四十五. 治水
空気が変わるのを、肌が感じている。
相変わらずの不吉な感覚に自然と苦笑いが浮かんでしまうのをまた苦々しく思い、改めて苦笑する。恐れなど自分には必要ないと、とうの昔に置いて来たと思っていたのだから。
彼は直ぐに察した。自分の領域を侵食されるような、意図しない新たな波紋が勝手に広がっていくような、そんな不快感を味わわせてくれる相手が来たということを。
……そしてまた、それが自分が探している相手だということも。
「よう、探したぜ?」
最後に一発だけ流し込むと、用は済んだとばかりに小倅を逃がしてやる。
慌て、離れていく姿はどこか自分の息子を想像させ、面白くなかった。とはいえ、その息子とはもう何年も会っていない。ともすれば、会っていない期間のほうが優に長いのだろう。元気にしているのだろうか。
「くっ! すみません。退かせてください」
もちろん、元から逃がしてやるつもりでいたものの、このタイミングでそうするとそれに合わせて逃がしたようで、やはり少しばかりつまらない。
仮にも多少なりとも息子のようだと思うくらいなら、初めから逃がしてやるべきだったのだろうか。……否、息子といっても外見は似ても似つかない。
かつての弟分に、一体何を思っているのだろう。その弱いところが気を引くのだろうか。
余計なお世話なのかもしれないが、彼は本来後ろに控えている側の人間に思う。研究でも何でもやれば良い。そんな者を戦場へ出させているのは……。
──立場が変わると随分と見方も変わるようになったものだ。
現れた味方に合流すると、ヴィルマは改めて頭を下げる。
「すみません」
「ええ。先程ですかな。君の部下に会いましたよ。彼女も連れていくといいですな」
そう言うと、自分が来たであろう方向を指差した。
「久々にこっぴどくやられましたよ。連れて帰るよう探してみます。御武運を!」
引き際を知っている男だけあり、ヴィルマは鮮やかともいえる動作で退いていく。そもそも、部下に合わせて無理矢理残っていたのだろう。
手負いとはいえ、追い討ちを掛けられるようなヘマを彼はきっと踏まない。
その男、ユーゲンフットと現れた男、ラウンデルは共にヴィルマを見送ると、どちらともなく口を開いた。
「久しいですな?」
「お前が避けていただけさ」
淡白に返事をすると、ユーゲンフットは直ぐに構え促す。回想はしても、長話をするつもりはないのである。
「いやいや、少しばかりは待ってもらえますかな? ……して、この刃に見覚えは?」
「それは……! 治水、か」
「ほう。それでは、これはやはり。見覚えがあったのでつい借りてきてしまったのですがねぇ、これはこれで良かった、ということになりますな」
そこまで言うと、ラウンデルは目を細めた。ユーゲンフットは睨み付ける。
「しかし、これが貴殿に最後を告げる得物となるかもしれませんな。ユーゲンフット」
「どこから探してきたかは知らないが、返してもらうぞ! ラウンデル!」
「因果とは、運命とは、真に数奇なものですな」
思わず見とれてしまうほど滑らかなその動きに、ラウンデルは目を細めて動きを止めた。
攻撃の起点が読めないのである。かつて天才の名をほしいままにしてきた男は、今も尚健在であるようだ。
「こうして貴殿と私が干戈を交えている。あの頃からは想像もできませんな。ユゲン」
迫り来るユーゲンフットの斬撃を勢いよく弾き返しながら、ラウンデルは話を続ける。続く蹴撃は身を屈めてやり過ごす。
相手は何十、何百とした戦場を共に駆けてきたかつての友である。共に飽きるほど見てきた。
相対する機会はそうなくとも、手の内はよく知っている。
「そうでもないさ。あの任務を受けた時、全員が覚悟はしていたはずだ」
「では、悔いも疑問もないと?」
ラウンデルの細い目が更に細くなり、ユーゲンフットの動きに対応するかのように瞳だけが機敏に動く。先とは異なり、今度は獲物を追い掛けるように。
「今更何を言っている。まさか、それで禁忌に手を染めたのか?」
「禁忌でも何でも構いませんな。この呪いが解けるのなら」
徐に歩き出すとそのまま、流れるように向かってくるユーゲンフットへと突き立てるように手を伸ばす。得物は既に飾りと化し、その指こそがそれのようだ。
その動きはどこか狂気じみている。
「相変わらずだな。ラウル!」
その様子に、ユーゲンフットは一旦後退し距離を取った。当たりはしなかったが、際どい攻撃となったのは確かなようだ。
「お互い様ですな。貴殿もそう変わりないとみえる」
再び動き始めたユーゲンフットは、直ぐには近付かずにラウンデルの周囲で一定の距離を保つ。止まることはせず、何かを窺っているかのようにも見える。
