第152話 告白

 ――霊酒。

 飲めば全身の男性細胞が消滅し、新たに女性細胞へと作り変えられる。

 記憶などは残るが、ほとんど生まれ変わりに等しい。

 遺伝子レベルで完全に女人化する。

 パストさんは、霊酒をこのように説明した。


「女人化……して、それで助かるんですか?」

「確証はありません。ですが、遺伝子とは、その個体の設計図です。全身の細胞を一度消滅させ、新たな遺伝子に従って肉体を再構成するのなら、設計図に書かれていない傷は消えてしまうのではないかと思うのです」


 パストさんは念を押して、「推測」であることを繰り返した。

 推測でもなんでも他に方法が無いなら、それに賭けるしかない。

 でも。


「その霊酒はどこにあるんですか?」

「魔王城の宝物庫です。私なら、ここからでもゲートを開いて取り出すことができます。瘴気の放出は魔力に頼るものではないので、今の私でも問題ありません」


 でも。


「パストさん、言いましたよね。ゲートは返しのついた通路のようなものだって」

「それもご安心を。通すのは腕一本だけのつもりですから」


 大したことじゃないとでも言うように、パストさんが穏やかな微笑みを添えた。

 でも。

 通した腕は無事じゃ済まない。パストさんは傷を癒す魔法が使えるんですか?

 訊くまでもない。そんな魔法が使えるなら、とっくにエリムに使っている。


 この世界にも医療は存在する。

 技術面では科学が発展した向こうの世界に及ばないが、こっちには魔法がある。主に患者の免疫力や回復力を飛躍的に高める力だ。即効性に長ける分、応急処置という点では、魔法は科学による医療を凌駕していると思う。


 でも。でもだ。

 どんな技術でも、どんな魔法でも、どんな特能でも。

 死んだ者を生き返らせるなんてことはできない。

 命だけじゃない。指の一本でも、血液でも、失ったものは元に戻せない。

 町に戻ってから手当てすれば間に合いますか? 傷ついた腕は治りますか?

 口にしかけた質問を飲み込んだ。

 どんな答えが返ってこようと、これから行われることに変わりはない。

 だから代わりに、オレはエリムの傷口を押さえたまま頭を下げた。エリムの体を支えていなければ、土下座している。


「お願い……します」


 女性にこんなことを頼むなんて――いや、男だとか、女だとかは関係ない。

 他人のために、その身を犠牲にしてくれなんて、土下座で済む話じゃない。

 それでもオレはパストさんにすがった。すがるしかできない自分を呪いながら。


「お願いします。エリムを助けてください。もし、もしもパストさんの手が二度と使えなくなるようなことがあれば、オレが一生をかけてパストさんの手になります。お願いします、エリムを……助けてください」


 この懇願に意味は無い。オレが何を言わずとも、パストさんはゲートを開く。

 だからこれは懇願というよりも、謝罪に近い。


「エリムは、オレがこの世界に転生して、初めて優しくしてくれた人間なんです。この世界で、初めてできた友達なんです。底抜けにいい奴なんです」

「リーチ様が頭をお下げになる必要はありません」

「オレは、パストさんを臣下だとか、そんな風には思えません!」


 思わず顔を上げると、パストさんが、ふるふると首を横に振った。


「私は、人間という種族が好きではありません。他種族を差別し、数が多いだけで威張り散らす下等な種族だと思っています。正直なところ、滅べばいいとも」


 急に話が飛んだように思った。

 人間が嫌いって、それはつまり、エリムを助けることも不本意だってことか?

 オレの不安を察したのか、ここでもパストさんは首を横に振った。


「最近になって、少し考えが柔軟になりました。数が多いということは、それだけ多様性に満ちているということ。【ホールライン】の住人を見ていれば、それがよくわかります。僅かな時間とは言え、こうして人間と接し、生活を共にしたことで、人間にもいろいろな者がいるのだと知りました」

「じゃあ、エリムは……」

「姉君による教育の賜物かもしれませんが、彼は、私が魔王に与する者と知っても忌避したりしませんでした。朝は『おはようございます』と挨拶を交わし、仕事が終われば『お疲れ様です』と労ってくれました。そして何より、毎日美味しい食事を作ってくれました。十分な理由になります」

