死神の後始末
外崎 柊
死神の後始末
一月の淡路島の寒さは格別で、小さな太陽の熱はロウソクの炎程も体を温めてはくれなかった。
海からの風が、嘲笑うように容赦なく顔を嬲り、吹き過ぎていく。さっき触れた死者の体温とどちらが冷たいだろうか、ふとそんな考えが頭をよぎった。その体温を思い出し、少し湿っていた皮膚の感触までもがよみがえってきた。
その時も、死者はただ沈黙していた。
「片桐葬祭の山内です。この度はご愁傷さまでございます。」
頭を下げ、胸の内で三つ数えてから顔を上げる。型通りのお悔やみを言うと、故人の連れ合いらしき高齢の女性が頭を下げる。
「ありがとうございます。」
おばあさんの声には疲れがにじんでいた。
「なんや、情けのうてな。」
目の端に涙を浮かべ、老妻は、先に逝ってしまった夫のことを叱りつけるような口調だった。
連れ合いが死んでしまったことが情けないとは、どういう感情によるものか、その場の僕には、おばあさんの胸の内を推し量ることはできなかった。
肉体の腐敗を遅らせるため、ドライアイスの処置を施し、故人の枕元に、枕机を置き、線香をあげられる準備を整え、菩提寺の住職に連絡をとったのかと、おばあさんに尋ねた。
もうじき住職が枕経にくるとのことだった。
時間は午後一時になろうとしていた。
葬儀の日程や、プランの金額について話を進める中で、連れ合いのおじいさんが、自宅の風呂場で亡くなっていたことが、おばあさんの口から語られた。
元々、風呂好きな人だった。ただ、悪癖があった。湯に浸かりながら、酒を飲むことが何よりも好きな人だった。注意しても聞かず、そのうちに干渉しなくなった。その日も普段と変わらずにこなしているだけの日課のような感覚だった。違っていたのは、老妻が隣町に住む娘夫婦の家に遊びに行っていたことだった。夕方、車で娘に家まで送ってもらい、玄関を入ったところで異変を感じた。家の中がシンとしている。いつもはついているはずのテレビの音も無かった。随分前から耳の聞こえが悪くなり、テレビの音量はうるさいくらいで、近所にも気を遣うほどだった。まさかと思い、風呂場に急ぎ、浴室の扉を開けた。最初は眠っているのかと思い、声を掛けて、湯舟から出るようにうながした。浴槽のフチに両腕を広げ、目は閉じていた。床には蓋の開いた缶ビールが転がっていた。耳元で呼びかけても、揺すぶっても反応は無かった。救急車、と思い慌てたが、頭の隅で手後れであると悟った。涙が溢れた、同時に泣きながら夫の頭を何度も叩いた。アホアホ、と言いながら叩き、その場にへたり込んだ。そのすぐあとに娘が様子を見に家に入ってきた。救急車も娘が手配を済ませ、警察からの聴取も娘に任せきりだった。遺体は神戸の大学病院で解剖されることになった。帰ってきた夫の頭は包帯でグルグル巻きの状態だった。それもなんだか情けない気がした。
玄関のドアが開き、室内に入ってくる足音が聞こえた。檀那寺の住職が沈痛な面持ちで部屋に入ってきた。故人が寝かされているのは仏間で、枕元の壁面には立派な仏壇が収まっている。故人とは同級生だったという真言宗の寺の住職は、老妻にお悔やみの言葉を述べると、早々に枕経をあげ始めた。部屋に読経の声が満ち、空気のすべてを覆い尽くした。僧侶の声が空気にうねりを生じさせる。死者の口から漏れ出た魂の残滓を、その音の抑揚で絡め取り、肉体に真の死を告げているかのような錯覚に陥った。老妻は僧侶の後ろに座り、俯いて合掌していた。誰かの死は誰かの心の襞を毟り取っていく。そこには見えない血が流れ、聞き取れない痛みの声が上がっている。それに耐えるために祈るのだと思う。
住職の都合で、通夜式は明日十八時からということになった。葬儀は明後日、十一時開式。葬儀で読経をあげる僧侶の数は二名と決まった。葬儀の日程が決まると、長女は大学病院で受け取った、死体検案書を持ち、役所に死亡届を提出に行った。淡路市では必ず、身内の者が死亡の届出をすることになっている。その場で火葬場の手続きも同時に行なうことになっていた。他の市区町村では葬儀社の人間が一切の手続きを行なうところもあるが、淡路市はその例外を認めない。
住職は老妻と、故人に授ける戒名の話を済ますと、位牌と塔婆類を持って帰って行った。
葬儀に関する費用の打ち合わせも終わり、明日の納棺の時間を午後三時にした。その後、寝台車に棺を載せ、式場である葬儀会館へと移動することになる。
「お棺の中に、一緒に入れてあげたいものを準備してください。基本的には燃えるものですが、お写真なんかを入れる場合は、存命中の方が写っているものはお避けください。よく、引っ張って行かれるとか言われたりしますので。」
いつも通りの説明をし、相手の反応をうかがう。おばあさんは深くうなずいたきりだった。
僕は、何かあったら名刺に書いてある携帯電話に連絡をもらえるように頼むと、その場を辞した。
死者は口をつぐむ。永遠に。死神は死を与えると同時に光も言葉も奪う。ただ耳の感覚だけは、死後少しの間残る。老妻はそれを知り、故人の耳元で静かに、その死を責めていた。
死神が、命のロウソクを無慈悲に吹き消し、立ち去ったあとの後始末を僕たちが請け負い、遺族が近しい者の死を受け入れられるように準備を手伝うのだ。
老妻は、骨上げ後、夫の骨を一掴み、家からすぐの海に流すと言った。今まで漁師として生きてきて、数えきれない程の魚を漁で獲ってきた、今度はその体を魚に返してやるのだと。
それは、自分を遺して先に逝ってしまった夫に対するささやかな復讐であるかのような気がした。
了
死神の後始末 外崎 柊 @maoshu07
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