第157話 奇奇怪怪

「じゃ、ミノコちゃんの乳しぼりは、これまでどおり、リーチちゃんの仕事ということで異論はないわね」

「……はい」


 散々反対したけど、乳しぼりが嫌なわけじゃないんだ。

 スミレナさんがなんと言おうと、オレの前世は男だ。拓斗みたいに巨乳好きってわけじゃなかったけど、男なら誰でも、あの大きさの胸に触れてみたい、埋もれてみたいと思わないわけがない。しぼってみたいと思ったことはないけど。

 問題なのは、処女であり、気持ちは今も童貞であるオレの容量キャパを明らかに超えているってことだ。初回は、ぶっ倒れることを覚悟しておかないとな……。


「リーチちゃん、昨日から何も食べてないんだし、早速しぼらせてもらったら?」

「あー……牛乳のストックは無いんですか?」

「無いわ。【リーチのしぼりたてミルク酒】はその名のとおり、しぼり立ての鮮度が売りだから、日を置くことはしないって決めているし」


 ですよね……。


「とりあえず、スミレナさんが持っている残りをください」


 呆れたように肩をすくめるスミレナさんから、牛乳の入ったジョッキをもらう。

 すみません。避けては通れないのだとしても、少しでも先送りにしたいと思ってしまうのが人の心なのです。


 昨日の朝、クエストに発つ前に飲んだっきりなので、空きっ腹がきゅうきゅうと鳴り始めている。スミレナさんが口をつけた場所に気をつけ、できるだけミノコが視界に映らないようにしつつ、丸一日ぶりの食事を味わっていく。

 ごくごく。うん、牛乳の味だ。

 ただ、店に出せる量を確保できない以上、またミノコの食費問題が浮上してくるけど、なんならミノコ自身が従業員として働く手もある。人型ならそれもできなくないだろうし。きっと、オレなんかよりよっぽど人気が出るはずだ。

 なんてことを考えていると、大変なことに気がついた。


「……あれ? え、なんで?」

「リーチちゃん、どうしたの?」


 腹を押さえたり、腰を振ったり、ぴょんぴょんと跳ねたりするが、間違いない。


「味は牛乳なのに……」

「なのに?」

「全然、腹に下りてこないんです」

「それって、お腹が膨れないってこと?」

「……です」


 どういうことだ。

 人型ミノコからしぼれるミルクは、やっぱり牛乳じゃないってことなのか。

 どうしよう……どうすればいい!?

 ミノコのミルクで栄養補給ができないなら、また生きるか死ぬかの問題が戻ってくる。――いや、問題にすら挙げられない。だって、死にたくなければ、選択肢は一つしかないんだから。

 無意識だったけど、気づけば、オレの視線はエリムに向けられていた。

 が、その視線を遮るようにして誰かが立った。


「俺がいることも忘れンなよ」


 拓斗だ。


「え? お前が、何?」

「俺だって男だ。利一に必要な物を……用意してやれる」


 さっきのエリムと同じだ。

 全身が強張り、耳まで真っ赤になるほど羞恥心を押し殺している。


「……何言ってんだよ。そんなこと、拓斗にできるわけないじゃんか」

「できる!」

「無理だって。お前は、オレのことをそんな風には見られないだろ?」

「そんなことはねェ!」

「そんなことある。さっきオレが自分の胸を揉んでた時、少しでも興奮したか?」

「した! しまくった!」

「噓だな。だってお前のそこ、まるで変化してないし」


 多少なりともオレを女として見ることができるのなら、バーカウンターから出て来られなくなっているエリムみたいに、やや前屈みで動けなくなっているはずだ。


「これは……違う! 今ちょっと、勃ちづらくなってるだけで!」

「……ありがとな。心配してくれるのは嬉しいけど、オレは拓斗にそんなことしてほしくない。拓斗には、拓斗にしかできないことを頼みたい」

「俺にしか、できないこと?」

「せめて拓斗だけは、最後までオレを男友達として見てほしいんだ」


 拓斗が気に病まないよう、努めて明るい表情で言った。

 上手く笑えていたかは、あんまり自信がないな。


「――一つ、意見を言わせてもらっていいだろうか」


 お通夜みたいなムードが充満していく中で、挙手と共に発言の許可を求めたのはカリィさんだ。オレに代わり、スミレナさんが「どうぞ」と答えた。


「その牛乳だが、見たところ、魔力が安定していないようだ」

「魔力が安定していない? どういうことですか?」

「似てはいるが、厳密には魔力とは違うな。サキュバスの必須栄養素なのだろう。どうやら私には、それを知覚できるようだ」


 カリィさんは、人間では数少ない、魔力を持つ者だ。


「魔力に精通したパスト氏がいれば、もっとはっきりわかっただろうが」


 カリィさんが何を言わんとしているのかわからず、頭に疑問符が浮かんだ。


「なんと言えばいいか。私には、その牛乳から湯気が出ているように見えていた」

「湯気ですか? でも、ホットじゃないですよ?」

「湯気は例えだ。ミノコ氏が現れた時点では、まだわずかに出ていたが、今はもう全く出ていない。完全に冷めている」

「も、もう少しわかりやすく」


 うーん、とカリィさんが小首を傾げた。

 なんとかなるのか、ならないのか、それを早く知りたい。


「クラーゲンの溶解液があっただろう。あれと似ている。あれは空気に触れ続けることで、液体が帯びていた魔力が抜け、性質が変化する。人型のミノコ氏は本来の姿ではない。そのため、作り出す牛乳も安定していない」

