32歳、青春中

棚ん

おっさんロードレーサー

 伊沢修司32歳、独身、身長175cm、体重80kg、学生時代は万年帰宅部でスポーツ経験なし、趣味はせいぜいパチンコくらいしかなかったが、最近会社の同僚に誘われてダイエットがてらロードバイクと呼ばれる自転車を購入し、サイクリングを始めた、うだつの上がらない会社員である。


 伊沢は今、夏の猛暑の中、たった一人で死んだほうがマシではないかと本気で考えるくらいに必死になってペダルを漕いでいた。


(俺はなんでレースに出るとか言っちまったんだ!)


 伊沢は今、ロードレースと呼ばれる自転車のレースに参加していた。

 ロードレースとは、ロードバイクと呼ばれる細いタイヤに、湾曲した変なハンドルがついた自転車で長距離を走って競争するレースのことだ。

 そのレース距離は短いものでは20kmほど、長いもので200kmほどにもなる種目だ。


 若者の口車に乗せられて軽い気持ちでいざレースに出てみれば、他の参加者がとてつもない勢いでスタートダッシュを決め、ついていくのに必死でコースを1周もしないうちに他の選手に置いて行かれてしまった。


(こんだけ頑張ってるんだからせめて完走くらいできないと割に合わんぞ!)


 最下位確定なのに伊沢が死ぬ気でペダルを踏み続けているのは、あまりに遅いと途中でレースを降ろされる『足きり』になってしまうからだ。

 5000円もする参加費+交通費、この日のためにしてきた練習を考えるとせめて完走だけはしたかった。


 心臓は破裂寸前、呼吸は乱れ、足はパンパンになってもペダルを漕ぎ続ける。

 だが、無情にも最終周回に入るところで大会の係員に止められ、足切りで伊沢の初レースが終了した。


 永遠にも思える苦しい時間が短く済んでホッとするも、呼吸が落ち着いてくるにつれて悔しさがこみ上げてきた。


(なんでこんなにアイツら速いんだよ!初心者クラスなんじゃないのか!俺だって練習して、自転車に誘ってきた藤原より速くなったのに!)


 そうしてるうちにレースをしている集団が最後の一周を回ってきたらしく、ゴールラインに向けて走ってくる姿が見えてきた。

 先頭の選手は他のほぼ全ての選手達が固まって走っている『集団』より50mほど抜き出た独走状態で、それを集団が必死になって追いかけている。


 残り200m。

 先頭の選手が自転車のサドルから腰を上げ、湾曲したハンドルを握り、最後のダッシュを行う『スプリント』の態勢に入った。

 それを追う集団の選手たちも次々とスプリントの態勢に入るが、先頭の選手は集団の追い上げを一切許さない。

 通常、人を風よけにすることができる集団のほうが、圧倒的に速度もスタミナも有利なのだが、むしろ更に距離を離して先頭の選手はゴールした。


「うおおおおおお!」


 勝利した選手が両手を上げて雄叫びをあげている。文句なしの独走勝利である。


(雄叫びあげてる・・・あいつのキャラじゃないだろう……)


 伊沢はその自分のよく知る優勝を飾った若者がゴールをする所を見て妙な可笑しさがこみ上げる。

 普段は腰が低く、にこにこと笑いながら敬語を欠かさない好青年が修羅のような表情を浮かべているのだ。

 確かに自転車は速いなと思っていたが、ここまでとは思っていなかった。

 

(カッコイイじゃねぇか……)


