頑張ったんだから……

中川 弘

第1話 頑張ったんだから……


 その日、私は、夕方早くに、家の周りに置いたポットに水やりを済ませて、二階のバルコニーにあるハーブに、この日最後の水やりをしていました。


 すると、バルコニーの下、我が宅の門の前で、甲高い男の子の叫び声がしたのです。


 何事かと、バルコニーから乗り出し出して下を見てみますと、ランドセルを背負った子供が、それも黄色のカバーが掛けられているから一年生です。

 その一年生の男の子が、そこに居たのです。


 随分と汚い言葉を使って、再び、叫び始めました。

 

 その先に目を向けますと、五十メートルばかり離れたところにある横断歩道のところに、数人のランドセルを背負ったグループがいました。

 この一年生は、この子たちに向かって、悪態をついていたのです。


 こちらが、何事かと、びっくりするのですから、その叫声といい、悪態といい、尋常のものではなかったのです。


 よく見ますと、この男の子、今朝も、グループ登校に参加できずに、たった一人で、遅れて歩き、しかも、あまり感心出来る目つきではなかったことを、私は、朝の水遣りの時に、目撃していたのです。


 おはようって声をかけても、こちらを見るわけではなく、もちろん、挨拶を返すわけでもなく、学校に向かって行ったのを思い出しました。


 その悪態ぶりを聞いて、何かあれば、下に降りていかなければなるまいと思っていると、いつも、お孫さんを送り迎えしているご近所の男性が一足先に、子供たちのグループから離れて、我が宅の門前にやってきました。


 みんなと一緒に帰らなくてはいけないだろう。

 みんなと仲良くしていこうよ。

 お母さんは、家にいるのって、その子の肩に手を置いて、姿勢を低くして、言葉優しく語り始めたのです。


 でも、その子、その方の手を振り切って、先に走って行ってしまったのです。


 バルコニーから、私も、ご近所の方に声をかけました。

 今朝も一人で登校していましたね、あの子っ、て。


 そうなんですよ。

 連休が終わってから、ちょっと様子が変わってしまって、仲間たちとうまくやっていけないんですよと、私のいるバルコニーを仰ぎ見て、お手上げだという風に、肩をすくめました。


 そうか、あの十日にも及ぶ大連休が、子供の心に少しばかり、尋常ではない何かを引き起こしてしまったのだなと私思ったのです。


 大人だって、長い休みのおかげで、会社を辞めようと決心するのですから、子供ならなおのこと、そう思ったって不思議ではないと、私、納得をしたのです。


 いや、子供なら、なおのこと、そう感じるに違いないと、そう思ったのです。


 学校に勤めていた時、五月の連休の後、どの学年にも、大抵は一人二人、そういう傾向を持つ子がいたことを思い起こしました。

 夏休みの後も、それは同様です。


 しかし、不思議なことに、冬休みの後は、さほどでもないことも、私、経験から知っているんです。

 冬休みは、正月もあり、家族が団らんを共にする機会が多いのに比べて、連休や夏休みの後は、どこか、ぽっかりと穴が空いたような気持ちになるのです。


 それは、子供たちにとって、あまりに楽しすぎたからかも知れません。

 反対に、親が忙しく、構ってもらえなかったかもしれません。

 加えて、生活の規則性が、長い休みで狂ってしまったのに違いないって、そんなことを考えていました。


 でも、それ以上に、この子たちは、新しい環境に馴染もうと、四月いっぱい、最大限の努力をしてきたに違いないって、そこにも気づくのです。


 特に、一年生であれば、それまでの自由が許された幼稚園から、そうではない小学校の生徒になるのですから、一層、その心に圧迫があったと思うのです。


 子供というのは、先生や、親たちの期待に応えなくていけないという気持ちも、子供ながらに持っているものです。

 だから、頑張って、頑張って、懸命になって、四月を乗り切ってきたはずなのです。


 それが、ほっとしたのが、この五月の連休というわけです。


 ほっとするだけならいいのですが、人間は、安易な方、楽な方へと行く傾向がありますから、もう、頑張らなくてもいいやって、そんな気持ちにもなるのです。

 こういう時は、周りの大人が気長に言葉をかけていく必要があります。

 焦らせたり、せっついたり、嘆いたりしてはなりません。

 彼らは、頑張ってきたのですから、それを心に留めて、声をかけていく必要があると思っているんです。


 数日後、雨上がりの朝の清涼な空気が満ちる中を、登校グループの一番最後の方を歩くあの子がいました。

 上級生が時折振り返り、その様子を見ては、グループを引率していました。


 大人が心配するほどでもなかったと私も安堵しました。

 すれ違いざまに、その子に、おはようと声をかけました。


 すると、小さな声でおはようございますって、返してきたのです。

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