海が太陽のきらり
一視信乃
海が太陽のきらり
青い空に光る雲。
今日も暑くなりそうやわと、
海で泳ぐのを夏休みの日課としている彼女は、
すると偶然、岩の
潮が引いたとき、取り残されたんやろか。可哀想やわ。
そう思った陽子がそっと魚を
驚く陽子の眼前にふよふよと漂っているのは、体長およそ8センチ、二つの三角の
これって確か──
「クリオネ?」
流氷の天使だか妖精だかが、なんで真夏の海にいるほ?
そもそも宙に浮いちょるし、妙にデカイ気もする。
戸惑う陽子の耳に、
「心優しき少女よ、我を助けてくれてありがとう」
と謎の声が聞こえてきた。
男くさくて明るい響きの低音ボイスだ。
それに合わせ、クリオネ(?)がピョコピョコ羽を動かす。
ひょっとして、このクリオネ(?)が
「左様。だが、我はクリオネではない。これは、世を忍ぶ仮の姿だ。あるときは囚われの可愛い小魚、またあるときは流氷のエンジェル、しかしてその実体はぁ──」
ババーンっと自分で効果音を付け、クリオネ(仮の姿)は、高らかに名乗りを上げる。
「海の神の使い、
「──変な名前」
陽子が正直に
「悪かったなぁっ。我はこの海で溺死し、
「……ようわからんけど、たまげたわぁ」
「まあいい」
元の白く透き通った身体に戻った
「心優しき少女よ。名はなんと申す?」
「……陽子やけど」
「では、よっきゅんだな。よっきゅん。そなたに礼として、魔法を授けてしんぜよう」
「魔法?」
「左様。見たところ、女子児童……いや、小学生のようだし、大人になる魔法はどうだ?」
「別にいらんよ」
「何でじゃーっ。女児はそういうの好きなんだろっ。オレが生きてた頃は、そういうアニメが大人気だったぞ」
すっかり地が出てるっぽい神の使いへ、
「大人なんてそのうちイヤでもなるんやし、今は子供でええわ」
と陽子は冷めた目で返す。
しかし、彼も譲らない。
「いーやっ。これはもう決定事項だ。まあ、大人っつっても16くらいになるだけだから、酒もタバコもNGだけどな」
そういうと、一体どこから取り出したのか、何かを陽子に放って寄越した。
条件反射で受け取ってしまったそれは、掌にちょうど収まるサイズの薄桃色の二枚貝だ。
「それを掲げて、呪文を唱えよ。えーと…………マリン キラリン キラキラ マリーンだ」
「…………」
陽子の視線が、クリオネの生息する極寒の海のように凍り付く。
今度は一瞬青く光った土左衛門が、
「よっきゅ~ん」
と猫なで声を出した。
「お願いだから、いって下さいよぉ。マジ、ホント、お願いしますってぇ」
「……しゃーないなぁ」
ホントはほんの少しだけ興味のあった陽子は、周りに人がいないのを確認してから、右手でそーっと貝を掲げ、なるたけ小さな声で叫んだ。
「マリン キラリン キラキラ マリーン」
すると突然、貝がひとりでにぱっかり開き、中に入ってた大粒の真珠が白日の元にさらされる。
真珠は真夏の太陽よりも強い銀の輝きを放ち、それは光のシャワーとなって、陽子の上に降り注いでくる。
「おおっ、おう、おう、素晴らしい」
興奮した土左衛門の声に目を開くと、銀の光はすっかり収まり、そこにはただ見慣れた夏の海岸がある。
手の上の貝も消えている。
今のは一体なんだったのかと、呆然とする陽子の前に、突如鏡が現れた。
「見よっ、これが陽子16歳だっ」
鏡面に映る驚いた顔は、確かに自分のものである。
だけど、なんかほんの少し──
「老けた気ぃする」
「大人っぽくなったといえよ。それに、ほれ、背も伸びてるぞ。10センチ以上。それから、胸も──」
「土左衛門のエッチぃ」
陽子の裏拳がキレイにヒットし、土左衛門は波間に沈む。
だけどすぐに、ぶつくさいいながら戻ってきた。
「あー、トラウマ
Tシャツの胸部分の膨らみと、むき出しの手足をじっくり眺めながら、陽子は、
「泳ぐ」
と即答する。
「泳ぎも上手くなったほか、試してみるほ。いけん?」
