流れ、淀む

朽網 丁

流れ、淀む

 母の経営する小さな雑貨屋の店番をしていると、いつかを境に店のある個所が妙に気にかかるようになった。

 傘の陳列コーナーだ。ステンレスのバーに吊るされたいくつもの傘は、店に広々と設けられた窓ガラスから取り入れられた陽光を受けて、色鮮やかな精彩を放っている。私はいつからか、店番中に気付けばこの傘売り場をぼんやりと眺めているようになったのだった。

 高校に進学して特に部活に所属しなかった私は授業を終えてまっすぐ家に帰ってくる。それから夕食の時間が来るまで二階の自室で漫画や小説を読んで過ごす。そうしてただ時間の経過を待つばかりの私の生活は母の目には好ましく映らなかったようだ。放課後は一階の雑貨屋を手伝うように言ってきた。気は進まなかったが、仕事はそれほど苦にはならなかった。私の店番は午後三時半から閉店までの三時間で、たまに来る客の対応をして、それ以外の時間はレジの内側で平然と本を読んだ。

 読書の場所が自室から店のレジに移り変わっただけの生活を半年ほど続けた頃、あることが私の興味を引いた。毎日来店する女性客だ。いつも閉店間際にやってきて、決まって傘を一本買っていく。それが彼女にとって意味のある習慣なのかは判然としなかったが、雨が降っていようがいまいがそれは変わらずに行われるようだった。

 今日はまだ彼女は来ていない。レジの裏手に掛けてある時計を見やると六時を十分ほど過ぎていた。あと二十分で閉店だが、いつも通りならもうすぐ彼女は現れるだろう。そんな考え事をしながら呆けていたら、手から読みかけの小説が床に滑り落ちた。落下した周囲に巻き上げられた僅かな埃が舞うように動揺しているのが目に映った。身を屈めて落ちた小説を拾い、再び正面に目を向けると、丁度店の扉を開けている最中の女性客が視界に入った。あの人だった。

 仕事帰りだろうか、紺のシャツに白のスラックスパンツという服装は彼女のいつもの服装だ。入店後迷わず傘の陳列コーナーに足を運ぶ彼女の姿態はもはや洗練されており、正しく一糸乱れぬ所作と言える。柔く揺れる後ろ髪がうやうやしく彼女の歩いた先に続き、彼女の存在と行動を高貴なものに仕立て上げている。

 整然と並ぶ傘を前に彼女は逡巡することなく、導かれるように一本の傘を引き抜いた。紺碧色の生地に、立木に止まった梟のようなシルエットが白くプリントされた傘だ。

「これ、お願いします」

 私は差し出された傘を受け取り、「五四十円です」と金額を伝えた。財布の小銭入れの中を探るために俯き加減になった彼女の顔を、私は悪事でも働くように盗み見る。三十代ではないだろうが、目前ではあるように思える。トカゲを彷彿させるやや尖った風な顔だが、綺麗な女性だ。

「そのままで結構です」

「恐れ入ります」

 タグの部分にテープを貼って手渡した。彼女は小さく会釈をして店から出ていった。以降接客をすることもなく閉店時間を迎え、閉店作業に取り掛かった。

 作業を終えて二階に上がると、台所から漂ってくる香りに、自分がお腹を空かしていることを認識させられた。半ば無意識に台所に進み入り、食卓に置かれたサツマイモの甘露煮をつまんでいたら、それまで背を向けていた母が唐突に振り向き、目が合った。

「あんた少しは我慢なさいよ」

「これ好きなんだもん」

「お店ちゃんと閉めた?」

「うん」

「そ、ありがとう。暇ならご飯よそっておいて」

「お父さんの分は?」

「今日も遅くなるからいいって」

 炊飯器を開けて二人分のご飯をよそう。真新しいタオルに包まれるような感覚で立ち上る蒸気を顔で受けると、眼鏡のレンズが一瞬で曇ってしまった。何とか視界を確保しようと、頭を振る。その時ふと、例の女性について母に尋ねたことが一度もなかったことに気付いた。

