第38話 酒は飲んでも飲まれるな

 ――トカゲ。

 下卑た笑みと口調で、男はギリコさんのことをそう呼んだ。


 オレも初めてギリコさんの姿を見た時、スミレナさんに〝トカゲ〟という単語を使ってしまった。考えなしだったとはいえ、ジャパニーズを略してジャップと呼ぶことが蔑称になったりするように、今にして思えば、言い方に問題があったかもしれないと反省している。

 そしてこの男は、オレが失礼にあたるのではないかと思った言葉を、明確な蔑称だと知りながら言い放った。


 そんな悪口を浴びせられたギリコさんには狼狽うろたえた様子も、気分を悪くしている様子もない。突然現れた男を見上げていた三白眼を下ろし、オレに向けて柔らかく微笑んだ。


「リーチ殿、話せて楽しかったのである。そろそろ仕事に戻られよ。小生しょうせいの尻尾は切れてなくなったりはせぬ。触れるのは、またの機会にするのである」

「おいおい、待てよ待ってくれよ。俺は交ぜてくれって言ったんだぜ? 何勝手にお開きにしようとしてんだよ」

「せっかくのお誘いは光栄であるが、このリーチ殿は本日が初仕事である。あまり客の無理に付き合わせてしまうのも可哀想である。今日のところは、代わりに小生が酒を注がせていただくゆえ、ご容赦願いたいのであるよ」

「は? 笑わせんな。トカゲの注いだ酒なんか飲めるわけないだろうが」


 そんな暴言を吐いておきながら、ロドリコと呼ばれた男は仏頂面を一変させ、でれっと鼻の下を伸ばした顔をこっちへ向けた。ここまで露骨だと、一種の顔芸だ。


「尻尾がどうのと言っていたけれど、ええと、店員さんの名前はリーチちゃんでいいのかな? リーチちゃん、トカゲの尻尾なんて触っても楽しくないだろう? そんなつまらない物より、俺のを触ってみないか? ただまあ、俺の尻尾は後ろじゃなく、前についているけどな」


 くだらなすぎて、金玉蹴り上げてやろうかと思った。

 男と一緒に飲んでいた仲間たちだろう。数人がゲラゲラと笑ってはやし立てた。


「それくらいにされよ。これ以上は、店の迷惑になってしまうのであるよ」


 対してギリコさんのリアクションは、どこまでも大人だ。


「後のことは小生がやっておくので、リーチ殿はスミレナ殿の所へ行くのである」

「でも、ギリコさんが…」


 面倒事を一手に引き受け、オレを遠ざけようとしてくれている。

 だけどオレは、ギリコさんが心配だという以上に、自分だけ安全地帯に避難するということに抵抗を覚えた。こういう時、心もちゃんとした女だったら、すんなり言う通りにできるんだろうか。