 成人した男が感情をむき出しにするのはみっともないという考えが歳を重ねるにつれ無意識に強くなり、何年も心の底から喜んだ覚えがない。

 だがどうだ、この青年は。

 今感じてることをまるで赤子のようにすべてさらけ出した野性的な姿。

 これほど生命力にあふれてて人間的な感情表現しているのに悔しくなるくらいカッコいい。


 伊沢はゴール後、疲労で座り込んでいる若者に近づいた。


「お疲れー!兵藤お前すごいな!」


 伊沢のねぎらいの言葉に勝者である若者、兵藤は顔を上げる。


「はぁ・・・あ、いざっおぇっ・・・はぁ・・・はぁ・・・伊沢さんお疲れ様です・・・はぁ・・・僕やりました・・・」


 疲労困憊で吐きそうになりながらもニコッと人好きのする笑顔で勝利報告する若者の名は、兵藤拓也。


 レース中の雄叫びを上げる修羅のような姿とは裏腹に、普段は腰が低くて礼儀正しい、身長165cmほどの小柄な22歳の男である。

 伊沢をこの自転車レースに誘った張本人であり、伊沢に自転車の苦しい事、楽しい事ひっくるめて半強制的に教えこんだ人物だ。


「ふぅ・・・伊沢さん先にゴールしてるってことは足切りですか?落車じゃなさそうですね。初レース怪我なく追われてよかったです。」

「お前、なにが伊沢さんなら行けます!だよ!一秒たりともついていけなかったぞ!」


 伊沢は10歳も年下の若者に憧れを抱いてしまった気恥ずかしさを隠すように、冗談混じりの悪態をつく。


「残念でしたね。でも今回の目標は落車せずに完走だったので半分達成ですね!」

「調子良いやつだな・・・」

「でも楽しかったんじゃないですか?」


 兵藤というこの男は物事をとにかくいい方に物事を捉える天才で、伊沢がからかおうが、嫌みを言おうが全てニコニコしながら受け流してしまう。

 そのせいか伊沢はこの男にどんなに騙されて死ぬほどきつい練習をさせられても憎めないでいた。

 今回もそうだ、伊沢は兵藤の言葉を聞いてこのいいところのなかったレースについて、もう一度考えてみる。


 レース会場に着いたときは、周りの人間すべてがとんでもなく強そうに見えてビビッて何度もトイレにいった。

 スタート前はあまりの緊張に手が震えてなんでエントリーしてしまったんだと後悔した。

 スタート直後は普段とは違って、前後左右のすぐそばに走ってる人がいて窮屈で、前の人がコケたらどうしようと恐怖で一杯一杯になる。

 コーナーでは他の人よりうまく曲がれず、前と差があいて、後ろの人に怒鳴られて必死で差を埋める。

 ついには集団から千切れてしまい、限界ギリギリまで自分を追い込んで前を追いかけるも、離れていく無力感を味わいながら足切りになる。


 結果は散々でレース中は負の感情ばかりだった。だが、


「うん…まぁ…悔しいし怖かったけど…楽しかったよ。」


 伊沢は不思議とレースに出てよかったと思えていた。

 時速40km/hオーバーでプロテクターもつけずに走る文字通り命がけのレース。

 もし自転車で転ぶ『落車』をしてしまえば骨折してしまい仕事にも支障をきたしてしまう。

 だが伊沢は不思議と終ってみれば楽しいという感情が湧き出ていた。

 上手くなにが楽しかったかは説明できない。

 だが、そこには確かに男たちを魅了する本能的な何かがあった。


「それなら良かったです。経験を積めば伊沢さんの足なら十分完走できると思います。最初の方は後ろから見てたんですが、取り敢えず次からはコーナー練習と、集団の走り方の練習またやりましょう」