「いけんって、お前、いいのか、そんなんで。せっかく……」
なおもしつこくいい続ける土左衛門を無視し、ロンTとビーサンを岩場へ脱ぎ捨てると、彼女は海へ入っていった。
伸びた背の分だけ、海面の高さが低くなってることに感動してから、いつものように付し浮きし、スッと手足を動かすと、
嬉しくなった陽子は、夢中になって泳ぎ続けた。
*
太陽の高さで、お昼をだいぶ過ぎてしまったことに気付いた陽子は、慌てて海から上がった。
ご飯を食べに帰ろうと、濡れた水着の上に直接ロンTを着、午前中よりさらに人が増えたビーチを尻目に、防波堤の階段へと向かう。
その途中、前から来た若い男性二人組の一人が、陽子に声をかけてきた。
「キミ、ぶちカワイイねぇ。高校生? 中学生?」
「は?」
魔法で大きくなってることを、すっかり失念していた陽子は、彼が何をいってるのか、イミがよくわからなかった。
「一人? やったら、俺らと遊ぼうや?」
「えっ?」
「ええやん。なぁ」
にやけた男たちに迫られ、やっと何が起きてるか悟る。
まさかとは思うけど、違うとは思うけど──
これって、ナンパなんーっ!?
初めての事態に頭がぐるぐるし、どうしていいかわからず戸惑っていると、男たちの後ろから、
「おーいっ」
という声が聞こえてきた。
見ると、ボルドーのタンクトップにチャコールグレーのハーフパンツの茶髪の男が、こちらへ手を振りながら駆け寄ってくる。
うわー、仲間が増えよったっ!
「なんだぁ、こんなとこいたのか」
と、男は親しげに声をかけてきた。
よく見ると、二人組より若そうだし、結構カッコいい。
「先輩たち待ってるから、早く行こう。あっ、すみません。オレたち、ちょっと急いでるんで」
そういいながら陽子の手首を掴んだイケメンは、呆気にとられる二人組の間をすり抜け、防波堤の階段を上る。
腕を引かれた陽子は、わけもわからず付いていく。
そのまま道沿いにしばらく歩き、ビーチから離れたところまで来て、ようやく彼は足を止めた。
そして、陽子の手を離す。
「ゴメン、いきなり。なんか困ってたみたいだから」
そうか、この人、うちを助けてくれたんか。
やっと状況を理解した陽子は、
「助けて下さって、ありがとうございます」
と
「いや、そんな気にしないで」
ちょっと鼻にかかったような、でもとびきり甘い声で彼はいう。
陽子と同じくらい日に焼けた肌に、色素の薄い赤茶けた髪。
背が高くスマートで、でも肩幅は広く、腕も
そして何よりイケメンだ。
このへんではとんと見かけぬ、垢抜けた雰囲気の少年に、陽子の胸はとくんと高鳴る。
一方、彼も、じっと陽子を見つめ首を傾げる。
「キミさぁ、さっき、あっちの方で一人で泳いでた子、だよねぇ?」
「見てたほ?」
「ああ。あっ、いや、あんな風に泳げたら、気持ちいいだろうなって思ってさ。オレ、あんま上手く泳げないから」
「やったら、うちが教えましょうか?」
「えっ?」
声を上げた彼と同時に、陽子自身も驚いていた。
あんま上手く泳げないといった彼の、ほんの一瞬見せた陰りが、なんとなく気になって、気付いたらそう口走っていたのだ。
「その……さっきのお礼ですけぇ、えがったら……」
言い訳のようにモゴモゴと付け足すと、戸惑う素振りをしていた彼も、
「それじゃあ」
と意を決したように口を開く。
「せっかくだし、教えてもらおっかな。あっ、でも、まずは名前教えてよ。オレは
「陽子です」
「あっ、それと、敬語はいいから。オレ高二だし、そんな変わんないだろ?」
いや、うちホンマは小五なんやけど。
内心そう呟きながら適当にごまかし、一旦海斗と別れた陽子の耳に、
「ほほーう。芸能界に興味はなくても、殿方に興味はあるんですねぇ」
という笑いを含んだ低音ボイスが聞こえてきた。
驚いて辺りを見回すと、いつの間に現れたのか、クリオネもどきの土左衛門が、ふよふよと漂っている。
