8 空返事

 ぎりぎりで教室に滑り込んだ俺は教授の姿が確認されるまでに彼女の隣の席へと走った。彼女の姿を見つけるには教室の構造がなにぶん不慣れで苦労した。しかし、人を探すのに苦労するほど難しく作られてはいないのだが。

 先についていた彼女は落ち着き払った様子でいつものように日常をこなしている風であった。筆箱を取り出し、ノート、最後に教科書を鞄の中から取り出す。几帳面にもきちんと角を揃えて右上に置いていた。

 とは言え自分はそんな環境を作れそうに無かった。いや、作ろうという意識が無いのかもしれない。あれから教授の話など聞く気にはなれなかった。だから、教科書もノートも、ついでに筆箱も出してはいるが乱雑だ。しかし、聞いていないと思われるのもまやっかいと思い一応ノートは開けていた。あくまで聞いている風を装っていた。しかし見た目とは反対に思考は完全に教授の話しからはかけ離れていた。

 彼女は教授の話をノートに丹念に取っていた。その筆さばきは軽やかで、シャーペンの芯がするすると削られていき紙にへばりつく。顔を規則的に上げ下げしている。その中の瞳は真剣そのものであった。

 彼女の隣で自分の脳内にノイズが入る。

 さっき、知らない女の子にフェラ(?)をされかけたのだが、意識しているのか未だに痕跡として速い心拍として残っている。彼女を横にしながらもあの女へと意識を寄せる。我ながら、授業も、夢のような鈴木―――美咲ちゃんを現実の除け者にしている。まるで、最初からいなかったかのように。

 上の空の様子を続けていると、彼女がどうしたの?教授の話つまんない?といかにも自分は楽しそうに俺の顔を覗き込む。

 不意の思考妨害が俺をびっくりさせる。正気に戻ったかと思えば、彼女の顔を見て余計にあの女の顔が色濃く水晶体に焼きついてきやがった。愛する彼女を目の前にして他の女のことに意識が集中しているのを感じ冷静さを失い始める。

「な、何にもないよ。いや、教授の話しについていけなくてさ…」

 昨日、楽勝って言ってたよ?と彼女は疑問の色を顔に浮かべる。咄嗟の判断で昨日の自分、違う自分と矛盾した言い訳が口から出てしまった。しかし、昨日の自分さえわからない俺はその矛盾を訂正できずに口を噤んでしまう。

 彼女の視線は依然俺に向いている。その目は、儚く、どこか淡い期待をさせる。

 思えないがけない、思いたくも無い、重いとも感じたくない沈黙が教授の声と共に俺たちの席へと届けられる。

 そうは思いたくはないのか、教授が黒板に書くことをしきりにメモしている。不思議とペンを動かすスピードが速くなっている。さっき顔を上げ下げしていたのにノートと必死ににらめっこしている。

 怒っているのだろうか。ちょっと、間違っただけなのに。

「その、ちょっとが嫌なの」

 彼女は少し語気を強めて俺に言う。その頭を依然として上がっていないが、意識、気持ちだけはこちら方へときちんと向けられていた。

「え?」

「白々しく返事しないでよ。まるで、他人事のような、え?じゃん。付き合い始めるとき、というか朝言ったよね?私に話してないことないって?私は、その…メンヘラにはなりたくないけどさ、貴方のことが少し心配なの。朝もそうだし、昨日も変なこと言ってたし…」

 昨日も?昨日の俺、つまりは入れ替わる前の俺。といっては本当に他人事のようだけれども。でも、その言っていたこととはどんなことだろう。自分が死んでいく、的な?

「それ、昨日、俺なんて言ってた?」

 自分の言ったことも忘れたの?と彼女は溜息を漏らしてペンを置く。そして、こちらに向くなり

「私も、お・ぼ・え・て・な・い!」

 嘘だよ、ちょっと薫君の困っている表情を見たかっただけ。と自分勝手に彼女は頬を赤らめた。

 何も根拠が無い上に、そうやって自分を遊んでいたのかと思うと少し腹が立ってきた。しかし、ここで彼女に怒っても筋違いな話であった。彼女は心配してくれているのに、促してくれているのにそれに乗っからないのもまた俺の自分勝手なのかもんしれない。俺は、彼女の困っている顔を見たいだけなのかもしれない。

 どちらにせよ、彼女に嫌な顔は出来なかった。なぜなら、それはかわいかったからだ。単純に。

「なんだよ、ただ遊ばれてただけかよ」

「あー!やっと、明るい声色になった」

 と明るい声色に彼女の表情がぱっと花開く。まぶしく、俺には直視が出来なかった。目は逸らしてはいないが、きっと彼女の細やかな表情や目、口、鼻、などの動きは視認できなかった。

