Falling down, Falling down.

Unknown

昨日、オンフルールから大型船で出港した。

港が見えなくなってからほどなくして、天候が悪化したとの報があったと思えば、船が天と地を違えたように大きな揺れを起こした。

 季節外れの嵐とは!

 船客たちは慌てふためき、部屋に戻る者、船員に詰寄る者など様々だ。

  僕はといえば手すりに掴まり、船の甲板で様子を伺っていた。

 服の裾が右往左往に体にまとわりついては、離れんばかりに暴れている。顔に当たる風に口を塞がれそうになる。帽子はおろか、体ごと風に攫われる心地がした。

 初めて体感する「嵐」にやや興奮していた。

 鶴首にも見える幾重にも連なる、凱旋門より高い波の荒れ狂う様に、この世の果てと云われている海界を見ているのだろうかと。

その波は手の高さまで、船をつたって駆けあがってくる。何度も寄せる波がぶつかる度に、船が大きく揺れる。

― こちらへ ―

波間から声が聞こえた。

船は激しく傾き、手すりに縋る指がすべて解け、大海へ落ちた。



――――



 ここは、浜辺。

 指先に感じる砂、波の音、徐々に認知していく。

 僕は船から落ちて、それから……。

体がひどく重たくて、海水で濡れた睫毛から伝う雫に目が痛む。

それをぐちゃぐちゃに濡れている袖で無理やり拭った。

 快晴の浜。

 雲ひとつない。

 波打ち際に、か細く痩せた桜の木が満開になっている。

 季節は三月だというのに、ここは日差しが強い。

 風はさほど強くないが、時折砂を巻き上げて、チラチラと金色の粒が舞う。

 体を起こし、波打ち際の海に浸かった足を陸のほうにわずかに移動させた。靴はどこかに落してきてしまったようだ。砂の熱をほんのり感じる。

 ふと、視線を感じた。

 仰げば嗤う顔が浮かんでいる。

「へえ、生きてたの」

嗤う顔だけがはっきりと見えて、その顔は猫を肥大化させたような形状だった。

胴体は木から垂れる蔦と同化し、逆さまに垂れ下がっているように見える。

 言葉は理解できた。

「ここは、どこですか」

「勝手に来てどこかと問うのだね。どこに向かうんだい、きみは」

「イギリスに向けて旅に出た。でも、どうしてここに来たのかは、わからない」

「されば、どこへ行こうとそこが終。

 こっちなら、昼の浜。

 あっちなら、夜の森。

 奇異なる國へ来たのが運の尽」

 嗤う不思議な猫は月形の口で大きくわらった。

 チラチラと金の粒が目に入る。その瞬間に、猫の胴体の縞模様が見える。胴体、と形容したけれども厳密には模様の縞のみがはっきり見えるばかりで、体はもやもやとして見えない。

「おまえさん、茶は好きかい」

 突然の質問に、気が抜けて、はい、とだけ答えた。

「夜の森はいつでも茶の宴の席がある。茶会に案内してやろう」

 逆さまから、ぐるりと回って、顔を近づけてきた。

「この浜にずっといてもいいが、あの木のようになるだけさ」

 そういって痩せた桜の木を、尾の先で器用に指さした。

「ここの國の奴らはみーんな狂っちまってる。されど、客人は歓迎だ」

 浜の際の陸地は、植樹してあり、オリエントの図鑑でみたような立派な松が防風林として並んでいる。

 松の道の合間に入ると、影ができたせいなのか空気が変わった。風が冷たい。

それに、先程から息苦しく感じる。なにか重りでも乗っているような感覚だ。

 ここはまだ「昼」のようで、日光が松葉を抜けて、影を濃く地面に落している。

 道の途中に、オリエントな佇まいの一軒家があった。ポストの上に二つの突起物が刺さっているように、遠くからは見えた。

 素足で歩いているため、足の裏が擦れてジンジンと痛む。

 徐々に夕焼けのような暖色の光が、夜に滲んできている。

同じ陸続きだというのに、本当に、昼と夜が混在しているというのか。

 僕がおかしいのか。この國がおかしいのか。

 僕の前を、すいすいと空を泳ぐように、嗤う猫は浮きながら移動している。

本当にこれは猫なのか。モンスターの類なのか。

 海から続く道を抜けると、すっかり太陽の光は消えて、まさに「夜」の森に入った。

夜の森の中の道沿いには、僕の背丈よりもはるかに大きな菫が並んで咲いている。ひとつひとつが夜空を透かせて、ぼんやりと光り、手先足先を照らしている。

その群生の間をざわざわと、風なのか、又は話し声なのか。パリの街のテラスでの喧噪に似た音に重なって聴こえた。

 突然、胸が不規則な痛みに締め付けられ、地面に膝をついてへたり込んだ。

つめたい夜風に、濡れた体が震えてくる。

「気がふれている茶会に触れてはいけない」

 やや低い掠れた声が、背後から聞こえた。

 その人は、ほぼ真後ろに屈んで座っているのか、僕の頭の傍に気配を感じる。

 はは、と笑い声がした。

「感覚までは鈍になってゐないようだな。聡明な判断だ」

 そうだ。首筋に鋭利な刃物の先が、僅かに触れている。

 僕は黙っていた。

 その人は再度、はは、と笑った。

「俺らに敵意はないのか。よかろう。

おい、嗤う猫。余所者を勝手に連れてきて何事か」

「その人、浜に落ちてたんだよ~。おもしろそうだったから、連れてきちゃった」

 嗤う猫はくるくる蜻蛉のように周回した。

 目の前がぼやけたり、見えたり不鮮明になってきた。

 背後にいたその人は、僕の背中を跨いで顔前に立った。

 露わになった太いふくらはぎ

 嗤う猫の縞

 見えている世界が傾く

「酸素欠乏と低体温症かもしれないな。どれ、休める場所に運ぼう」

 その人は、自身の長い外套を脱ぎ、それで僕を包んだ。

 生かすのか、殺すのか。

 もう回避するための判断も、行動もできない。

 見えたその人の瞳が、夜の入りの紫たなびく空の色だった。

「いい子だ。

Twinkle, twinkle, little cat.

How I wonder what you're at.

チラチラ光る、子猫ちゃん

君はいったいなにをチラかすんだい 」

 そこで、僕は意識を失った。

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