「お前歳上にも遠慮なくスパルタだよな・・・」


 初のレースが終わったばかりだというのに、遠回しなダメ出しと、次の練習について聞かされて伊沢はげんなりとする。

 だが伊沢は趣味なのに辛い思いをして練習することに対して不思議と前より前向きになっていることに気付いた。


「まあお手柔らかに頼むよ先生。」


 伊沢修司32歳、趣味はロードレースのうだつの上がらない会社員である。





 5か月後、伊沢は兵藤から与えられたトレーニングメニューをこなしていた。

 場所は自宅の倉庫で、ローラー台(約3万円)というロードバイクを固定して室内で乗ることができる機材を使っている。

 今日のメニューは10分アップした後に20秒全力で漕いで10秒休むのを8回行うタバタ式トレーニングと呼ばれるものだ。

 伊沢が全力の部分をサボらないようにサイクルコンピューター(約4万円)と心拍センサー(約1万円)を兵藤に買わされ、脈拍で全力を出しているかどうか管理されている。

 目標心拍数は(220-年齢)の90%、つまり169/分以上の心拍数を義務づけられている。

 メインのトレーニング部分が僅か4分で済むサラリーマンには優しいトレーニング法だが、これほど長い4分は存在しないと伊沢は考えている。


 考えてみてほしい。

 学校で100m走をした時のタイムは何秒だっただろうか。

 少なくとも20秒よりは少ないはずだ。

 このメニューは100m走の全力を20秒間出し続けるのである。

 短時間で非常に効果が見込める日本人が考えた世界的に有名なメニューなのだが、プロでも地獄の4分といって嫌がる程である。


「ラスト一本です!踏んで踏んで踏んで!まだまだ!まだいける!」

「あああああああああ!」


 伊沢は兵藤に発破をかけられながら最後の全力スプリントを開始した。


(きつい!やめたい!あつい!死ぬ!こいつ笑いながら見てんじゃねえよ!) 


 伊沢の胸にあまりのきつさに負の感情ばかり湧いてくる。

 伊沢がそろそろか?!とサイクルコンピューターに表示された残り秒数を見るとまだ5秒しかたっていない。

 もう一度顔を伏せてスプリントしてそろそろか?!と残り秒数を見ると、まだ10秒だ。

 伊沢はまるで時間を停止する能力を手に入れてしまったかのような錯覚に陥るが、兵藤の声が正常に時間が経過していることを教えてくる。


「5,4,3,2,1,0お疲れ様です。あとは10分ダウンですね。」


 伊沢は完全に酸欠状態になり兵藤の言葉に答える気にもなれず、意識を朦朧とさせながらペダルを軽く回し続ける。

 今は全く負荷をかけていないにもかかわらず、疲労のあまり指の一本動かすことさえつらくなっていた。

 なんとか10分ゆっくりペダルをこぎ終えると、ペダルと足を固定する自転車用の靴(約2万円)を何とか外して床に倒れこんだ。

 10分たったにも関わらず疲労で動く気がしない。


「伊沢さん凄いですね。普通の人はちゃんと8本できないですよ。」

「おっさんにも意地があるんだよ……」


 伊沢はレースで足切りになった次の日から休日だけでなく、仕事終わりにもトレーニングをするようになっていた。

 兵藤もそれならばと伊沢より先に仕事が終わるため自分の練習を終えた後、兵藤練習の面倒をみてくれていた。


 最初は夜にライト(2万円)をつけて外を走っていたのだが、兵藤が


「大分ペダリングスキルがついてきたしメニューやりましょう。」


 と言って言われるがままに伊沢は室内用のトレーニング器具を購入してしごかれることになってしまった。


「そろそろ外で流しましょうか。ローラーでついた踏み癖の修正をして終わりにしましょう。」

「あ~あと5分待ってくれ~」

「体が冷えちゃうんでちゃっちゃと行きましょう。さあ立って!」

「本当に自転車のことに関しては厳しいよな……」

「伊沢さんがレースで勝ちたいっていったからじゃないですか。ゆるく楽しみたい人にはこんなこといいません。」


 伊沢と兵藤は火照った体を夜風で冷やしながらゆっくりと走る。

 ゆっくりと走っているが、兵藤は伊沢のペダルを漕ぐスキルがこのメニューで崩れているところを逐一チェックし修正する。

 そして二人でコンビニまでいくと各々好きな食べ物を買ってコンビニ前で談笑するのが彼らの日課になっていた。


「いよいよ来週ですね。」

「そうだな。お前の練習は本当にきつかったよ。」

「ここから一週間はきつい練習は封印して体を休めましょう。伊沢さん頑張ってたし結構いい線行くと思います。」

「本当かよ~また足切りとか嫌だぞ?こんだけ頑張ってるのに全然お前には敵わないし俺強くなってんのか実感がわかないぞ。」

「大丈夫ですよ。伊沢さんは凄く強くなってますよ。ただ比べる僕が強すぎてわかんないだけです。」

「その天狗になった鼻いつかへし折ってやるからな……」


 ちなみに伊沢が食べているのはフライドチキンとコカ・コーラ。

 兵藤は生ハムと100%オレンジジュースだ。


「なあやっぱり普段からそんな風に食事に気を使ったほうがいいのか?」

「別にプロになるわけじゃないんですから好きなもの食べてもいいじゃないですか?