「理由?」

「リーチ様のことは関係ありません。私は、私個人で彼を仲間だと思っています。仲間の命を助けられるのなら、腕の一本、なんの躊躇がありましょうか」


 ああ。

 あああ。

 込み上げる感情を抑えきれず、視界が滲んでいく。


「パスト……さん……」


 それ以上口を開けば嗚咽になりそうで、礼を言うことができなかった。

 言っても、礼なんてパストさんは受け取ってはくれないだろう。


「ゲートを開きます。どうか、リーチ様は目を閉じていてくださいますよう」

「いえ、最後まで見ています」


 どう言い繕おうとも、エリムはオレを庇って傷つき、死にかけている。

 そんなエリムを、傷つくのを承知でパストさんが助けようとしている。

 せめて、自分が招いた事の重大さを受け止めるために、目は絶対逸らさない。


 パストさんが「わかりました」と言って頷き、オレとエリムの目の前で、開いた左手を水平にかざした。

 ぞわり、と首の後ろがザワつく感じがしたかと思うと、パストさんの左手に黒い靄――瘴気が発生していく。ぐるぐると渦を描いて形を為していくそれは、まるで小型のブラックホールのようだ。


「……繋がりました。では、まいります」


 一瞬たりとも見逃すまいと目を見開き、オレは全身に力を込めた。

 そうして、ぐっと歯を食いしばったパストさんの指がゲートに触れた。

 その時だった。


「……て……さい」


 薄く目蓋を開いたエリムが、ゲートに伸ばされたパストさんの左手首を掴んだ。

 確かにエリムは言った。「やめてください」と。


「エリム、気がついたのか!?」

「エリム君、手を離してください」


 肺に穴が開いているのか、ひゅー、ひゅー、とエリムの呼吸は擦れている。


「話は……聞こえて……いました。やめて……ください」

「けど、こうしないと、お前が!」

「私の腕一つと命、どちらが重いか考えてください」

「違う……。違い……ます。僕は……僕が……女になりたく……ないんです……。男のままで……ないと……困るん……です」


 そう言って、エリムは体を支えているオレを見上げた。

 男のままでないと困る。その訳は、聞かなくてもわかる。


「馬鹿野郎! 死んだら元も子もないだろうが!」

「エリム君、手を! ゲートを維持できません!」


 エリムは頑なに拒み、パストさんの手を離さない。

 ここでエリムの手を力づくで引き剥がし、霊酒を取り出したとしても、この様子では口にしようとしないだろう。そうなっては、ただパストさんを傷つけるだけになってしまう。何がなんでもエリムを説得しないと。


「……なあ。お前のその気持ち、本物なのか?」

「本物? どういう意味……ですか」

「オレはサキュバスだ。男をたぶらかす種族だ。自分ではそんなつもりなくても、気づかないうちにお前を【魅了】しちゃったのかもしれないだろ。オレと一番長く一緒にいた男はお前なんだから」


 言っておきながら、それはないと頭の中では答えを出していた。

【魅了】についてはメロリナさんらと何度も検証した。サキュバスの【魅了】は、魔力を伴うれっきとした異能だ。たとえ微量であろうと、日常で魔力が漏れ出しているのであれば、必ず誰かが気づく。


「リーチさん……思ってもないこと……言っちゃ……ダメですよ」


 見透かされている。

 力なく笑うエリムの顔色はもう、土気色を通り越して白くなっている。

 手段をあれこれ考えている時間も、選んでいる余裕も無い。

 焦りと不安を凝縮した冷たい汗が、一筋頬を伝い落ちた。


「オレ、エリムにずっと隠してたことがあるんだ」


 スミレナさんには、時が来るまで内緒にしているように言われていた。

 この秘密を明かせば、エリムはオレに抱いている気持ちを白紙にするだろう。

 それだけに留まらず、オレのことを気持ち悪いと言って避けるかもしれない。


 ズキッ。

 想像するだけで、胸が捩じ切れそうなくらい痛んだ。

 それでも。それでもオレは、エリムに生きていてほしい。

 スミレナさん、すみません。

 約束を破ります。



「……オレ、前世は男だったんだ」



 罪の告白をするつもりで、オレはその事実を明かした。

 最初は隠すつもりなんてなかった。だけどいろいろあって、言い出せない状況になっていった。――なんてのは全部、こっちの勝手な言い分だ。エリムの気持ちを弄んでしまったことへの言い訳にはならない。