それを見たラウンデルは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「覚えているようですな。私が“見える”と」
「いつまでもそう思っているのなら、すぐに改めることを勧めるぞ。呆気ないのも本意ではないからな」
激しく斬り結ぶような戦いになるかと思われたが、存外静かなものである。
確かに戦闘は始まっているのだが、お互いが間合いを計るように細かく動くだけで、傍から見るととてもそうには見えないだろう。
何より、ユーゲンフットの動きは静かであり、ラウンデルに関しては直立の姿勢である。
「私も貴殿を屠ることは本意ではありませんな。それよりもどうですかな、このまま共にダンガルフを落とすというのは? 貴殿にとっても悪い話ではあるまい」
空気を変えるように、わざとらしくラウンデルが咳払いをする。戦いたくないというのは本音なのだろうか。
「断る。俺はお前を沈めるためにここにいる。そういう意味では、むしろダンガルフの方に付いても構わない」
しかし、ユーゲンフットはその提案を一蹴する。迷いはなく、即答だった。
「やれやれ、貴殿はわかっていないようですな。世間の認識としては、貴殿は“悪”ということになる。わかりますかな? マーキュリス、グィネブルではなく、悪者。つまり、どちらからも狙われる身であるということですな」
ラウンデルの言葉にユーゲンフットは微かに顔をしかめる。
「理解はしている。だが、もうここは終わりだ。言うなれば、お前は最後の波紋だ」
その言葉が言い終わるかどうかのタイミングだった。ラウンデルが再び均衡を破るように動き始める。
「それでは、鬼退治と行きますかな」
一切のフェイントもなく、ひたすらに最短距離を一直線に詰めていく。構えなどはなく、身を守る素振りは全くなかった。
「待ったぞ! その迷いが流れる瞬間を!」
一瞬で二人が交錯する。ラウンデルは真っ直ぐに、片やユーゲンフットは揺らめきながら。いえることは、二人ともが必殺の一撃を狙っていた。
「律儀ですな。不意打ちでもなんでも受け入れるというのに」
少し目を細めながらラウンデルが呟く。その直後、ぎりぎりのところをユーゲンフットの刀が掠め過ぎる。
微かに散る血など気にも止めず、ラウンデルの猛進は続く。
「武器を使ってもいいぜ。もちろん、その治水でも構わない」
再び距離を取ったユーゲンフットが促すように口を開く。
「どんな気分ですかな? 自分の大切なものを他人の手に委ねているのは」
対してラウンデルは挑発するかのように腕を組んだ。
「不安ですかな? 今ここでへし折られるかもしれない。或いは、自らの手で壊すかもしれないと」
「直ぐに取り戻すさ。それよりいいのか? ダンガルフを放っておいて。俺はすぐに逃がすつもりはないぞ」
「まぁ……そうですな。それに今思えば、治水の件はここで見せるべきではなかったかもしれませんっ……な!」
語尾を強めながらラウンデルが大きく踏み込み、ユーゲンフットへと掴み掛かる。
この相手に武器は届かない。治水を見せたのはせめてもの嫌がらせに過ぎなかった。言うなれば、ただの私情である。
「ふっ」
笑うようにすぅっと揺らぐその姿に、一際目を細めると狙いを定める。
そろそろ……仕留めなければ。
「鬼指慧」
ラウンデルは更に速く、一気に的を貫くように腕を突き出した。もう目が慣れてきたのだ。
時間切れである。
「やれやれ」
「私の勝ちですな」
その指はガッチリとユーゲンフットの肩に食い込んでいた。もう決して逃がさないだろう。
ラウンデルはすかさず、広げた左の指先に力を込めると、苦笑いを浮かべる相手へと勝利を宣言する。
カラン……と何かが落ちる音が静かに響いた。
◇
ラウンデルが去った後、ファニルは力尽きるように大地に座り込んだ。立ち上がる気力も萎えている。
もちろん、キュロロから受けた傷の影響もあるだろうが、それ以上にプレッシャーとでもいうのだろうか。ラウンデルが戦場で纏うその雰囲気に圧倒されたのかもしれない。
或いは……。
──そろそろ、立ち上がるべきかしら。
しばらくじっと座っていたが、ようやく落ち着いて考えることが出来るまでは回復する。肉体もそうだが、精神の疲労は厄介だった。
そうして、いざ立ち上がろうかというときになり、ようやく大事なものが身近にないことに気が付く。
「治水……私の治水はどこに……!」
跳ねるように立ち上がり、慌てて周囲を見渡してみる。手を離したつもりはないのだが、吹き飛んでしまったのだろうか。
そうであるならば、今直ぐにでも戦場へと引き返さなくてはならない。
あの武器は特別だった。もう顔も覚えていないが、唯一残っている父の持ち物なのだ。父の身を案じた母が、御守りとして彼に贈ったものだ。