 あくまで趣味なんですから食べたいもの我慢して自転車が嫌になるより、好きなもの食べて長続きした方がいいですよ。

 まあ練習した日は肉かプロテイン飲むくらいでいいと思います。

 僕は食べ物より強くなるほうが好きなんで管理しますけど。」


 伊沢はその兵藤の言葉になるほどと思った。

 兵藤はストイックなのに歳のいったベテランのような抜きどころも知っている。

 若いのにもかかわらず一体どれだけの経験を積んできたのだろうか。

 伊沢は兵藤のそんな言葉の端々に感じる経験に裏打ちされた自信を感じ取り、歳下にも関わらず尊敬していた。

 だからこそ地獄のようなしごきにも付いていこうと思えたし、一緒にいて楽しいと感じたのだ。

 

 

 1週間後、レース当日。

 伊沢はスタートラインに並んでいた。

 今回のレースは1周3kmの常に上るか下るかしている厳しいコースだ。

 今回伊沢が出場するのは初心者クラスで3周回することになっている。

 兵藤はこの後の20周回する上級者クラスに出場するため今は見学している。

 スタートする時の順番は早い者勝ちで兵藤に言われて真っ先にならんで一番前を確保している。

 伊沢としては一番後ろから行きたいところなのだが、鬼畜チビが見ているのでそれはできない。


(初心者クラスじゃないのか?!)


 伊沢は前回と比べてパワーアップしたはずであるが、周りの人間が相変わらず猛者にしか見えない。

 ロードレースは基本的にどのクラスに出場するかは自己申告制だ。

 そのため伊沢には周りの人間がみんなベテランで初心者狩りするために初心者と偽っているようにしか見えなかった。


(あの人ふくらはぎ凄い…ふくらはぎが凄い人はあまり強くないって言ってたけど本当か?)


 スターターがスタート2分前を告げる。


「兵藤さーん!足切りになったらタバタ二回!」

「誰がやるか!」


 がちがちに緊張し、うつむいていた伊沢だが、兵藤のやじに顔を上げて反応する。

 アホなやり取りで少し緊張が解けたようだ。


(多分あいつわかっていってんだろうな……)


「スタート5秒前。」


(師匠にいいとこ見せてやるか。)


 パーンという火薬の音が鳴り響いた。

 伊沢はハンドルを握り、腹筋を固めて全体重をペダルに乗せた。

 伊沢だけではない、レースが開始した瞬間全選手が全力でペダルを漕ぎ始めた。

 開始早々の緩い上り坂を一気に駆け上がる。


(アドバイス1、最初10秒は全力でかませ!)


 伊沢は兵藤からいくつかのアドバイスをもらっていた。

 その最初がこの開幕ダッシュだ。

 この開幕ダッシュは弱い選手を開始早々に千切ってしまい、選手の集団の人数を減らす事が目的だ。

 あまりに集団の人数が多いと、特にレース慣れしていない初心者クラスはどうしても肩が触れ合うような距離で走っているため、接触して落車が起きる可能性があがってしまう。

 そのため足のそろわない選手を振るい落とすために行われる。


 この動きは通常レース慣れしていない初心者クラスでは起きにくいのだが、伊沢の足ならいけると判断し兵藤が指示していた。

 もちろん誰も追いかけてこなけば意味がないのだが、今回は上手くいったようで伊沢を先頭に縦一列になってついてくる。


(1、2、3、4、5秒!)