 オレを許すも、軽蔑するも、判断はエリムに委ねる。

 なんにせよ、第一声で飛んで来るであろう非難は、甘んじて受け入れよう。

 そう決め、オレはエリムの言葉を待った。

 それなのにエリムは、


「はは……あはは……はははは……」


 声を出すことすら辛いはずなのに、笑い飛ばしやがった。

 衝撃の事実に唖然とするどころか、逆にオレの方が呆気に取られてしまった。


「な、何笑ってるんだ?」

「すみ……ません。リーチさんと……姉さんが……何か隠しているのは……知っていました。でもそれは……女の子同士でしか相談できないことなんだと……そんな風に……思っていました。でも、まさか……ケホッ、ゴホッ」


 咳き込むエリムの口から、ぱたぱたと血がしたたり落ちた。


「それで、なんで笑うんだよ。怒るとこだろ」

「僕を……からかうつもりで……秘密にしていたんですか?」

「違うけど!」

「ええ……違いますね。リーチさんは……そんなことしません……。それくらい、ちゃんとわかっています。わかるくらいには……リーチさんのことを、知っているつもりです……」

「だけど、気持ちは萎えただろ? 気持ち悪いって思っただろ?」

「……そうですね」


 予想していたはずなのに、心臓に針を刺されたような痛みが走った。


「初めて会った……あの日に知っていたら――……」


 そこまで言って、エリムは言葉を止めた。


「……いえ。やっぱり……変わらないと思います」

「変わらない?」

「僕は別に……リーチさんに一目惚れしたわけじゃ……ありません。それに近くは……あったと思いますが……」


 必死に息を整えようとしているけど、呼吸自体がいつ途絶えてもおかしくない。


「人間だった前世から……魔物に転生して……嫌な目にもたくさん遭ったのに……それでも一生懸命頑張って、頑張って……頑張って……乗り越えていくリーチさんだからこそ……惹かれたんです。リーチさんも、言ったように……僕はそれを……誰よりも長く……たくさん見てきました。見ていて……ああ、好きだなあって……改めて思ったんです……」


 エリムの目に光が無い。焦点も合っていない。

 これ、もう目が見えてない……。


「だからきっと……最初に知らされていたと……しても……僕は今と変わらず……リーチさんを、好きに……なっていたと思います……」


 オレは今、告白されている。

 こんな時、なんて答えればいいんだ。

 普通の女なら、「ありがとう」とか言うところなのか。

 わからない。全然わからない。嬉しさより、オレみたいな紛い物に釣られるなよという憤りと、釣ってしまったことへの罪悪感が圧倒的に勝る。


「オレに、好きになってもらう価値なんて無い」

「あり、ます。僕は……リーチさんのことが好きです。今のリーチさんが……好きなんです。前世が男性だったとか……それって……そんなに大事なことですか? いいえ……僕にはわからないだけで……大事なのかもしれません……。だけど……その前世があったからこそ、今のリーチさんがあるのだとしたら……僕は、前世のリーチさんを受け入れたい。前世が男だったリーチさんだからこそ好きになったのだと言います! だから、今の自分と、僕の気持ちが偽物みたいに……言わないでください……!!」


 強く、強くエリムは言った。

 オレが元男だと知っても受け入れてくれている人はたくさんいる。

 だけど、そのほとんどは慰めだ。

 嬉しく思う反面、悲しくもあった。

 男だったオレを覚えているのが、拓斗しかいないことを寂しく思っていた。

 ふと、十七年間男として生きてきた時間が、無意味に思えることがあった。

 だから余計に、エリムの言葉は胸に響いた。

『元男でも構わない』とは違う。

『元男だから好きになった』と、前世のオレを必要だと言ってくれた。

 本当に、本当に胸に響いた。

 ……でも。


「なんで……今言うんだよ。クエストが終わってからって言ったじゃないか」

「あは、そうですね……。今のはちょっと……僕も仕切り直したいです……」

「だったら、生き残らなきゃ始まらねーだろ! だから! 頼むから!」


 どれだけ食い下がっても、エリムが頷くことはなかった。


「僕は、リーチさんを……男として、好きで……いたいです。それに……不思議と悪くない気分なんです……」

「悪くないわけないだろ! 死にかけてるんだぞ!」

「だって、リーチさんのことを……また一つ、知ることができました……」

「知りたきゃなんだって、後でいくらでも教えてやるから!」

「これで少しは……タクトさんに……近づけたで……しょう……か……」


 パストさんの腕を掴んでいた手が、するりと滑り落ちた。


「……エリム? おい、目ぇ閉じんなよ! おい、エリム!? 仕切り直すんだろ!? 後で、ちゃんと聞いてやるから! 言うだけ言って終わってんなよ! オレはまだ返事してないだろ! おいってば! 起きてくれよ!」