「いいんですよぉ。夏だけど青い春真っ盛りですもんねぇ、よっきゅんは。ただ一つ、いい忘れていたことがありましてぇ。その魔法、キスで解けるので、くれぐれもご注意を」
「きっ、キスぅっ!?」
「左様。お姫様にかけられた悪い魔法を解くのは、王子様のキスと昔から相場が決まっておるではないか」
「悪い魔法っ!?」
「我のは違うぞ。我は神の使いだからな」
土左衛門の言葉に、赤くなったり青くなったりしていた陽子だが、どこかから漂ってきた食べ物のニオイにハッとなる。
「そうや。うち、お昼食べに、ぶるとっぴんで帰りたいんやけど、元に戻る方法教えてや」
「はいはい。よっきゅんは、まだまだ花より団子か」
やれやれといわんばかりに土左衛門は羽を動かし、
「ま、一度くらいは助けてやっから、なんかあったら呼ぶがいい」
と恩着せがましくいった。
*
「なんや、全然泳げるやん」
海斗の泳ぎを見た陽子が目を丸くして呟くと、彼は
「まあ、一応……」
と自嘲気味に笑った。
ふたりがいる遠浅の海は、とても明るいターコイズブルーで、波で砕けた陽光が、底の
しかし、海斗の表情は暗い。
聞けば彼は、水泳の強豪校として知られる都立の水泳部に所属しており、去年はインターハイにも出場したが、最近はなんだかスランプ気味だという。
「前は泳ぐのが楽しくってしょうがなかったのに、今はあんま楽しくないんだ。それで気晴らしに、じーちゃんち来たんだけど……」
そう語る海斗の姿は、小学生の陽子より、ずっと幼く頼りなく思える。
親とはぐれた子供みたいや。
筋肉質な身体にドキドキしていたことも忘れ、陽子は彼の手を取った。
「うちと一緒なら、絶対楽しいって」
「何その自信」
いきなりの笑顔に、陽子は心臓が止まるかと思った。
「ほ、ほいじゃあ、てれんこぱれんこせんと、はよ泳ごっ。頑張ったらご
「いいとこ?」
「うちだけの秘密の場所。ぶっちキレイなトコや」
「へえ、それはちょっと見てみたいかも」
それからふたりは、ひたすら泳いだ。
次の日も、その次の日も。
硬かった海斗の泳ぎも、次第に本来のスタイルを取り戻していき、まだ本調子ではないものの、逆に陽子へアドバイスするまでになっていた。
「こんな泳いだのは久しぶりだよ。スゲー疲れたけど、まだもっと泳ぎたい気もする」
水着のまま砂浜に並んで座り、夕日に染まる海を眺める。
波は穏やかで潮風が心地よく、このままずっとこうしていたいと、海斗の横顔を見つめながら陽子は願った。
ちょうど彼が振り向いて、ふたりの視線がふっと重なる。
少し瞳を揺らしてから、海斗はニッと笑っていった。
「ねぇ、そろそろご褒美くれない? オレ、結構頑張ったと思うし、明後日の朝には帰るから」
そのことは最初に聞いて知ってたが、彼の口から改めて聞かされ、陽子は強いショックを受ける。
この世に永遠なんてものはなく、楽しい時も、いつかは終わりがくる。
そんなの最初から知っていた。
おまけに陽子は、彼を騙しているのだ。
本当の彼女は海斗から見れば小さな子供で、本来なら関わることすらなかった相手。
これは全部、土左衛門の魔法が見せてくれた夢なんや。
やったら、ここは大人しく、大人らしく、おしまいにしよう。
それも、ずっとステキな思い出として残るような、最高のフィナーレに。
そう思って、陽子も笑った。
「わかった。明日連れてくけぇ、楽しみに待っちょき」
*
「えっ? ここから飛び込むの?」
海岸にそそり立つ岩の上で、しり込みする海斗を、
「飛び込み台から飛ぶんと同じじゃて」
と陽子は急き立てた。
見せたいものはこの下の、ちょっと深いところにあるから、飛び込んでもらわないと困るのだが、海斗は、
「いや、オレ、高飛び込みの選手じゃないし」
と渋り続ける。
確かにうちも、最初は怖かった。
やけど、ちょっと勇気を出したら、ガラリと世界が変わったんや。
海斗さんにも、それを味わって欲しい。
「やったら、うちが先に行くけぇ」
青い空と海原へ
迷っていた割に、とてもキレイなフォームだ。