 指示されていた5秒が終わるとあげていたお尻をサドルに戻して巡行の態勢に入る。

 サイクルコンピューターの速度は44km/hを表示している。

 伊沢は数秒その速度を維持して右ひじを横にくいくいと出して左に避けた。

 横に避けた後42km/hほどまでスピードを落とすと後ろの人間が速度を維持したまま前に出てくる。


(5、6、7人目かそろそろ……)


「入れて!」


 伊沢は自分を抜いた7人目の人に大声をあげて列に入れてもらうように叫ぶ。

 声をかけられた選手は快く隊列に間をあけてくれ、無事に伊沢は隊列に戻ることができた。


 ロードレースとは風との戦いである。

 速度を上げれば上げるほど空気抵抗は強くなるため、前の人を風よけにすることで体力を温存するのが定石で、二人で縦に並んで走っていた場合後ろの人は60%の力で走ることができる。

 そのため、こうやって人数が揃っているときは敵であっても順番に先頭に立って風よけのための隊列を組むのだ。


  集団は登りに入る。

 集団の速度がガクンと落ちて一瞬の余裕が伊沢に生まれる。

 レースが始まって以来ずっと前を見続けた伊沢はまわりの状況を初めて確認する。

 50人ほどいた集団は数十秒で20人ほどまで絞り込まれていた。

 後ろを見ると登りを散り散りに追いかけてくる選手が見える。


(登りの速度は…問題ない。意外と遅い。)


 登りの斜度があがり、本格的な登りがはじまると20人の選手は最初の縦一列から打って変わって道路一杯に横に広がって走っている。

 登りでは速度がかなり落ちるため、空気抵抗をあまり気にしなくていい速度=前に出てもいい速度になるのだ。

 登りに入ると前が詰まり、横に広がる理由はほかにもあるが今はいいだろう。


 登りは意地のぶつかり合いだ。

 多くのロードレーサーは登りで勝つことに喜びを覚える。

 そのため登りではしばしば本当のゴールがまだ先にもかかわらず、足を使っての千切りあいが始まる。

 今回も伊沢の開幕のハイペースに触発されたのか、かなりのペースで登っていく。

 そして登り終わるころには集団から5人脱落し、15人になっていた。

 登りが終えれば次に来るのは下りだ。

 坂を登り終えた選手たちは皆、息を切らせて苦しそうで登りが終わって力を緩めている。


 意地をぶつけ合いながら登ることで溜めた位置エネルギーが運動エネルギーに徐々に変換されていく。

 集団はこの下った先にある狭いコーナーに備え、縦一列になる。

 伊沢はここでもう一度攻撃を仕掛ける。


(アドバイス2、下りコーナーには先頭で入れ。)


 伊沢は下りにも拘らずスプリントを始める。

 次々と人を抜いていき、一気に先頭に躍り出る。

 先頭を走っていた選手は、前に出てきた伊沢にすかさず後ろについて風よけにして足を休める。

 下りだが、しっかりとペダルに力を込めているため、空気抵抗はかなりのもので、伊沢の体力をごりごり削っていく。

 そして伊沢の狙いであるコーナーに差し掛かった。


 伊沢は猛スピードでコーナーに突っ込む。

 コーナーの直前、伊沢はフロントのブレーキをしっかりかけて一気に減速する。

 フロントブレーキをかけたことで伊沢の体は完成に従い、前に放りだされようとするが、ロードバイクの下ハンドルと呼ばれる湾曲した部分に手を置き、手を突っ張りハンドルを通じて前輪に荷重をかける。

 タイヤが荷重により潰されたのをハンドルを通じて感じ取った伊沢は一気にブレーキを離し、車体を傾ける。

 すると荷重を得たタイヤは高速コーナリングによる遠心力に打ち勝ち、加速しながらコーナーを抜けた。


 伊沢はコーナーを抜けるとまた登りに入る。

 このコーナリングだけで後ろの選手と3車体分ほどの隙間を開けることに成功した。


『初心者クラスはコーナーを練習していない人がほとんどです。なので後ろにいても落車に巻き込まれて危ないだけなので前に出ましょう。

 僕と練習した伊沢さんならそれだけで他への攻撃になります。』


 コーナーの立ち上がりの登りを伊沢が駆け上る。

 後ろの選手もすかさずついてくるが、集団は縦に引き伸ばされ、後ろの人間ほど長い加速を強いられて次々脱落していく。

 伊沢が先頭を走っていると一人が集団を抜け出してアタックをしかけてきた。


(あいつ速い!)