 何度も声を掛け続けるが、エリムはぴくりとも反応しない。心臓の音はみるみる弱まり、体も信じられないほど冷たくなっていくのを感じた。


「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」

「リーチ様、エリム君は……」

「嫌だッ!!」


 聞きたくない。体温を分け与えるつもりで、オレはエリムを抱き締めた。

 そんなことは、なんの意味も無いと知りながら。


「誰か、助けて……」


 こんな消え入りそうな呟きが届くはずもない。届いたところで何も変わらない。

 が、オレの呼び掛けに応えるかのように姿を現す者がいた。

 浅瀬に波が立ち、海面が大きく持ち上がっていく。


「……ミノコ?」


 ――違う。

 ザバッ! ザパンッ! と巨木のように太い二本の触腕が海面から突き出した。


「マ、マザークラーゲン!?」


 あいつ、ミノコから逃れて。

 傘が馬鹿でかい分、浮力もでかい。最後まで飲み込まれずに抵抗したのか。

 だけど、様子がおかしい。

 怯えたように触腕を振り乱し、真っ直ぐこっちへ――海岸線に近づいてくる。

 水棲生物が、脇目もふらずに陸地を目指している。完全に逃避行動だ。


「リーチ様、お立ちください! このままでは!」

「けど、エリムが!」


 たとえ、助けられないのだとしても、エリムを置いて逃げるなんてできない。

 飛び上がろうにも、着地してすぐに翼は収縮してしまった。今から魔力を込めて展開したとしても、もう一度三人の体重を支えて飛ぶことはできないだろう。


 などと考えているうちに、マザークラーゲンは海を渡りきってしまった。

 砂地を抉りながら驀進ばくしんする様は、トラックというよりも、巨大なブルドーザーを思わせる。いくら軟体生物とは言え、巻き込まれたら轢死は確実だ。


 死にたくない。

 死なせたくない。


「誰か……。誰でもいい……」


 オレはエリムを、いっそう強く抱きかかえた。

 そんなオレを、パストさんもまた逃げることなく抱き締めた。


「誰でもいいから、助けてくれえッ!!」


 空に向かって、吠えるようにして叫んだ。

 こんな大声を出したって届くはずがない。届いたところで何も――



「――誰でもいい? そうではないだろう」



 またしても応える者がいた。

 それは大音声でありながら、張り上げた風ではなく、ただひたすらよく通った。

 上空で日を背負っているため、影しかわからない。だけどそいつは、オレのとは比べ物にならないくらい大きく、そして雄々しい漆黒の翼を広げていた。


 その何者かが、流星もかくやの直滑降で降りてくる。

 速い。速すぎて、下に向けた足が赤熱を帯びている。


「ふはははははははははッ!!」


 哄笑と勢いをそのまま、踏みつけるようにしてマザークラーゲンの頭上に着地。

 ぶにゅりと傘が歪に変形したかと思うと――ダプシャアアアアアアアアッ!!

 水風船が破裂したみたいにマザークラーゲンが爆散。体内に溜まっていた大量の溶解液が、盛大に砂地へと飛び散った。

 幸い、オレたちにはかからなかったけど、突っ込んだ奴はモロに浴びたはずだ。


「リーチよ、貴様が助けを求める時、呼ぶべきは決まっている」


 マザークラーゲンの残骸を踏み越えて現れたその男は、現在進行形で上着が溶け落ちていくものの、下半身は最初からそうであったかの如く、既に剥き出しだ。

 全身を晒し、風呂上がりのように濡れた金髪を優雅に掻き上げながら、男は唯一解を示すようにして、自身に向けて親指を立てた。


「他の誰でもない。この我、魔王ザイン・エレツィオーネの名だ」

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