「うおーい、そういうことするのやめてくれる? 俺は悪者か?」


 悪者かはともかく、嫌な野郎であることは間違いない。


「そう悪い意味に捉えないでほしいのである。気に障ったことがあったのなら謝るであるから。なんであれば、小生が一杯奢らせていただくのである」


 穏便に事を収めようとするギリコさんの態度を受け、男は、今まさに気に障ったとでもいうように舌打ちをした。


「俺はただよぅ、トカゲの相手をしたんだから、俺たち人間の酌もしてくれたってバチは当たらねえだろうって、そう言っているだけだろうが」


 やはり相当飲んでいるらしく、男の目は据わっている。

 まともに話が通じるのかも怪しいが、オレは男の発言に対して言葉を返した。


「勘違いしないでください。オレがギリコさんの相手をしていたんじゃなくて、ギリコさんがオレの相手をしてくれていたんだ。です」


 一旦接客モードが切れてしまうと、つい油断して口調に地が出てしまう。


「人間がトカゲに? 意味わかんね。いいから、こっち来て酒を注いでくれよ」


 腕を掴まれ、ぐいっと引かれた。


「こらこら、女性に手荒な真似はいかんのである」

「うっせえ! トカゲが人間様に偉そうな口をきくんじゃねえ!」


 掴まれていない方の手で引き剥がそうとするが、例によってビクともしない。

 ギリコさんが慌てて席を立ち、男に引かれて行くオレを助けようとする。


 ――が、それよりも早く男の前に立った人物がいた。


「リーチさんから手を放せ!」


 エリムだ。

 リングに上がったレスラーがマントを外すように、エプロンを投げ捨てた。


「出て行ってください。店員に乱暴を働くような人は、もう客とは認めません」


 その瞬間、腕を握る力に遠慮がなくなり、オレは手首に痛みを覚えた。


「……ああそう。じゃあ、このまま持ち帰らせてもらうわ」


 男の纏う空気が変わった。客と認めない。出て行けと言われたことで、ここまで悪フザケの範疇に収まっていた理性のタガが外れたようだ。

 要するに、本気にさせてしまった。


「わ、ちょ、引っ張るな」


 キャリーバッグでも引くように、オレは店の入り口近くまで引きずられて行く。


「リーチさん! この、いい加減にしろ!」


 男の腰にしがみつく形で、エリムが勢いをつけたタックルをかけた。

 さすがに男も前のめりになる。オレはその隙をつき、掴まれた手を振り払った。


「エリム、無茶するな!」

「迷惑な客を追い払うのは男性従業員の役目。そしてリーチさんを守るのは僕の使命です!」


 え、そんなの聞いてないんだけど。いつ決まったの?


「このヤロ……やってくれやがったな!」


 まだテーブルの半分以上を客が埋めているけど、傍観を選んだのか、誰も止めに入ろうとはしない。ギャラリーに見守られたエリムと、スイングドアを背にする男が睨み合う。

 言っちゃ悪いけど、戦力差は大人と子供くらい歴然だ。

 相手は防具をつけているし、そもそも体格からしてエリムでは勝負にならない。


「やめとけって! お前より100パー強いぞ!」

「エリム少年、無謀である!」


 オレの制止にギリコさんの声も加わった。


「……男には、やらなきゃならない時があるんです」


 エリムは俄然やる気だ。

 オレは店長であるスミレナさんに目をやった。しかし、スミレナさんはバーカウンターから出てくることもなく、微笑を浮かべたまま両手を前方に広げて見せた。

 え、プレーオン?


「トカゲは偉そうだわ。店員のサービスは悪いわ。おまけに悪者扱いされて最悪の気分だぜ」

「先に問題のある行為に出たのはそっちでしょう」


 エリムが強気に返すと、男は怒り心頭でこめかみに青筋を立てた。


「人間様を無視して、トカゲなんぞを優先する方が問題なんだよ!」

「ギリコさんはウチの大事なお客さんです! トカゲなんて言うな!」


 男を店の外に押し出そうと、エリムが果敢に掴みかかっていく。

 対する男が、エリムに向けて最短の前蹴りを放った。


「――がっ!?」


 体重差も大人と子供だ。紙屑みたいに後方へ飛ばされたエリムが、近くのイスやテーブルを巻き込んで、盛大に背中から倒れた。客のいないテーブルだったのが幸いし、被害は最小限で済んだが、エリムのダメージは甚大だ。


「今ごめんなさいって謝りゃ、許してやるぞ?」


 男の軽口に揺さぶられることなく、よろよろと立ち上がるエリムの目に映る戦意は衰えていない。だからこそ、これ以上は危険だ。

 漫画だったら、こんな噛ませ役みたいな敵、ワンパンで終わるのに。


「エリム、もうやめろって! お前じゃ勝てないよ! オレが酌でもなんでも――なんでもはしないけど、相手の機嫌を取るくらいならするから!」


 オレはエリムに駆け寄り、腕を取った。

 しかし、あっさりと振り解かれてしまう。


「……エリム?」

「勝てないなんてことは、僕が一番よくわかっています。……それでも」


 いつの間にか、客はエリムに声援を送っていた。

 行け! 頑張れ! お前ならやれる! そいつをやっつけろ! お前が頼りだ!