「ねえ」

「んー?」

「お店の傘、売れてる?」

「あんまり」

「いつも買っていく人とかいない?」

「いないねえ、残念なことに」

 母はあの人を知らないようだった。母が店に出ている時間帯には来ないのだろうか。

 食事を終え、課題を片付け、入浴を済ます。寝床に潜った私は再度あの女性客のことを考えた。次第にそれは彼女について黙考している自分自身についての内省へと移り変わっていった。

 彼女を気にかけている理由はそれほど明確ではない。ただ漠然と、彼女の奇妙な行動の真意に迫れば、その先にある素晴らしい展望に臨めるのではないかという期待だけがある。しかし厭人えんじん的な私には彼女の真意を確かめるだけの手段がない。

 あの人が母の雑貨屋で傘を購入し始めてもう二か月は経つだろうか。あの人の家には私の売った傘が少なくとも六十本はあるということになる。それらが彼女の家の床を埋めながら、眠るようにひっそりと息づいているところを想像してみる。少し不気味な光景だ。


 明朝、登校する前に本棚の前に立った。少女漫画と恋愛小説が行儀よく並んでいる。ひとたび開けば雄弁に語る彼らが、こうして背だけを見せて粛々と並んでいると、どうしてか厳かな仏頂面が目に浮かぶ。

 昔一度だけ読んでそれきりになっていた恋愛小説を棚から抜き出して手に取る。タイトルを見ても内容が思い出せない。それを鞄に入れて家を出た。

 授業の合間を縫って小説を読み進める。当然のことながら目でなぞる文章の節々に見覚えのある表現が散見される。その瞬間を幾度も享受する中で、芋を掘るようにおぼろげな記憶が補完されていくのを肌で感じる。呼び起される記憶の甘美な揺蕩たゆたいが、膨らんでは萎む鷹揚なカーテンのように感じられ、その中で読書に耽る私はますます物語に夢中になっていった。

 全ての授業が終わり、ホームルームも簡単に済まされると生徒たちは三々五々に散っていった。数人で連れ立って部活に赴く者、はしゃぎながら遊びに行く者、その場から離れずに歓談に興じる者、早々に帰る者、様々だ。平生であれば私もすぐに教室を後にするのだが、生憎今日は読んでいる小説のキリがあまりにも悪い。帰宅後退屈な店番に入れば、すぐにでも読書を再開するつもりではあるがその間隙すら惜しいほどに、今私はこの物語に没入していた。

 一体いつから恋愛漫画や恋愛小説にのめり込むようになったか、それは定かではない。ただ、それらに多く触れる生活を送っている中で生じた明らかな変化がある。あるものに対する茫漠ぼうばくな失望を抱くようになったというのがそれだ。

 隣から女子生徒たちの会話する声が耳に入ってくる。その内容ゆえ、頭から雑音を追い出すことができない。

 隣の彼女らは自身の恋愛に関する話をしていた。彼氏の男としての甲斐性だとかセックスの上手さだとか、下品な言葉で不平を言ったり、間抜けな調子で褒めそやしたりしている。ほかにも、お前も早く告白して付き合ってしまえなどと、想い人のいる友人を焚きつけるようなことを言い合い騒いでいる。

 ああ、くだらない。私たちの生きるこの世の中に充溢じゅういつしている恋愛の何とくだらないことか! 何の感興もそそらない野卑な恋愛模様も、そんな粗末なものに憂き身をやつす蒙昧もうまいな連中も皆不愉快で仕方がない。

 ここには私が夢想した恋愛などは一つもない。ただ凡庸な恋愛が普遍するばかりだ。恋人のために命がけで奔走する者もいなければ、いつ来るとも知れない恋人の目覚めを甲斐甲斐しく待ち続ける者もいない。利己的で合理的な恋愛。人々はまるで仕事でもするかのように恋愛をする。そこに美しさを見出すことは本当ではない。

