🕛 0:00 花火が上がり、バディーは秘密を打ち明け、飲み明かす

「お前のアイデンティティーはどこに行ったんだよ?」


 まさか自分が真顔でそんなことを言う日が来るとは思わなかった。おまけにここは大都会の片隅で、時刻は零時を回っていた。アイデンティティーも何もあったもんじゃない。



  *   *   *   *   *



 残業を終えて電車に乗ったところで、前の職場の同僚からLINEが来た。


 『飲もうぜ』


 ちなみにその同僚は宇野うの次美つぐみという三十後半の女性で、俺は三十半ばの男だ。つまり昭和に生まれて、平成を生き抜いたという意味における同志だ。


 次美は「飲もうぜ」と男前なセリフを絵文字も使わずに送ってきたくせに、スペイン・バルのテラス席に着くなり、ジンジャーエールを注文した。

「え?」

「うん」

 うん、というのは「イエス」の意味だ。たぶん。だから、俺はとりあえずテンプラニーリョをグラスで頼んだ。

「あと、エビとブロッコリーのアヒージョ」

「それ二つで」と次美がメニューから顔を上げずに言う。

「え?」

「うん」

「……二つで」

 俺は生まれてこの方、アヒージョを二つ頼んだことはなかったけど、二つ頼んではいけない理由も見当たらなかった。

「またかー」と呟いたのは店員だった。

「また?」

「いや、今日はほかにもアヒージョを二つ頼んだお客さんがいたんで。流行ってるんですか、アヒージョ?」

「さぁ、どうでしょう」

 むしろこちらが聞きたい。「あと、ハモンセラーノ」

 次美の顔を見たが、「二つで」とは言わなかった。

「以上で」

 店員が去り、俺はスーツのポケットからタバコを取り出した。

「飲もうぜって言ったよな?」

「言った」

 次美は何事もなかったようにそう言うと、使い捨てのおしぼりで鶴を折り始めた。

「何かあったのか?」

 俺は「別に」という答えを期待していたが、次美は「ちょっとな」と言った。


 ジンジャーエールとテンプラニーリョが運ばれてきた。「お通しでーす」とナッツも置かれる。スペイン・バルでもお通しって言うのか?

「おつかれー」と次美がジンジャーエールを差し出し、俺のテンプラニーリョがそこにぶつかる。「おつかれー」って乾杯するのだから、出てくるナッツが「お通し」でも文句は言えないかもしれない。


 俺たちのグラスがぶつかるのに合わせたように、上空から七色の光が降りそそぐ。ほんのわずかに遅れて破裂音がした。びっくりして見上げると、ビルの合間に花火が見えた。花火大会で上がるのよりはちゃっちいけれど、ホームセンターで売っているのよりは立派な花火だ。

「花火ー!」と次美が暢気に歓声を上げる。

「いや、ここどこだよ?」

「大都会トーキョー、の端っこ」

「おかしいよな?」

「おかしいですね」と答えたのは、ハモンセラーノを持ってきた店員だった。

 東京の片隅で突如花火が上がるなんておかしい。でも、突如花火が上がる東京もおかしい。時計の針はちょうど文字盤のてっぺんを指していた。また新しい一日が始まったところだ。


 そのあとも俺たちはしばらくビルの合間の空を気にしていたが、結局上がった花火はその一発だけだった。


 俺は三本目のタバコに火をつけたところで、ふと気がついた。

「吸わないの? タバコ」

「タバコはやめた」

 その言葉に俺は花火の三倍くらい驚いた。彼女は俺に輪をかけたヘビースモーカーだったからだ。

「いつ?」

「うーん、二カ月くらい前?」

「なんで?」

「ちょっとな」と次美は言った。

「酒も飲まない、タバコも吸わないって……」


 ここで俺は冒頭のセリフを言うことになる。

「お前のアイデンティティーはどこに行ったんだよ?」



 彼女を特徴づけていたのは大酒飲みでヘビースモーカーで、そのせいかどうかはわからないが声がハスキーで、どこか疲れた感じがあるということだった。前の二つが失われ、そのせいかどうかはわからないが声がハスキーではなくなり、外見も少し健康的に丸くなった気がする。これをアイデンティティーの喪失と呼ばずして、何と呼べばいいのだろう。