 無責任にも聞こえるそれらの声は、確かにエリムを支えていた。


「やるしかないんだ。勝てる勝てないじゃなく、ここで僕は、立ち向かわなくちゃいけないんだ!」


 なんか、漫画で見たことがありそうな台詞だな。

 雰囲気に酔っている感があることも否めないエリムが足を前に出した。

 技も策も何も持たず、ただぶつかっていく。自殺行為とも取れる特攻だ。


「ぬぅおおおおおおああああああッ!!」


 どう見ても無謀――だけど、エリムの気迫、エリムへ向けられた声援。

 もしかしたら、番狂わせの大逆転が――


「――ッ、あ……ぅ」


 などという期待を嘲笑う男の無情な拳が、エリムの顎を打ち抜いた。


「無駄でしたぁ」


 白目を剥いたエリムの体から力が抜け、うつ伏せに崩れ落ちた。


「エリム少年!」

「わっはは、ざまぁないな!」


 とてもナイスファイトとは言えない、呆気なく、一方的な戦いだった。

 倒れたエリムと、それを抱き起こすギリコさんを覗き込むようにして、男は腰を曲げた。その表情には、弱い者いじめの余韻に浸る性格の悪さが張りついている。


「おいトカゲ、わかってんのか? お前のせいだぞ? これに懲りたら、せいぜい人間様を立てることを覚えるんだな。まあ、そのガキも人間だったが、トカゲの味方なんかするから自業自得だ。なんにせよだ。トカゲはトカゲらしく、一生日陰でちょろちょろしてるか、せこせこ穴でも掘っていろよ。得意だろ?」


 プチッ、と。

 頭の中で何かが切れた気がした。

 気づけばオレは、中腰になってちょうどいい位置にある男の顔面に向かって拳を振り被っていた。


「うお――っと!?」


 男は立ち上がったり退がったりはせず、膝を床についてさらに体勢を低くした。

 その頭上をオレの拳が空振りしていく。

 重量のある防具を纏った身でありながら、完璧にかわされた。


 それを計算していたわけじゃない。

 だけど、オレにはわかってしまった。

 骨格から肉質、何から何まで変化した自分の体。

 その間合いを知ったオレには、この後に起こる結果が瞬時に予想できた。


 オレの懐に潜り込んでしまったのが、男の運の尽き。

 残念だが、そこは安全圏にあらず。


 それは放った拳に、コンマ一秒遅れてやって来る。



 バチィィイン!!



「――ッッがっはッ!?」


 これぞ隙を生じぬ二段構え。

 腕の動きに連動して勢いよく振られた乳が、男の横面を殴打した。


 完全に意識の外で受けた攻撃に対応できず、男は無様に背中から倒れた。

 そして首だけを持ち上げ、信じられないものを見る目をオレに向けてくる。


「ば、馬鹿な……おっぱいビンタ……だと?」


 言葉にされると、あれだ。死にたくなる。

 あと、飛天●剣流・双乳閃なんて技名を頭に浮かべてしまった自分を殺したい。


 男は口をわななかせ、続けて言った。


「親父にも……ぶたれたことないのに」


 知らんがな。

 そんなどうでもいいことは捨て置き、オレはどうしても我慢ならず、男に言わなきゃならないことがあった。ギリッ、と歯を噛みしめてから、それを口にする。


「人間が、そんなに偉いのかよ」


 店内は、しん……と水を打ったように静まり返っている。

 オレの声は、この場にいる客全員にも届いた。

 質問をぶつけられた男が、ほんの二、三秒を思考に当てた。


「少なくとも、リザードマンよりは――」

「昨日のことだ」


 男の台詞に、自分の言葉を被せて遮った。


「オレは男四人に押さえつけられて、乱暴されそうになった。ぎりぎりのところで助けられたけど、もう少しで犯されるところだった。アンタと同じ人間にだ!」


 ともすれば、自分が人外であることを告白しているようにも聞こえるだろう。

 それでも言わずにはいられなかった。


「そ、お……俺と、その連中とは、関係ないだろう」

「そうだ、関係ないんだ! アンタはアンタだ! ギリコさんはギリコさんだ! 人間だからなんだ!? リザードマンだからなんなんだ!?」


 男は尻もちをついたまま、立ち上がることもせずオレを見上げている。


「種族じゃなくて、その人をちゃんと見ろよ! 見てくれよ! 何も悪いことしてないのに、どうして酷い扱いをされなきゃいけないんだよ!? アンタも今、一緒にされて嫌だったんだろ!? だったらわかるだろう!?」


 オレは、ギリコさんに自分を重ねて訴えかけた。

 悲しみより、今は怒りの方が勝っているのに、感情が高ぶりすぎて涙が浮かぶ。


「自分から敵を作るようなことするな! なんで仲良くできないんだよ!?」

「お、俺は……」


 男が何かを言おうとするが、その先が出てこない。

 他の客たちも、誰一人として口を開かない。開ける空気じゃない。

 そんな中でギリコさんが発した言葉は、耳を疑うようなものだった。


「小生には、彼の気持ちがよくわかるのである」

「な、何言ってるんです? わかるって、他の種族を見下すことがですか!?」

「いやいや、そうではない。小生は、こんなにも気高く可憐な女性をわずかな時間とはいえ独り占めしていたのである。これで恨まれない方がおかしいのであるよ」

「え、は?」


 何を言うかと思えば。

 この状況を、酒の席で起こった戯れとして済ませてしまうつもりなのか。


「ギリコさんは、この人のことを怒ってないんですか?」

「……正直に申すならば、思うところが無いわけではないのである。であるが、今宵の酒は、いつになく美味い。その理由は、この店にいる誰もがわかっていよう。些細なことで気持ちを荒立てて、舌を鈍らせてしまうのは忍びないのである」