 私は募る苛立ちに耐えかねて席を立つと、勢いそのまま教室を後にした。

 力なく垂れ下がった手の指先で辛うじて本を掴みながら、家路をできるだけゆっくりと歩く。

 家に着いた私を母が出迎えた。

「おかえり、遅かったね」

「うん」

「お店入れる?」

「大丈夫」

 自室で制服から私服に着替えて、無地のエプロンを着ける。読みかけの本を数冊持って階下に戻る。

 私と入れ違いで二階に上がっていった母は、少し休憩してから夕飯の買い出しや支度に取りかかるのだろう。

 私の帰宅が遅れて店番の交代が押したとしても、母は特に小言を口にしたりはしない。早く店番から解放されて休憩に入るより、私が少しでも長く学校で時間を過ごしていたこと方が嬉しいのだと見える。自身の厭人癖が母に心配をかけていると思うと少し心苦しくはあるが、こればかりは如何いかんともしがたい。

 私は架空の物語の大仰とも言える美しさにすっかり取り憑かれてしまったようで、現実の人々の淡白な営みにまるで関心が持てなくなってしまった。そればかりかそれらを軽蔑すらしている。学校一の伊達男にも少しもときめいたことがなければ、その男に首ったけになっている女子に共感したこともない。果たしてこの感性は矯正すべき不具だろうか。

 雑な考えが常に念頭にあったものの、時間はそれなりに過ぎていった。何度か会計をし、小説を読み、疲れたら漫画を読んで、気づけば閉店まで三十分を切っていた。

 そういえば今日はあまり傘の方を気にしていなかった。例の女性客もまだ来ていないはずだ。時間的には十分後ぐらいには来そうな具合だ。

 その時窓外に、今まさに考えていたあの女性がこちらに向かって走ってくるのが見えた。まもなく入店した彼女は随分と焦っている様子だ。レジに立つ私と商品の傘をそれぞれ何度か見やり、結局私の方へ小走りで近づいてきた。

「あの、ここって何時閉店ですか」

 表情から容易に想像できる切迫した声で訊いてきた。

「六時半です」

「取り置きにしてほしい商品があるんです。それで、できれば八時頃取りに来たいんですが」

 店番を始めてから一度も受けたことのない要求だった。本来であれば母に判断を仰ぐところだが、生憎母はまだ買い物から帰ってきていない。私は悩んだ。

「取り置き自体はできます。でも閉店後のお渡しはできないので……」

 言い淀む私を見て、彼女は沈鬱な表情を浮かべる。彼女が何を買いたいのか見当がついた。途端、私は強い好奇心を覚えた。それは物語の展開を早く知りたくて、ページを繰る手が興奮に逸るのと同じ感覚だった。

「傘、ですか」

 彼女は一瞬驚いたようだったが、それはすぐに納得に変わり、「はい」と消え入る声で答えた。

「今日は仕事の都合で、どうしても今買っていくことができなくて」

「明日では駄目なんですか」

「毎日買わないと駄目なんです」

 反駁する声は大きく、店内に響いた。彼女自身も意図しない声量だったようで、押し黙る頬は紅潮していく。

「配達ならできますよ」

 嘘を吐いた。平然と口から出る虚言に、自分の意外な胆力を見た。嘘を吐く時に生まれる、あの御しがたい罪の意識を毛ほども感じなかった。

しかしおかげで彼女の顔には希望が芽吹いている。

「本当ですか」

「はい、配達先の住所とお客様のお名前、それから連絡先を教えていただければ。配達時間は今日の八時でいいんですよね」

 彼女は快活に頷くと売り場から一本の傘を選び出し、レジまで持ってきた。前払いを済まし、必要事項を記入した紙を渡してきた。そこまでしてすっかり安堵したのか、腕時計に目をやると、傍目にも分かりやすく驚いて、慌ただしく扉の方へ行き「じゃあ、八時にお願いします」とだけ口早に言って出ていった。

 急にまた静かになった店内に取り残されたのは、彼女の選んだカーキ色の傘と店員の私、それから住所などが記載された紙だけだ。そして紙に書かれた配達先の住所は、私の記憶が間違っていなければ、近くの病院のものだった。

 夕食を取り終え、リビングでテレビを見ている母の目を盗んで静かに家を出た。ここから指定された病院までは歩いて三十分ほどかかる。自転車で行くべき距離だが、丁寧に傘を運ぶ必要があったため、歩いて向かうことにした。道中どれだけ律しても浮かれようとする心身を、冷たい夜風と手にかかる傘の重さだけが献身的に引き留めてくれていた。