長い潜水のあと、ようやく浮上してきた彼の元へ、陽子は急ぎ泳ぎ寄る。
そして、手近な
「ねぇ、どうやった?」
あえて何も説明せず、ただ彼の感想を求める。
「あー……最初、プールや浅瀬と違って、底の方がスゲー暗く見えて、なんかちょっと怖かったけど、急いで上目指して泳いでったら、海面に揺れる太陽の光がスッゲーキレイで、まるで陽っ……いや、オレを導いてくれる希望の光みたく思えたよ、なんて──」
照れ臭そうに出された答えに、陽子は嬉しくてたまらなくなる。
「あのねっ、うちが見せたかったんは、それなんよっ。水の中から見える太陽の光っ」
色を持たないはずの水は、沈みゆくほど青を深くし、やがては岩と同化して、無限の闇と化していく。
だが反対に天を仰げば、空を映した明るい
ここは元々、この町で生まれ育った陽子の両親の秘密の場所──デートがしづらい
陽子の名も、ふたりがここで見た、海中を照らす太陽に
その話を聞いたときから、自分もいつか大好きな人が出来たら、一緒に来たいと思っていた。
海斗をここへ連れて来たのは、たまたまみたいなものだったけど、今では一緒に来れてよかったと心から思える。
少しうつむき、そのことを伝えるべきか迷っていたら、かすれた声で名を呼ばれた。
特に強く感じたのが、柔らかな唇越しに歯同士が軽く当たった衝撃。
想像してたんと、なんか違うけど──今、まさか、キスしたんっ!?
そうと意識した途端、土左衛門の言葉が脳裏に甦る。
『その魔法、キスで解けるから──』
うわーっ、あかん、どないしよう!?
魔法もう、解けちょるん?
陽子の頭は、キスより、そっちで一杯になった。
一方海斗は気まずげに、陽子から視線を
逃げるなら今しかないだろう。
「さいならっ」
陽子は短く言い捨てると、顔を隠すよう海斗に背を向け泳ぎ出す。
一路、きらめく沖を目指して。
助けてーっ、どざえもーんっ!
水を掻きながら頭の中で懸命に叫ぶと、
「しゃーねぇなぁ」
という低音ボイスが聞こえ、陽子の身体は銀の輝きに包まれた。
*
一年後の夏、陽子は一人、秘密の場所へ泳ぎに来ていた。
前はそれが楽しみだったが、今はそこまで楽しくない。
一人でいるのが寂しくて、つい誰かを探してしまう。
海斗さん……。
あの日、光に包まれたと思った次の瞬間、陽子は土左衛門と最初に会った岩場にぽつんと突っ立っていた。
姿は元に戻っていて、土左衛門もどこにもいない。
すべてが長い夢に思え、急いで帰って確かめると、時は確かに流れていた。
海斗には、あれから一度も会っていない。
クラスメイトが
きっとスランプから脱却し、東京で大活躍してることだろう。
女のコにもモテモテで、もう陽子のことなんか、すっかり忘れているかもしれない。
それでもうちは忘れんけぇ。
なんか急にむなしくなって、そろそろ帰ろうかと思ったとき、岩の上で何かが光った。
見上げると小さく人影らしきものが見える。
陽子は慌てて岩礁に隠れた。
秘密の場所といっても私有地ではない。
たまたま誰かが紛れ込んでくる可能性もある。
どうせすぐに帰るだろうと、しばらく様子を
見覚えのあるキレイなフォームにハッとする。
まさか、まさかっ。
長い潜水のあと、ようやく浮上してきたのは、茶髪の少年、やはり海斗だ。
彼は、陽子が隠れた岩の反対側へ泳ぎ寄ると、そこでほっと一息吐き、小さく陽子の名を呼んだ。
うちのこと、覚えとってくれたん?
思わず返事しそうになって、陽子は慌てて口をつぐむ。
今の自分は、彼が知る陽子ではない。
あれから5センチ背は伸びたけど、それでもまだまだ小学生だ。
高校生が相手にしてくれるはずないだろう。
うちが、大きくなるまであと数年。
それまで待っちょってくれますか?
そしたら絶対伝えたい。
海斗さんが好きなほ、って。
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