序 ラポール 一

「なんだ、その薄い反応は? 嬉しくないのか?」

 私の前に座っている、柔らかくて軽そうな灰色の布地のドレスをやけにひらひらさせた女性が、形の良い眉を盛大にひそめながら不満そうな声でそう言った。

「はあ、その、なんというか。あまりにも荒唐無稽こうとうむけい過ぎて――」

 私は、彼女が言ったことを反芻はんすうしながら、気の抜けた声で答えた。

「――だって、いきなり『これからお前を異世界に転送してやるから、感謝しろ』ですよ?」

 先程、自ら『女神シュレル』と名乗ったその女性は、胸の下で腕組みをしながらふんぞりかえる。

 それにより豊かな胸が押し上げられ、強調されることになったが、本人は意図があってそれをやっているわけではないらしい。

 なぜなら、その体勢のままシュレルは盛大に鼻から息を吐き出しつつ、そのまま話を続けたからだ。

「なんだ、それではいかんのか? 普通ならば『やったぁ、これで人生やり直しだぁ』ってな具合に大喜びするものなのだがな」

「まあ、世間知らずのお子様ならばそうかもしれませんけど。私はもうすっかり大人ですから。やり直すっていったところで、別に他に何か出来るわけでもありませんし」

「つまらん奴だな。夢や希望は持ち合わせておらぬのか」 

 シュレルは腰に手を当てると、また鼻から息を盛大に吹き出す。

「と、言われましてもですね」

 私は周囲を見回した。

 どうみても『地方自治体が予算をケチって作った公共施設の、あまり使われることがないので埃っぽい臭いが染みついた会議室』風の十畳ぐらいの広さの部屋の中。

 そこに、安物にしか見えないスチール製の会議机一つとパイプ椅子二つが置いてある。

 そこで向かい合って座っているのが、「上は白のポロシャツ、下はジャージで、スリッパを履いた私」と、「いかにも高級そうな生地でひだもふんだんなドレスの割に、渋い灰色で肌の露出も抑え気味なので、厳格な家庭教師にしか見えない」自称「女王様」――もとい、「女神様」である。

 シュール以外の何ものでもない。

「これでは途方もない夢を描きたくても無理、というものではないでしょうか。どうして『使われていない会議室の埃っぽい臭い』まで再現しなければいけないのか、その意図が全然分かりません」

「こっちのほうが、衝撃的な話を聞く時にはリアルだと聞いたのでな」

「一体誰に聞いたのですか? 転勤の申し渡しならば、確かにこのシチュエーションでばっちりと思いますが」

 私の話を聞いた一瞬、シュレルの視線が右横に泳いだ。図星ということだろう。

 どうやら、先にここに来たどこかの企業の人事担当者辺りに話を聞いたらしい。

「転勤みたいなものだろう?」

 シュレルが懲りずにそう言ったので、私は肩を落とした。

「違いますよ。異世界なんて片道切符じゃないですか」

 そこで、私は別なことに気がつく。

「あれ? ところで、『異世界転送』ということは、元の世界の私は死んだということになりませんか」

「そういうことになるな。『異世界召還』ではないからな」

 シュレルは「何を今更」といった顔をする。そこにツッコミを入れたいところだったが、先に確認すべき事項があったので我慢する。

 私は両の掌を合わせて、こう言った。

「じゃあ、こっちで赤ん坊から人生やり直しということですか」

 シュレルが驚いた顔をする。

「いやいや、それでは『異世界転生』だ。『異世界転送』だから、基本はそのままの姿だよ」

「そこはちゃんと使い分けされているのですね」

 要するに、『召還』だとそのままの姿で場所だけ変更、『転生』だと死んだ後で最初からやり直し、『転送』だと死んだ時の状態で場所だけ変更、ということになる。

 そこでシュレルは、左の眉をかすかに上げていった。

「他に、本体は残したままコピーだけを移動させる『異世界転写』というものもあるがな」

 それを聞いた私は、流石にツッコんだ。

「いや、それは無茶でしょう?」

「どうしてだ?」

「いやだって、質量保存の法則があるじゃないですか。同じ世界で二重に私が存在することなんて……」

 そこまで聞いたところで、シュレルが盛大に溜息をつく。

 その勢いに気圧されて私が黙ると、彼女は「仕方のない奴だな」という表情で言った。

「異世界と最初から言っているではないか。文字通り次元自体が異なるのだよ」

 常識のようにそう断言されて、私は少しだけむっとしたが、大人なのでそこは引くことにする。  

「はあ、そうですか。ところで、それだけ整然と分類されているということは、使い分けも可能ということでしょうか」

「ああ、時と場合によって変えている」

 シュレルがまた「至極当然」という顔をしながら言ったので、私はさらに話を進めた。

「では、なんで私は転送なんですか」

「いやそれは……」

 シュレルは、今回は明らかに左側に顔をそむける。

 そして、口笛を吹きそうな様子で言った。

「……これ以上は企業秘密なので、お答えすることができませんねぇ」

 シュレルの仕草や言動が、なんだかいちいちおっさん臭い。彼女の情報源になった奴が、おっさんなのだろう。

 私は脱力しながら言った。

「なんですか、そのわざとらしい小芝居は。テレビのバラエティ番組で、どうせたいした秘密でもないのに、もったいぶって隠す時の演出みたいじゃないですか。まあ、私は別にどうでもいいのですけど」

「いいのか? ここはツッコむところだと思うのだが」

 シュレルが残念そうな顔をする。事前に練習でもしていたのだろう。

 それに乗るのは嫌だったので、私は話を変えることにした。

「いいです。別に知っても結論は変わらないんでしょう? いまさら赤ん坊からは勘弁ですが、少しは若返らせてくれてもいいんじゃないか、とは思いましたけど。さっき、人生やり直しって話が出ていましたし」

 それを聞いたシュレルは、一瞬ぽかんとした表情になり、それからこう言った。

「ああ、それは構わんよ。若返りのことだけど」

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