 次々と伊沢の後ろから飛び出した選手を追いかけるため飛び出していく。

 伊沢も反応し何とか食らいつくが、登りの地力に関しては負けているようだ。

 じりじりと離されていく。

 

「ハッハッハッハッ。」


 だが伊沢は焦らない。

 ペダルを回す右足が下に来るタイミングに合わせて意識的に呼吸をはいてペースは乱さない。


(アドバイス3、下りコーナーで離すことができたのなら登りで多少遅れても大丈夫。登りで頑張るより下りで踏め。)


 登りで頑張りすぎても下りで踏む足が残っていなければ意味がない。

 そのため自分の足がへばらないぎりぎりを見極めて踏み続ける。


(もう少し……終わった!)


 登り途中にあるゴールラインが過ぎ、最初に伊沢がアタックしたスタート直後の緩い登りを終え、じりじりと離されたつらい登りが終わる。

 足を温存するとはいっても心拍数が168/分を記録している。

 息は切れ、汗が噴き出している。

 自転車は自分の足で走るマラソンとは違い、体重を支えてくれる機材があるため、最高心拍にかなり近いところを使用する。

 普段から訓練していない人からしたら辛すぎてゲロを吐くことになるだろう。


 だが伊沢は訓練した側の人間だ。

 この心拍域なら10分は持つはずだ。

 下りに入り、温存しておいた足を一気に開放する。


『下りは休むところじゃありません。攻撃するところです。危ない?危なくなければレースじゃないですよ。』


(それは危険思想すぎるだろ……)


 伊沢は離された選手を追いかけながら兵藤の言葉を思い出す。

 あまりにもレースに対するストイックな姿勢にドン引きしたのを覚えている。

 だが伊沢は兵藤の事を信頼している。

 ドン引きするような発言であっても、伊沢にとってそれを実行するだけの価値があるのだ。


 下り終わりのコーナー手前100m、伊沢は離された選手に追いつくことができた。

 この先頭集団は伊沢含め残り4人、一週目と同様に再び先頭に立ってコーナーに侵入する。

 伊沢の鋭いコーナーからの立ち上がりに一人がついていけずに脱落する。

 残り3人、一週目で登りでアタックした選手が再び仕掛けてきた。

 伊沢はそれには付き合わずに自分の限界のペースで走り続け、もう一人の選手はアタックについてく。


 ゴール手前50mほどで追走していた選手が力負けして後ろに下がってきた。

 伊沢は手を後ろに出してクイっと手を煽って後ろにつくように促すがその力もないようでずるずると下がっていく。

 伊沢はこの選手を連れて登り切り、下りを交代で風よけになりながらトップの選手を追いかけようとしたのが、それは難しいようだ。

 伊沢は気合を入れなおし、再び前を追いかける。

 

 ゴールラインを通過したとき最終周回だと伝える金がなる。


(ラスト!)


 終わりが見えれば人間気合が入る。

 短いようで長いレースがもうじき終わる。

 下りに入った時点での差は40mほどで下り終わりのコーナーまで300mを残して追いつく事ができた。

 伊沢は相手の後ろにつき、最後の登りに備えて足を休める。

 このレースは登りゴールだ。

 地力の登坂力で負けている伊沢が勝つには相手を疲れさせ、自分は足をためるしかない。

 

 相手はちらっと後ろを見て伊沢を確認すると肘を横に出し、先頭交代を要求してくる。

 伊沢はその合図に従い、思いっきり足を使って前に出た。

 急激な加速に相手選手は出遅れながらついてこようとするが、3車体分は差が開き、縮まることがない。


(落ちろ!落ちろ!)


