8,入浴タイム、運命と宿命
夕飯まではまだ時間があるからと、二人は紗織に入浴を勧められた。
二人の着替えは駅ビルで購入済み。下着類もあるからと、思留紅は聡一から現金2万円を受け取って買い物をした。その間、聡一は同ビル内の書店で時間を潰した。
入る前、笑は「思留紅ちゃんもいっしょに入ろう!」と誘ったが「ごめんなさい、先に宿題をやっつけちゃいたいので。ゆっくり入浴してくださいね」と断られた。
宿題を、やっつける……!? お風呂の前に? ご飯の前に? 寝る前に? 学校行く前に?
そ、そんな、そんなことがあっていいの?
宿題など滅多にやらない笑は、思留紅の異次元的かつ超人的な理由に驚愕したが「そっか、えらいね。ありがとう」と作り笑顔で平静を装い自らのプライドをぎりぎり保った。
平和になったラブリーピースの世界では、宿題を提出しなくても叱責されず、やる、やらないは各々の自主性に委ねられる。ただし成績には響く。
幸来も宿題を早めに終わらせるタイプだが、4つも年下の、しかもラブリーピースのファンだという子が憧れの対象である自分よりしっかりしている事実に、笑は焦燥と罪悪感を抱いた。
「おっきいいい!!」
浴室の扉を開いた笑は、目を見開いて感嘆した。広い! 自分の家のより3倍くらい広い!
他所の家の浴室に緊張する二人。
「シャンプーどんなの使ってるのかな? 高いのかな?」
「コンディショナーもトリートメントも使っていいと言われたけど、恐れ多いわ」
湯気がもくもくふわふわと立ち上ぼり、二人の気分はほんわかしてきた。
普段二人は全身をシャワーで軽く洗ってからバスタブに浸かるが、他所の家の、しかも一番風呂なので、ボディーソープで身体を洗ってから入浴した。頭は後ほど洗う。
「ふはー、あったかい」
「ミルキーバスのほのかな香り」
「このバスタブ、正方形だから二人で入ってもゆったり脚伸ばせるね」
「家族みんなで入れる設計なのね。うちのお風呂もそれなりに広いけど、これには負けたわ」
「うち、かぁ……」
「私たち、今朝にはまだそれぞれの‘うち’にいたのよね」
「そうだね。でももう、お家も世界も、跡形も無くなっちゃった」
自宅を思い起こし、胸が締めつけられる。昨日のいまごろは、なんでもない日常を、それぞれの家庭で過ごしていた。昨日まで当たり前だった日々の暮らしは、もう二度と戻らない。
唇を引き締める笑は、涙をぽろぽろ伝わせていた。
釣られて幸来も、目を潤ませた。
「そうね、色々ありすぎて、悠久のときを経たみたい」
悠久のときという言葉の意味を、笑はニュアンスで理解した。
本当にもう、今朝のことが遥か昔みたい。
「ねぇ幸来ちゃん、何か方法はなかったのかな? 世界が消えかけてるときに、何かできなかったのかな?」
「それはできなかったのよ、どうしても。世界が消えたのは、運命じゃなくて宿命なんだと思う」
「運命じゃなくて、宿命?」
両者の意味の違いを、笑は知らない。
「ん? あぁ、運命っていうのはね、自分で変えられることを言うの」
「例えば?」
「例えば、笑は将来やりたいことも探さずただなんとなく日々を送っていて、なんとなく進学して、なんとなく就職して、安月給で働かされて、資格もスキルもなくて逃げ場もなく、いつしか生活苦に陥る未来があるとしましょうか」
「本当にありそうな未来で怖いよ。見た感じこの世界はまだ平和になってないんだから」
「そうね。笑なら十二分に有り
「ひどい」
「そこで危機感を抱いた笑には、将来幸せになるために勉強したり、色んなことを経験したり、インプットを重ねていくうちに何かやりたいことを見つけて、そこへ向かって頑張って、挫折をしても立ち直って、面倒なことにも立ち向かって、最後には笑う未来もある」
「大変そうだけど、そのほうが幸せなんだろうなぁ」
「目的に向かって行動を起こすか、起こさないか。その選択で未来は変えられる。簡単に言えばそれが運命。運命は自分で変えられるの」
「ふんふん、なるほど」
「対して宿命は、自分の余命があとどれくらいあるとか、地球があと何年で太陽に呑み込まれるとか、世界が消えちゃうとか、どうしても変えられない決定事項をいうの」
「つまり私たちの世界は、誰がどうやっても救えなかったの?」
「そういうこと、だと思う。そう思わなきゃ、自滅する。仮にも私たちは、あの世界でいちばん強いんだから」
「そうだね」
言って刹那の間を置き、笑は二の句を継ぐ。
「でも、私はやっぱり、素直に受け入れられないよ。だって、世界が無くなっちゃったんだよ? 人も、家も、物も、空さえも、みんな無くなっちゃったんだよ? そんなのそう簡単に受け入れられないよ」
「私も、私もそうだよ。つい数時間前まで何変わらずあったものがみんな無くなっちゃったなんて、それが例え宿命でも、どうにもできないことでも、それをあっさり受容して次に進もうなんて割り切れるわけないじゃない」
「ごめん、そうだよね、そうだよね、つらいに決まってる。幸来ちゃんはそういうの、人一倍感じるもんね」
「うっ、ううう……」
小さく嗚咽を漏らす幸来。
でも本当は、大きな声で泣き
笑は幸来の背に手を回し抱き寄せると、
「ああああああっ!! ああああああっ!! やだよ、もうみんなと会えないなんてやだよお!! どのみち世界が無くなるなんて、こんなのないよお!!」
笑の泣き声は大きい。しかし今回は想いを正直に漏らしつつ、わざと声のボリュームを上げた。
泣いているところを見られたくない幸来がどんなに大きな声で泣いても、誰にも、笑自身にさえも可能な限り聞こえないように。
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