 一人で夜道を歩き続け、やがて病院に到着した。道すがら携帯で調べてみると、この病院は夜九時まで面会を受け付けているようだった。誰かの面会の際、彼女にはこの傘が必要だというのだろうか。もっとも彼女が面会のためにここを指定したのかはまだ分からないわけだが。

 入口の手前で周囲を見渡していると、目の前の自動ドアが開いて中から彼女が出てきた。服装はさきほど来店した時のままだ。

「ああ、よかった。お待ちしてました」

「すみません、少し遅れました」

「いいえ、時間通りでしたよ」

 実際は二分ほど遅れていたが、そう言われてしまえば敢えて訂正する必要もないだろう。私は簡単に包装した傘を手渡した。

「わざわざ包んでくれたんですね」

「ご迷惑でしたか」

「いいえ、とっても嬉しいです。あの人は喜ぶか分かりませんけど」

 それはいやに思わせぶりな言葉だったが、彼女のあどけない表情を見ると他意のないものだということが分かる。しかしそれで彼女に関する興味が薄れるかといえばそうではなかった。

「どなたかのお見舞いですか」

「はい。雨も降ってないのにわざわざ傘を持ってお見舞いなんて、変でしょう」

 彼女は頬を微かに紅潮させる。

「何かわけがあるんですか」

「ええ、別に面白い話でもないですけど」

 私は彼女の手に握られた傘を見下ろしながら「そうでしょうか」と呟いた。

 それを聞いた彼女はやや俯いて何かを思案しているようだったが、じきに顔を上げて「よろしければ中で」と言って病院の中を指さした。

 私は頷き、こちらに背を向けて歩き出す彼女の後を追った。

 彼女の足は迷わず入院病棟に向けられた。面会手続きは事前に済ませていたらしい。時間帯ゆえか廊下の照明は既に半分ほどが落とされており、病院のあの脅迫的な白さは緩和されている。リノリウムを叩く二人分の足音だけが、昼間とは変わらずに響いているらしかった。私の足音の方が少しだけ小刻みだ。

 そうしてたどり着いた一室の表札には男性の名前が表記されている。彼女は慣れた所作で病室の扉をスライドさせて中に入った。私もそれに続いた。

 これまで歩いてきた廊下よりもさらに暗い、窓から差し込む月明かりだけが光源として認められる部屋のベッドには、一人の男性が横たわっていた。男性の身体からは、呼吸器をはじめとする様々な管がまるで生き物の触手のように伸びている。それは凄惨な姿というよりは、何か神秘的な儀式のためにしつらえられた装いのように映る。そう映るのは、照らす月明かりが蛍光灯の光よりもずっと柔和だからに違ない。

「この人、私の婚約者なんです」

 隣にいた女性はベッドの方に歩いていき、ベッドの柵に傘を立てかけた。私は固まりつつあった足を殊更意識的に動かして、再度彼女の隣まで移動した。頬のこけた男性の顔を覗き込む。

「ご病気、ですか」

 私の問いに彼女は首を横に振った。

「一年くらい前に、飛び降りてしまって、それからずっとこうなんです。もとよりとても気難しい人でしたけど、何も言わずに突然……私の両親に挨拶に来てくれる日の前日でした」

 語る彼女の面持ちに悲壮感は見られない。経年によって距離を取ることで達観を得たのかもしれない。

「一年間ずっとお見舞いに?」

 頷く彼女を尻目に、脳裏に次々と流れてきてはつながる憶測によって膨らんでいく高揚を、私は抑えきれずにいた。口から勝手に言葉が出ていこうとするのを必死で堪える。私の心境はまるで山頂からの眺望を心待ちにして不適切に登頂ペースを上げる登山家のようだった。

「傘を買って来るようになったのは二か月くらい前からです。理由は、口にするのも恥ずかしいんですけど。あるテレビを見まして」

「テレビですか」

「はい、どうやら楽しく科学に触れるというのがコンセプトの番組みたいでした。そこで知ったんです。理論上、人間は八十四本の傘があれば空を飛べるって。ほら、メリー・ポピンズってご存じないですか」