 伊沢は勝負に出ていた。

 ひたすら先頭に出ず金魚の糞になって力を温存して登りで勝負すること選択肢はあった。

 だが伊沢のプライドがそれは違うと訴えてくる。

 ここまで積極的に動いてきたのにそんな最後はつまらない、やはり最後は力でねじ伏せたいという男の本能がむき出しになってきたのだ。

 

 下りで風よけにさせないように一気に加速して突き放し、力比べに持ち込む。

 下りにも拘らず、きつい、つらい。

 だがそれは相手選手も同じこと。

 伊沢は必死にペダルを踏み続ける。

 そして得意のコーナー。

 曲線ではなく鋭角なラインどりでさらに相手を突き放す。


 空いた差は8車体分ほど、伊沢は登りで負けている相手にこのアドバンテージで守り切らなければならない。

 

(きつい!死ぬ!もうあきらめていいか?いやもったいない!でもやめたい!)


 伊沢はとにかく前のみ見つめて全力で登っていく。

 それまでの周回と違い、後先を考えない全力の登坂だ。

 必死になっているのは相手も同じで荒い息遣いが伊沢の耳に届く。


(まだいる!近づいてる!もうあきらめろよ!)


 ゴールまで残り100mついに伊沢の視界の端に相手選手が映る。

 相手は腰を上げ、すでにスプリントの態勢に入っている。

 伊沢も腰を上げスプリントに移った。


 残り50mわずかにリードされる。

 だが伊沢はあきらめない。


(タバタ思い出せ!最後まで出し切れ!師匠を思い出せ!こいつが鬼畜チビより強いなんてことはないんだ!)


 伊沢は人差し指を伸ばし、右足から左足に荷重が移る一瞬のギアにかかる負荷が消える瞬間に一枚ギアを重くする。

 足にずんっと思い負荷がかかり失速しかける。

 だが伊沢は歯を食いしばり、ハンドルを引き、腹筋を固め、大腿四頭筋をつかって真っすぐペダルを踏みぬく。

 頭から足までペダルに対し一直線になり、足にかかっていた負荷を踏み破り、体重と持てる筋肉全てが推力に変換される。

 ゴールラインを前輪が通過する。

 伊沢は腕を振り上げた。


 


「いやー俺の最後のスプリントみたか?少しリードされていたところを最後の力で巻き返したんだ!」

「ほんとにいいレースでしたね。展開も積極的でかっこよかったですよ。」

「そうだろう!そうだろう!俺お前より才能あるかもしれないな!」

「僕は一回目で優勝しましたけどね。」

「…今日くらいは忖度してくれてもいいじゃないか……」


 二人はレースが終わった夜に焼肉を食べながら祝勝会をしていた。

 汗を流し、勝利の体験を肴に酒を飲む伊沢は上機嫌だ。

 兵藤も6位で結果は振るわなかったが、練習仲間である伊沢が勝てたことに純粋な喜びを感じていた。


「そういえば最近会社の後輩の子に伊沢さんかっこよくなりましたねっていわれちゃったんだよ!これは俺にも遅い春が来たかもしれんな!」

「そうかもしれませんね。このレースの結果教えたら惚れちゃうんじゃないですか?」


 ちなみにロードバイクは女性受けがあまりよくないので自慢するのはお勧めしない。


「あーやっとあのきつい練習から解放される~」

「え?」

「え?」


「え?これだけで満足しちゃったんですか?」

「十分だろ!一番だぞ!」


「そうですけど初心者クラスですよ?まだまだ上かいるんですよ?」

「いいの!おっちゃんにはそれだけで満足なの!」


「そうですか…まあ勝利の美酒は麻薬と同じです。きっと伊沢さんもどんどん強くなりたい欲求がでてきますよ。」

「そうか~?」

「そうですよ断言します。」


 その一週間後伊沢は次の大会にエントリーすることになる。

 伊沢修司32歳、独身、身長175cm、体重65kg、趣味はロードレースのしがない会社員だ。

 彼は汗を流す。苦しむ。嫌になる。

 それでもあの感動に向かい努力する。

 伊沢修司は今青春を謳歌している。

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32歳、青春中 棚ん @Namamugiyaki

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