地下街

桐野燦

第1話

何故繁華街に居たのかは分からない。ただ何か忘れたかったことがあったのは覚えている。ようやく暖かくなり始めた春の日だった。ネオンの光に目を細めながら当てもなくフラフラと歩き続け、気が付くと古びたドアの前にいた。おそらく、地下への入口だ。普段なら気にも留めないようなさりげない佇まいだが、その日はそれが妙に気になった。

意を決して入ってみると、いきなり目の前に階段があり、これがどうやら地下に繋がっていくらしい。錆びた手摺からはあまり管理が行き届いていない印象を受け、多少の不気味さを感じたが、地下からはうっすらと賑やかな声が聞こえてくる。下にバーやスナックなどがあるのだろうと思い、好奇心に任せて階段を下ってみることしたが、この階段が中々長い。

もう地下の四、五階には相当するほど下ったところで、視界が急に開けた。そこには階段を囲むように、底が分からないほど何重もの回廊があり、凝縮したショッピングモールのように飲食店、雑貨屋などが収まっていた。電球色で統一された照明が異様な、しかし暖かい雰囲気を演出している。驚いたことにどの階もあの粗雑な入口からは想像もつかないほど多くの人で賑わっている。

辺りを見回しながら更に三階下に降りると、小さなカレー屋を発見した。カウンター席のみで、客は十人も入らないような狭く小汚い店だった。今は他の客はいないようだ。

「いらっしゃい」

愛想の良い店主が出迎えた。どこにでも居る日本人のおっちゃんだ。私を見るなり

「見かけない顔だね」

と言うので、

「フラフラと迷い込んでしまいましてね。こんなところに地下施設があるなんて知りませんでしたよ」

と説明すると、店主は

「そうかい」

と静かに微笑んだ。どこか憐れみを含んだ笑顔だった。




気付くと自宅のベッドの上に居た。夢か、と思ったが、それにしてはカレーの味をはっきり覚えている。美味かった、美味かったが態々あんな地下まで行って食うほどでもない味だ。ただカレーを食べた後のことは一切覚えていない。酒を飲んだ覚えもないのに、不思議なこともあるもんだ。

その不思議な体験が気になりつつも、その後は再びあの場所を訪れることもなく普通の日々を過ごしていた。仕事が忙しかったこともあり、段々とあの地下街の記憶は薄れ、再び思い出すこともないまま季節は夏になった。

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