 言って、ギリコさんは男にも手を差し出した。


「そろそろ酔いが醒めてきた頃であろう?」

「あ、ああ……」


 様々な感情がない交ぜになっているのか、男の表情には戸惑いが色濃く見える。

 その中で一つ汲み取るとすれば……罪悪感、だろうか。


 かし……と弱々しく頭を掻き、仲間たちと顔を見合わせてから面(おもて)を上げた。


「酒を言い訳にはしないが、酔いが醒めた」


 男と、直接は絡んでいない仲間たちが一列に並んだ。

 そして、「すまなかった」と言って、全員が頭を下げた。


「リーチちゃんに、目が覚めた」


 それ、できることなら忘れていただきたい。


「ギリコ……さんといったか。詫びなら俺からさせてほしい。一杯奢らせてくれ。リーチちゃん、彼に【ラバンエール】を出してくれないか」

「それは断るのである」


 和解を目前にして、ギリコさんが男の申し出をすげなく撥ね除けてしまった。

 店内に緊張が張り詰める――が、何を思ったか、ギリコさんは自分のテーブルに歩み寄り、まだ少し残っていた【コング芋の火酒】を傾けて一気に飲み干した。


「小生、この火酒に目が無い。そしてたった今、空になってしまったのである」


 ギリコさんの鋭い三白眼が、ハの字に垂れるほどの笑みを形作った。

 それを見た男が、一度へにゃっと情けなく顔を歪め、すぐに破顔した。


「は、わははは。リーチちゃん、あの酒を彼に頼む!」

「喜んで!」


 オレは飛ぶような駆け足でスミレナさんに追加注文を通した。


「もうとっくにラストオーダーの時間は過ぎているんだけどねー」

「そんな固いこと言わず! お願いします!」

「うふふ、仕方ないわね。閉店は一時間だけ延長かしら。後でいいから、エリムを回収しておいてね」


 全く仕方なくはなさそうに、スミレナさんは肩を竦めた。

 まるで、最後にはここへ行き着くことがわかっていたかのように。


 スミレナさんに作ってもらった【コング芋の火酒】のロックをギリコさんに渡す。


「何やら小生が音頭を取る流れであるな」


 恐縮するギリコさんだが、店内の視線は一つ残らず彼に集まっている。

 では、と前置きをしてギリコさんがグラスを掲げた。


「ここに御座(おわ)すリーチ殿の魅力を肴(さかな)に、しばし酒宴を交わすのである。乾杯!」


 日付も変わろうという遅い時間にあって、今日一番の発声が響き渡った。音頭の内容に一言物申したいところではあるが、この和やかな空気に水を差してしまうのはもったいない。


「あの……リーチちゃん」


 従業員という立場上、宴に交ざるわけにもいかないので、少し離れて喧騒を眺めていると、騒ぎを起こしていた彼が、申し訳なさそうに話しかけてきた。


「さっきは本当にすまなかった。このとおりだ。許してくれ」


 非を認めて、ちゃんと反省してくれる。この人も、悪い人じゃないんだろうな。

 オレは上辺の言葉を並べる代わりに、ふるふると首を横に振った。

 そして一言だけ添えた。


「嫌いにならなくてよかったです」


 ――人間という種族を。

 怖かった。

 もしかしたら、エリムとスミレナさんだけが特別で、人間の多くはこの人みたいに差別を当たり前のように思っているんじゃないか。そんな風にも思った。


 でも、そうじゃなかった。たとえそうだったとしても、理解し合えないなんてことはない。

 種族が違っても、仲良くできるんだ。

 それがわかっただけで、自然と表情が綻んで笑顔になってしまう。


 オレに構わず楽しんできてください。そう言おうとするが、目の前の彼が、突然ズボッ! と顔を真っ赤に染め上げてしまった。キツい酒でも飲んだんだろうか。


 ふらふらの千鳥足で仲間たちの所へ戻って行く彼を見て、オレは一つ教訓を得た。


 ――酒は飲んでも飲まれるな。


「ああはなるまい」


 オレはそう心に固く誓ったのだった。

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