「どうしたんだよ? どこか悪いのか?」

「悪くないよ。むしろすこぶる健康だ」

「じゃあ、どうして?」

「できたんだよ」

「何が? あ、一句?」

「私が俳句を詠むと思うか?」

「思わない。ていうか、よく『いっく』が俳句の『一句』だとわかったな」


 くだらない話は尽きることはないが、尽かせなきゃならない時もあるということを次美は身をもって示した。

「子どもだよ」

 俺はタバコをやめたことの百倍驚いた。花火の一千倍だ。さっきと計算が合わないことなど、この際忘れていい。

「子ども!? って、誰のだよ?」

「あんたに決まってんだろ?」

「やめてくれ。めまいがする」

 次美は弄ぶような笑いを発した。

「然るべき相手だよ」

「叱るべき相手じゃないことを祈るよ」


「お飲み物はいかがなさいますか?」

 様子を見に来た店員が俺のグラスを指して言った。

「同じのを。ボトルで」

 ボトルでも飲まなきゃやってられない。

「同じのを。ボトルで」と次美も言った。

「かしこまりでーす」

 何事もなかったかのように、おかしな日本語を残して店員は消えていった。

「ボトルでって、ジンジャーエールだろ?」

「でも、かしこまってたな」

「言い方はかしこまってなかったけどな」


 それから、俺は根掘り葉掘り話を聞いた。根掘り葉掘り聞いても、結局相手が俺の知らない男で、年齢が俺たちの一回り下ということくらいしかわからなかった。相手が誰かということよりも、次美がいま自分が抱えている状況に完全に納得も満足もしていないように見えたのが気になった。

「好きなのか? そいつのこと」

 次美は久しぶりに俺の目をまっすぐに見据えた。

「好きだよ。でも、それだけじゃダメなんだろ? きっと」


 そこで店員が両手に二つのボトルを鷲掴みにしてやってきた。

「テンプラニーリョのボトルと」

 ドン、とテーブルに置く。「ジンジャーエールのボトル」

 一・五リットルのペットボトルだった。こちらは、ドスン、だ。

「すげー、こんなのあんの!?」と次美が歓声を上げる。

「通常のグラスが三百ミリリットルなんで、特別に五杯分の値段でいいですよ」

「至って適正ですね」

「至って適正価格でやらせていただいています」


 それからはほとんど記憶に残っていない。悪乗りしてテンプラニーリョをジンジャーエールで割った気がするが、いまの次美はアルコールを飲まないので全部俺が飲んだ、はずだ。よく覚えていない。ワインとジンジャーエールのボトルが空になるころには、時刻は夜と朝のちょうど狭間になっていた。


 俺か次美のどっちかが会計を済ませると、二人で道端に並んで通りすぎるすべての車に向かってバカみたいに手を上げた。一般車はもちろん停まることはなかったが、何台目かにパトカーが通りかかった時は二人して慌てて手を下ろした。

「何にしろ」と俺は言った。「着地できてよかった。飛んだままじゃ、ロケットだからな」

「平成ジャンパー、着地に成功しました!」と次美は敬礼をした。

「お前は酔っ払ってないんだよな?」

「ジンジャーエールしか飲んでないからな」


 やがて行灯の灯ったタクシーが、ハザードランプを点滅させて停車した。

「お先にどうぞ」

 俺が言うと、「そうか?」と次美が言った。開いたドアに右足を突っ込んだ体勢でこちらを振り返る。

「またな、バディー」

 そのまま体を滑り込ませ、ドアが閉まる。運転手に行き先を告げるだけの間があって、タクシーが発車する。ほんの一瞬だけ、次美が手を振ったのが見えた。

「バディーって何だよ」

 呟きながら、行灯が消えたタクシーに向かって手を振った。


 次美を乗せたタクシーが二つ目の角を曲がり、辺りに静けさが戻ると、俺は記憶の中でネットカフェの位置を確認し、そちらに足を向けた。あくびが出た。途中、ラブホテルの前で人目を避けるように歩き去る男女とすれ違った。よくある光景だった。一夜の過ちなんていうのは、その言葉の陳腐さよりも遥かに多くこの街にあふれている。


 子どもができたと聞いても慌てることがないくらい前に、俺と次美は「一夜の過ち」を犯した。陳腐な、取るに足らない過ちだ。その過ちを、いまの二人みたいに足早にホテルを出た瞬間から、次美は一度も口にしなかった。だから、俺もその話を蒸し返したことはない。今日も次美は何も言わなかった。そのことが、ただ、少しだけ寂しかった。



 東京は朝を迎える前のほんの束の間の穏やかさの中にあった。まだ空が白んでもいないというのに、どこかでカラスの鳴く声がした。


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