第5話 29日の金曜日
数年ぶりに積もった雪で朝の通勤ラッシュは普段の数倍厳しい物となっていた。
私がいつも乗る電車は其れでなくともギュウギュウ積めなのに。これ以上混んだらもう押し潰されて真空パックされた食品の様にピクリとも動く事が出来なくなり呼吸もままならなくなるだろう。途中の駅で止まると更に体に圧力が掛かる。
あぁ、最近読んだ漫画にこんな死に方した女の子がいたなと思い出した瞬間とても怖くなった。なんとか過激な押しくらまんじゅうから解放された私はヨタヨタと歩いて学校へ向かったが、正直今日の体力を使い果たした気分だった。もう今日は何もやる気に成れない。いや、出来ない。私は完全にやる気を失ってしまい、学校に着いて席に座ったまま動かなかった。ノートと教科書は出ているが、鉛筆を握る気にもならず、取敢えず適当な所を開いて、それを読みふけっているように前かがみに項垂れてそのまま眠ってしまった。その眠りは次のチャイムで妨げられた。一つの授業全てを寝て過ごしてしまった事のショックが大きくて、そのまま呆然としていた。終了の挨拶だけをして私はそのまま力無く座った。今日は特に疲れているみたいだった。今日の夜は何かガッツの付くものを食べようと考えた時、黒板に書かれている数字と漢字を見てはっとした。そう、今日は何と、1月29日の金曜日なのだ。ニクの日でしかも金曜日。あぁ、神は我々を見放してはいなかった。北の雪山で叫びたい気分だった。今日は、もうカロリーとか気にせずに肉を食べよう!そう決心した。そして帰り道、私の頭の中にはもう晩御飯の完成図が出来上がっていた。こんな寒い日には鍋だと言う人々が殆どだろう。しかし其れでは私の気が済まない。この肉欲を鎮めるためには鍋程度では足りないのだ。スーパーで買ったのは野菜と豆腐だけ。肉は肉屋で買う。私なりの流儀だった。正直に言えば、スーパーの肉に薬剤を掛けて赤くしている事実を知ってから食べる気にならない、と言うだけなのだが。帰り道に有るお肉屋さんによると、きちんとニクの日の旗が出ている。私が選んだのは、しゃぶしゃぶ用の薄い肉だ。そう、今日の晩御飯は、しゃぶしゃぶだ。
家で一番大きな鍋に昆布を入れて出汁を取る。今日は入れっぱなしにしよう。白菜や細く切った大根、スライサーで薄くしたニンジン。長ネギに椎茸。野菜が煮えたら沸騰直前の所で温度をキープして買ってきたスライス肉600グラムを皿に並べて置く。たれも抜かりない。ポン酢とゴマダレ。ゴマダレは胡麻ドレッシングを白だしで少し薄めた代用品だが。薬味は生姜に紅葉おろし。準備が終わった頃にインターホンが鳴った。ジャストタイミングだ。
「ただいまー。いやぁ、散々な目にあったぜ今日は・・・」
疲れた声でそう言いながら玄関から廊下へと歩いて来た彼が居間の入り口で足を止めた。
「おいおい、今日は豪勢だな」
彼の顔が自然と綻ぶ。其れもそうだろう。薄い肉だがそれなりの量だ。普段ならこの人は薄い肉なんて、と言った風に分厚い肉を至上の物とする人間だが、しゃぶしゃぶと言うものは全く別なのだ。
「しゃぶしゃぶかぁ。家でやるのは初めてだな」
「そうなの?」
「やったことあるのか?」
「うん。去年の誕生日は一人だったから、その時は一人で過ごす事への憂さ晴らしとして一人しゃぶしゃぶをしたの」
「おっおう・・・」
「何よ、その顔は。寂しいのは自分が良く分かってるわよ。でも何もせずにただ寂しく震えているよりは温かくて美味しい物を食べていた方がなんぼか良いでしょう?」
「確かにそうだが・・・」
「それに、今年は違うんだから」
「えっ?」
「おじさんが、傍に居てくれるんでしょ?」
「お前、そういう言い方は」
「居てくれないの?」
暫くの沈黙の後に彼は大き目の溜息を吐きながら言った。
「居るよ。居るけどな、少しはお前・・・」
「ねえ、早く食べよう?野菜ぐずぐずになっちゃうよ」
「えっ?あぁ、そうだな。食べるか」
話題が変わったのが彼にとっては都合が良かったようでそそくさと上着を脱いで手を洗ったのちに炬燵の向かいに座って手を合わせた。私も手を合わせた。
「頂きます!」
一枚目の肉を箸で摘まんでお湯の中にダイブさせて摘まんだまま左右に揺らす。肉の色が変わり、赤が薄いピンクに成り、肌色への変化の片鱗が見えたその瞬間に湯から出してポン酢に付ける。下半分だけを付けたその肉を口にそのまま運ぶ。口の中でとろけるその感触に浸っていると、彼が私の方を見て微かに笑う。
「お前、ホント美味そうに食うな」
「おじさん、人の事言えない位顔がにやけてるの、気付いて無いの?」
思わず自分の顔を手で触るそのしぐさが可愛く思えて私も笑ってしまう。次の肉を摘まんでお湯にくぐらせると、色が変わる直前に周りに浮いている野菜をその肉ではさんで掬い上げる。再びポン酢に着けて口に頬張る。芯の部分がトロリとなった白菜と肉の相性は犯罪級に良い。食べ進めて行くうちにお腹に満腹感が広がって行き、思ったよりも肉が余りそうな予感がしたので、私は残りの半分を冷蔵庫に入れようと立ち上がった。
「お前、何が欲しい?」
「えっ、何いきなり。何の事?」
何のことか分からずに戸惑っていると彼は少し言い辛そうに頭を掻きながら目を逸らして言った。
「さっきお前言ったろ。誕生日は一緒に居てくれるのかって。だから、その・・・。誕生日に何か欲しい物は無いのかって事だよ」
正直そんな事を言ってくるとは思っても見なかったので驚いた。しかしあまり驚くと彼に悪いかもしれないと思った私は立ち止まった足を再び動かして冷凍庫に肉を仕舞って炬燵に戻って足を入れて座った。
「欲しい物・・・何だろう。私物欲が無くて」
「それはお前の部屋を見れば俺でも分かるよ。だから困って・・」
困る?彼が?私の誕生日までまだ一週間あるのに、もしかして考えてくれている?私は最早この喜びを隠す事を出来なかった。
「いや、その・・・つまり、俺にはお前の欲しい物が分からないんだ。だから考えても無駄だと思い直してこうして聞いているわけでだな」
彼は明らかに失言した。私にとっては嬉しい失言だったのだが。
「そうね。確かに。欲しい物を本人に聞くってのも、一つの手だよね」
笑いを押し殺しながらそう言うと彼も流石に不愉快に思ったのか、顔に険しい表情を浮かべた。其れが面白くて益々苦しくなって、遂に笑い出してしまった。
「可笑しくないっ!」
彼が必死にそういう姿が可愛くて、愛おしかった。こんな事言ったら彼に生意気だって言われるに決まっているから、代わりに私は一つだけ彼に伝えた。
「誕生日の夜、一緒にケーキを食べよ。飛び切り美味しいケーキ」
そういうと彼は少しきょとんとした顔で私の顔を見つめた。“それだけ?“とその顔は言っていたが、直ぐにその表情は消えて悪戯な笑みに変わった。
「分かった。よし、覚悟しとけよ」
「うん。楽しみにしてる」
彼と私は互いにニヤニヤしたまま、そんな約束を交わした。
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