、決意を全うするために、

「タカヤくん…」

 私はしっかり、目を瞑る。

 目尻から雫が一粒、吐き出されたのが分かった。

「…体、熱い…」

 だって今、彼の息遣いを間近に感じるのも、鼓動を受け止めているのも、熱にくるまれているのも、確かに私自身で。

「それに、すごい汗…具合、悪いんじゃ…」

 そう思うほど、収めきれなかった。私が、溢れてまた一筋。

「…大丈夫だから。もう、少しだけ…」

 そして一層、息もできないくらい。腕も吐息も掌も、私を苦しめるほど熱くて強い。無理に押さえつけるようにするから、くらくら、弾けそう。それならもう、言い訳に、してもいい?

「…うん…」

 薄い息を重ねてそっと、私の手は、その腕に触れた。


 いつの間にかひらひらと舞う雪たちだけが、彼と私を静かに見ていた。

 満ちていく、まやかしだと知りながら。だから痛みも一緒に降り積もる。今は一面真っ白に埋め尽くしても、やがて朝日に儚く消えていくのに。

 分かっていてもどうしようもなかった。止まなかった。

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