 しかし、水晶体に焼きついた、眩しくもなく、それは光を吸収してしまうのではないかと思うくらいの闇は俺の思考から離れてはいなかった。というより、勝手に付いてきている様な、追いかけられているようなそんな感覚だった。

 あの、淫乱な彼女が俺に悪魔のように微笑みかける。トイレで感じた彼女の淫乱さを思い出し勃起が少しばかりか始まってしまう。下半身に力を入れ必死に、ズボンに接触しないように努めた。

「どうしたの?顔赤いよ?」

 彼女の手は俺の額に触れた。

 それは、あのとき、あの女に肌に触られたのと同じ感触、温度であった。

 自分は完全に勃起した。


  授業が終わり、その後の授業も終わり。気付けば、お昼時になっていた。

 彼女に言われるがまま4人と食事を取ることになった。

 朝に来たはずの食堂は何日ぶりに来たかの如く遠い感じがした。既に、2人は席に座っており、窓際で日に当たりながら談笑をしていた。

「ごめんね。遅れて」

「気にしなくていいよ。」

 美咲ちゃんと越前が談笑を始める。俺は少し湿った齋藤の隣へと腰を下ろす。

「そう、露骨に嫌な顔されると…」

 齋藤は今にでも日の中に取り込まれそうだった。その目は、薄っすらとしか開いていない。どうやら眠たいようだ。彼があくびをする。吊られたように越前も一回。

「日に当たって気持ちよさそうだね」

「こっち来る?」

 越前は横に椅子をずらし、美咲ちゃんを日の中に引きずる。彼女の顔が日に当たり一層その肌が白く感じた。いや、それは乱反射に過ぎないのかも知れない。茶色い目が美しく映る。その笑顔と一緒に。

「薫、かわいいのか?彼女」

 齋藤はいつの間にか耳まで顔を寄せている。

「うるさいな。」

 俺は齋藤の顔を遠ざける。

 う、と呻きを上げて彼は自席へと身体の軸を戻す。

 それでも、眠気に勝てないのだろうか。その重たい頭を頬杖を付いて支えてはいるもののついには突っ伏してしまう。越前が鋭い目つきに変わる。

「齋藤!寝るな!授業中も寝てただろう!せめて、今起きろ!」

 そんな意味のわからない理屈を並べ齋藤を起こそうとする。越前は齋藤の腕を掴み揺らす。日に当たってできた影が左右に揺れる。ちらちらと明滅し俺の視界を狂わせる。

 焦点の合わない視界を永遠と見せられ続け俺は、どうかしてしまいそうだった。美咲が光輝けば、水晶体にこびり付いた石上が暗転する。しかし、石上が光輝けば、美咲が暗転する。彼女を見る俺の目は狂っていた。

 意味のわからないシンクロを味わい、俺の胸中は白と黒さながら、純粋と不純、そして、生と死―――のアンビバレットな状態であった。どちらがこっちではなく、きっと見方、考え方が変われば両者なんてものは軽くひっくり返ってしまうのかもしれない。

 そんな目で僕は美咲と石上を見てしまっているのかも知れない。

 終わって午後の授業に入れば、自分の気がかき乱されているのかわからないが、彼女の眼差しが心配の色に変わっていくように感じる。いや、しかしそれは自分勝手な感情がフィルターしている気がする。そこまで気にすることも無いかもしれない。それでも、あいつが、どうしても石上のことが脳裏にまでこびり付く。

「薫君って何の本好きだっけ。最近読んでないよね?」

 彼女のノートをとる手が止まっていた。

 身体の意識は愚か、意識の方向もこちらに向いている。椅子だけが、虚しくも教授の話を聞いているだけになっている。

「そうだな…」

 頭が付いてこず、空返事になる。

「でも、前はさ、専門書ばっか読んでたよね~たまには、空想に浸るのもいいんじゃない?」

 良く憶えているな。やっぱり、彼女であると嘘にも似た真の感覚を味わう。

「そうだな、それもいいな…」

 しかし、またもや、今度は脳裏に変な感覚を覚える。

「いい?じゃ、それで、決定ね」

 彼女は俺の返事も待たずにそっとその身を黒板の方向へと戻す。きっと、好きなのだろう。教授の話をまたノートに描きこみ始めた。

 しかし、他人行儀な感情になってしまうのはなぜなんだろうか。

 そう考えているうちに、先ほど起こったことへと意識は集中していく。

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