「探さなくては」
ファニルはフラフラと足を動かし、再び戦場へと歩き始めた。見つかるまでは帰れない。否、絶対に帰らない。
「ファニル。走れますか?」
声がして、抱えられる。何だかもう随分と長い間一人でいたような気がした。
その一言で、心身とも弱っているのを自覚させられるが、ファニルは折れない。一度決めた姿勢は貫くべきと決めているからだ。
「ヴィルマ隊長、その姿は?」
努めて気丈に振る舞ってみせると、ヴィルマは首を横に振る。表情こそ変わりないが、以前と雰囲気が少し違うようだ。
「話は後にしましょう。走れますか?」
ヴィルマの問いに、今度はファニルが首を横に振る番だった。どうであれ、とても走れる状態ではない。
「生憎頭を打ったようで、しばらく激しい動きはできそうにありません」
「そうなると……全滅ですね。早く逃げるとしましょうか」
全滅とは、余程に深刻な状態なのだろうか。疑問は残るが、彼の様子を見る限りでは良くないのは確かなようだ。
あの陰鬱な溜め息が聞こえてこないだけで、どこか事態の悪さを察してしまう。
「では、ラウリィとイッパツはもう?」
聞いた後に嫌な予感が脳を過った。確かに好ましく思ってはいなかったが、こんなに早く別れることになるのは不本意である。
自分がもっとしっかりしていれば……と、思わなくもないのはどうしてだろうか。
「一応生きているとは思いますよ。再起はまだわかりませんが」
「……そう、ですか」
多少はしおらしくもなる。仮にも仲間だったのだ、再起はわからないと言われて無反応で済ませられるほどの薄情にはなりきれていないということだろう。
「かなりの際だったので、思い切り遠くに投げました。上手くいけば逃げることくらいはできるはずです」
「それは?」
「やれやれ、君も好奇心には勝てないタイプですか?」
答えたくない、という解釈でいいのか、単にそれほど余裕がないのか、今のヴィルマはあまり会話をしたくないようだ。
現に抱えられている今もぐんぐんと進んでいるのはわかっていた。
しかし……そういうことなら、ファニルも告げなければならない。
「……やっぱり、降ろしてもらえますか? 私にはまだ用事が残っているのです」
「用事?」
流石に驚いたのか、ヴィルマが一瞬だけ速度を緩めるが、直ぐにまた元の早さに戻ってしまう。聞き入れることはできないということだろう。
もちろんそれは、ファニルも予め予想していた。
「大事なものを落としてしまったのです」
「内容による。駄目だと判断したら即諦めてもらいますよ」
無視をされれば無理にでも飛び出す準備をしていたが、もしかするとそれすらも当にバレていたのかもしれない。
つくづく気配に敏感な人だとファニルは思った。
「父の、そして、母の形見です」
絶対の意思を込めて、はっきりと告げる。
その瞬間、諦めたような吐息と共に進行方向が入れ替わったのをファニルは感じた。
◇
父が何の仕事をしていたのかは知らなかった。母は一切口にしようとしなかったし、父に聞いても謝るだけで決してそれに触れようとはしなかった。
そういうことだから、当然知る由もないのであるが、ただ、それが危険な仕事なのだろうということくらいは幼い私でも簡単に理解できた。
「お父さんはね、お母さんにしか守れないのよ」
体の弱い母が、一度だけ自慢気にそう話してくれたのをよく覚えている。何故か、その時私はそれが悔しくて、私だって止められるもん、と母に散々駄々をこねてしまったのだった。
だって、父はいつでも私の味方だったから。母にできるなら、私にだってできるはず。本気でそう思ったからだ。
母はいつだって、そんな私を困ったように眺めている。
しばらくしたある日、母が私の頭を撫でながら教えてくれたのは、ある御守りのことだった。
「あなたのお父さんは流れる水のような人なのよ。とても穏やかでいて、気が付けばとても激しくなっている。自分でも制御が難しいって言っていたわ。だからね、少しだけお母さんの魂を込めた御守りを作ってあげることにしたの。少しでも穏やかで居られますようにって」
「魂? 御守り?」
「そうよ。お母さんはね、その御守りがきっと、この先もずっと……お父さんを守ってくれるって信じているの」
「じゃあその御守りは小さなお母さんだね!」
「そうね。……お母さんはいつまでも、いつまでもあなたたちを見守っているわ」
あの時、母はどんな表情で、何を想い、一体何処を見ていたのだろう。
当時の……今もそうだ。私にはまだ、わからない。
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