 説明しながら恥ずかしくなってしまったようで、照れ笑いする彼女は私に同い年の友人と会話していると錯覚させるほどうら若く見え、可憐だった。

「その時思ったんです。それだけの傘があれば、彼も空を飛べたんじゃないかって」

 そこまで話して、初めて彼女が悲しそうな顔を浮かべた。

 私は彼女の言わんとすることを悟った。きっとこれは願掛けなのだ。約一年間も眠り続ける婚約者の目覚めを待ち続けた彼女の健気な願掛けだ。毎日傘を買い続け、その本数が八十四という数に達した時、彼は目覚めるに違いないと、彼女はきっと信じているのだ。

 そして私はそれを悟った瞬間、理想の現前を見た。こういう耽美な懸想けそうを理想とすればこそ、私はこれまで周囲で起こる恋愛模様を軽蔑してきたのだ。これが読み進めた物語の真相であれば、三文的だと鼻で笑うこともあったかもしれない。しかし一転してそれが実際に目の前で起きる、遠い婚約者への追慕であれば、私は歓喜のあまり滂沱ぼうだの涙を流すだろう。理想の恋慕とは得てして、月から伸びてくる一筋の光芒こうぼうだけによって照らされた小さな一室で、人知れず生まれては育まれていくものなのかもしれない。

「初めはそういう願掛けのつもりだったんですけどね」

 歓喜に湧いていた私の耳に、そう付言する彼女の声はひどく不気味に届いた。

「え、違うんですか」

 思わず反射的に訊いてしまう。

「今はむしろ逆というか、諦めるための期限のように考えてます。八十四本目の日が来ても彼が目覚めなかったら、もう忘れるべきなのかなって」

 その言葉を聞いて呆気にとられる私をよそに彼女は話し続ける。信じられないものを見る心地で彼女の横顔を覗くと、左顎に小さなホクロを見つけた。その媚態びたいにおぞましさを覚える。口元にそんな淫靡いんびなホクロをつけた女の口から出る言葉など碌なものではないとさえ思えた。

「先月、会社の上司から結婚を前提にした交際を申し込まれたんです。ずっと曖昧な返事ばかりしてきたけど、私ももういい歳だし、先に進む機会なのかもしれないと思って」

 もはや眩暈さえ感じた。相まみえた理想は幻であり、弄ぶようにその身を霧散させてしまった。

「その人と結婚してしまうんですか」

「……いい人ですし、両親も今の状況にあまりいい顔はしてませんから」

 彼女の返答は煮え切らない様子だ。だからこそ目覚めを待つ願掛けを、目覚めを待たない名分に流用しているのだろう。

 しかしもはや彼女の抱えている事情や置かれている状況などはどうでもよかった。彼女もまた私の軽蔑する蒙昧な連中の一人でしかなかった。求婚と年齢、それから両親。彼女が口にした、この男性を見捨てる理由すべてが美しくない。美しくない恋愛で身を汚そうとしている蒙昧な女でしかない。そうと分かればこんな女とこれ以上付き合ってやる義理は微塵もなかった。

 女は以降もやたらと身の上話をしたがり、病院から出たのは面会終了の九時だった。話の中で唯一関心があったのは、入院中の男性が母の雑貨屋の傘を気に入っていたということだけだった。

 私が徒歩で帰ると言うと女はタクシーを呼ぶと言って聞かなかったが、固辞した。帰路を辿るさなか、無気力が充満していくのを確かに感じていた。その中でふと思い出した。

 そういえば今朝読み返し始めた小説の結末も、あの女の周囲で起こっていることと似ていた気がする。ヒーローが命を賭してヒロインを救うも、長い眠りから覚めてみればそのヒロインは別の男と家庭を築いていた、にわかにもそんな結末だったという記憶が甦ってきた。


 病院を訪ねた日からおよそ一月、あの女が店に来なくなってから一週間が経つ。私は相変わらず店番をしている。今日は雨が降っている。窓の外に傘を差した一組の男女が並んで歩いていく姿が見えた。もしあれがあの女なら、相手の男性は果たしてどちらなのだろう。しかし傘で隠れてしまい、二人の顔を窺うことはできない。

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流れ、淀む 朽網 丁 @yorudamari

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