第2話
改札から直結した駅ビルに入っているパスタ屋は、お昼時なのに空いていた。人気のお店がひしめくおしゃれ街だから、駅ビルは意外と盲点なのかもしれない。
安定した味のパスタランチを食べ終え、貴志君はコーヒーを、私はミルクティーを、それぞれ一口すすった。それを合図のように貴志くんが体をもぞもぞさせ始めたので、私も心の中でだけ身構える。
「美香」
「なに?」
「突然だけど」
「うん」
「俺、ほかに好きな子ができた」
ティーカップを取り落としかけ、がしゃんという音に隣の家族連れが驚く。
「え?」
「って言ったらどうする?」
私はたまらず、とっさに両手をバンザイのように挙げてしまう。隣の親子連れはますます怪訝そうだ。
「え? なに? ウソ? 冗談ってこと?」
「好きな子が出来たってのはウソだけど、もしそうだったらどうするか聞きたいのはホント」
貴志くんはいたって真顔だ。
「えーと、仮にそうなったとして、ってことだよね?」
「うん、仮にそうなったとして」
どういうことだろう。とりあえず他意はなさそうなので、私は腕組みをしてしばし考え込む。そのうえで、
「貴志くんがその子のことが好きで、私よりもその子とつきあいたいって言うなら、しかたないって思うかな」と答えた。偽りない本心だった。
「『しかたない』」
「うん。貴志くんのいいようにしたほうがいいって思うし、貴志くんの意思を尊重する。無理してまでつきあってもらうのはよくないし」
「『俺の意思』」
それまでオウム返しばかりだった貴志くんはふっと笑って、
「美香は?」と唇の端を震えさせた。
「私?」
「うん、美香はどうしたいの?」
「いや、だから貴志くんの決めたことなら……」
「そうじゃなくて、美香はどうしたいのか、聞いてるんだ」貴志くんは声を強めた。
私は目の前のティーカップをソーサーの上でくるくると回す。
「え。でも、ほら、これって、仮にの話だよね。なんかの心理テスト?」
「違うよ」
貴志くんは、コーヒーに入れなかった紙袋入りの砂糖を折り曲げては伸ばし、折り曲げては伸ばししながら、続ける。
「美香はいつもそうだ。『貴志くんがいいように、貴志くんがそう言うならって」
「そんなこと……」
「そうやって、いつも相手のこと、他人のことばっかり。肝心の美香はどうしたいのか、が、全然分からないよ」
「……」
貴志くんの目を見ることができず、空になったティーカップを傾け底を眺める。乾きかけた薄茶色のシミがだらりと垂れる。
「それは、私のもともとの性格で。世話焼きっていうか、お人好しっていうか。家族でもそういう役割だったっていうか」
「分かってる。小さいときからお母さんと妹さんと三人で過ごしてきたから、わがままになれない、つい周囲のことを優先しちゃうって、いつも言ってるよね」
声がすっと優しくなったので、ほっとして言葉を続ける。
「そうそう。あと、学校も」
「うん、キリスト教系の学校だよね」
「『いかなるときも他者のための人であれ』ってのが染みついちゃって。怖いよね、小さいころの教育って」
はは、と笑ってティーカップの取っ手を震える指で弾く。貴志くんの手の中の砂糖袋は、もうすっかりぐにゃぐにゃだ。
「もちろん、それが美香のいいところだと思うよ。いつも人のことを第一に考えられる優しい人だ」
「ありがとう」
「でも、そうやっていつも気を遣われると、疲れるんだ。いや、違うな。疲れるっていうか、もっと美香のことを知りたいっていうか。いまのままだと、美香の素の気持ちが見えないんだよ」
私は深く息を吸って吐き、貴志くんの顔を見つめる。
「ごめんなさい」丁寧に頭を下げた。
「そんなことを思わせてたなんて。貴志くんがそう言うなら、もう少し私も自分を出していくようにするよ。そのほうが貴志くんにとっても……あ」
「美香」
貴志くんの顔は苦しそうな笑顔に変わった。手元の砂糖の袋はついにちぎれて、中身がこぼれてしまっている。大理石風のテーブルに散らばる白い粉はもう元に戻らない。
「あ、ごめん、えっと、私自身の話だよね。えー、私は、私は、と」
「美香」
「うん?」
「俺たちしばらく会わないほうがいいと思うんだ。今日はそれを伝えたくて」
「それって、別れようってこと?」声がうわずる。
「わからない。でも、このままだと付き合っていける自信がない。美香はどうしたい?」
「……」
「即答できないんだとしたら、やっぱり俺たち無理だと思うよ」
「……」
貴志くんはお金を置いて出て行った。
私はなにが起きたのかさっぱり分からないまま席に取り残され、気づくと無心になって、散らばった砂糖を紙ナプキンで丁寧に集めていた。この期に及んでお店の人の迷惑を考えて。「こりゃ重症だな」と独り言がこぼれた。ついでに涙もこぼれそうになったけど、隣の家族の視線もあってぐっとこらえた。
〈続く〉
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