「つ、つまり?」

「性質の変化が極めて早い。おそらく、サキュバスの必須栄養素も、空気に触れた瞬間から抜けていくのだろう」

「じゃあ、どうすれば!?」

「空気に触れさせずに飲むしかないな」

「そんなの、できるわけが!」

「できるぞ? 直接飲めばいいだけのことだ」

「直接って……え?」


 店の中が、しん、と水を打ったように静まり返ってしまった。

 直接飲むって、それってもしかして……。


「リーチちゃん、授乳プレイよ!」


 頭に浮かんだ言葉を、寸分違わずスミレナさんが口にした。何故か嬉しそうに。


「い、いやいやいやいやいやいやいやいや!!」

「いやいやじゃないわ! 男の人とエッチするか授乳プレイか、二つに一つよ!」

「いやいやいやいやいやいやいやいや!!」


「利一、それでイケ! それしかねェ!」

「いやいやいやいやいやいやいやいや!!」


 生まれてこのかた、ここまでいやいやをしたのは初めてだ。


「ミノコちゃんはどう?」

「人前では……難しい」

「リーチちゃんと二人だったら?」

「なんの問題も無い」

「いやいやいやいやいやいやいやいや!!」


 脳味噌がシェイクされて気持ち悪くなってくるのも構わず、オレは首を横に振り続けた。


「面倒臭いわね。ミノコちゃん、母屋へ連れて行って、飲ませてあげてくれる?」


 人型になったことで、多少のパワーダウンはあるかもしれない。

 でも、オレにはそんなこと関係なかった。


「いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいいぃぃぃやああああああ!!」


 襟首を摘まむようにして、ずるずるとミノコに引きずられていく。

 助けは――ない。合掌するか、行ってらっしゃいと手を振る人しかいない。

 必死に抵抗するも、ミノコはまるで意に介さず、オレは劇場版で闇の中へと飲まれていく英雄王のように、母屋へと引きずり込まれて行った。





 結論を言うと、腹は膨れた。

 牛乳も美味しかったです。


「リーチちゃん、よく頑張ったわね」

「圧迫死するかと思いました……」

「おっ迫死? 何ソレ、ちょっと羨ましいじゃない」


 そう思うなら体験してみてください。口どころか、鼻どころか、顔面全部を覆い尽くしてしまうあれは、いろんな意味で凶器です。


「だけどよかったわね。これで一気に大人の階段を駆け上ったようなものだし?」


 オレ的には、乳幼児まで転げ落ちたような印象なんですけど。

 詳細に語ることはしないが、とにかく凄まじかった。

 精根尽き果てて机に伏していると、カリィさんが「ところで」と話題を振った。


「私は以前にもミノコ氏のステータスを視ていたから記憶しているんだが」


 一仕事終え、今にも昼寝に入りそうな目をしたミノコがぴくりと反応を示した。

 パートナーとして、オレもこれには興味がある。


「前と違ってるんですか?」

「ああ。まず、レベルが36から32に下がっている」

「マジですか……」

「それでも魔王と同等だ。つくづく規格外だな」


 カリィさんは、「まず」と言った。他にもあるってことだ。


「あと、【特能】が発現している」

「【特能】が!? どんな!?」

「効果まではわからない。わかるのは名前だけだ。名前を明かしてもいいかな?」


 カリィさんが尋ねると、虚ろな目をしたミノコが首を小さく縦に振った。

 ミノコの許しを得て、口に出しながら机に指で書かれた文字を、向こうの世界の漢字に置き換えると、【奇奇怪怪(マハリク・マハリタ)】とでも書くだろうか。


「使ってみる」


 そうだな。――て、今ここでか!?

 言うが早いか、ミノコが眉間に皺を寄せ、念じるようにして意識を集中させた。

 咄嗟に拓斗が、オレやスミレナさんやカリィさんを庇うようにして壁を作った。

 その直後、どろろん! と、まるで忍者が変化の術でも使ったみたいなスモークエフェクトが立ち込め、その中から人型とは似ても似つかない巨影が現れた。

 その影は、人型よりも、よっぽど慣れ親しんだ姿――


「ミ、ミノコ……お前……」


 ――以前と同じ、白黒模様のホルスタイン牛の形をしていた。


「モォウゥ」

モォウゥもどれた、じゃねえええよ!! 戻れるのかよ、モオオォォォォ!!」


 エコーの効いたオレの雄叫びは、正午に差し掛かり、人通りも多くなった大通りの喧騒の中に虚しく消えていった。

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