十六. 大空

 上空からは焼けるような日射しが降り注ぎ、地上からは照り返すような熱気が駆け上がっていく。瞳を閉じて顔を上げると、橙のような……いや、もっと赤み掛かっているか。ともかく、また新たな世界が少しの模様と共に目に映る。これは瞼の軌跡だろうか。


 目を開くとその場でくるりと回ってみる。今度は目一杯頭を下げて景色を見るのだ。少しくらい身を乗り出しても構わない。その方が何か発見があるはずだから。


 それにしても、高い所にいるというのはどこか気持ちが良い。ありきたりな言葉になるが、解放感、というものを知らずのうちにも感じているのかもしれない。

 そもそも、祖先が空を飛んでいてもおかしくはないのだ。その名残だと思えば、少しくらいは誇らしく思ってもいいのではないだろうか。


 グィネブル領にあるダンガルフ砦では、一人の小柄な兵士が見張り台にかじりつくようにして、遥か先を眺めている。時には身を乗り出すその姿を下から見上げていると、それはもう危なっかしく、思わず足を止める者も珍しくない。


「おーい、落ちるなよー。ほら、しっかり掴まってろー」

「うるさいなあ。落ちないよー!」


 しかし、それもいつもの光景だ。今となっては通りすがりに掛けられる声も心配ではなく、からかいの成分がより濃くなっているのがよく分かる。

 そして、元気な声が返ってくると、そのまま笑いながら離れていくのだ。これも彼らにとっては挨拶代わりというわけなのだろう。


 その彼女の視線の先には、マーキュリアス領が涼やかに広がっている。つまり、彼女はその様子を監視しているのである。


 ──おかしいな。さっきから人が少なすぎるよ。


 小柄な兵士、ゼフィーはマーキュリアスにあるグランバリーの砦の様子がいつもと違うことをいち早く察知していた。普段であれば多少の騒ぎも聞こえてくるのだが、今日に至っては人影どころか気配すらもあまり感じられなかったのである。


 ここに来てそう日は長くないが、毎日見張りをしているのだから、自身が感じた違和感くらいは信じても良いだろう。


 決心すると後は早かった。


 ──一度クラレッタ様に報告しておいたほうが良さそうだよね。


 ゼフィーは足早にその場を後にすると、姿の見えない隊長を探しに駆けていった。

 異変とは、些細なことから始まるものだ。


 ◇


 目を覚ますと、まず見慣れたテントの天井が目に入り、続けて、眩しいという感覚が飛び込む様に意識を揺さぶる。手をかざしながら起き上がると、隙間から差し込む光が直撃し、本日も快晴であることが伺えた。


 中を見渡すがエステルの姿は既にそこにはなく、どうやら今は出掛けているようである。


 ──やっぱり彼女とはゆっくりと話をしておくほうがいいのだろうか。


 そんなこともぼんやり考えるも、久しぶりに感じる心地良さには逆らう事が出来ず、結局は再び瞼を閉じてしまう。


 気が付けば、頭のなかを急速に渦巻くようにぐるぐると、様々な想いが浮かんでは入れ替わって流れていく。ここに来てからは、正に激動の連続だったということを改めて実感するには十分だった。

 そして同時に思う。これはようやく一息つけたということなのかもしれない。


 エステルについても考えることはあったものの、今、彼女がここにいなくてよかった、などと結局はそんなことを考えては逃げるように有耶無耶にするのだった。


「ナツノ! 起きた?」


 突然入り口が開くと、そのまま間髪を入れずにエステルが中へ飛び込んで来る。

 顔の腫れを心配したのだろうか、手には少し冷やされた布のようなものが握られているのがちらりと目に入った。


「うん、ついさっきだけどね。その……昨日は心配を掛けたかな?」


 ナツノは先程まで自分が考えていたことに苦笑いをすると、今度は誤魔化すように微笑んでみせる。


「そうよ! あまり遅いのはよくないんだから」


 そう言うと、手にした布を腫れた顔に当ててくれる。表情は……怒っているのかもしれない。


「うーん、結構腫れてるかな?」

「腫れてるよ、すぐにわかるくらいには」

「なるほどね、実は痛いとは思っていたんだ」


 どこか他人事のようなナツノの態度に、エステルは表情を曇らせる。


「散歩に行ったと思ってたらなかなか帰ってこないし、おまけに起きてみたら顔を大きく腫らしてるし、……何かあったでしょ?」


 顔にもらったのは失敗したな、などと考えながらもナツノはエステルに説明を始める。これはまだ想定していた範囲内だ。


「実は、樹の所に行ってたんだけど、そこで突然二人組に襲われてね。向こうの勘違いだったようだけど、驚いたよ」


 エステルはただ心配そうに黙っていた。時折、何か言いたそうな視線を感じ、ナツノは少し考える。

 おそらく、何か聞きたいこと、つまり、本命があるのだろう。

 ナツノは切り返すように話題を変えた。


「それより、エステルは大丈夫だった? 少しだけフリットから聞いたよ。あの咆哮は僕の所にも聞こえていたから」


 今度はエステルが目を伏せる。やはり、まだ迷っているのだろう。

 それでも、やがて意を決したように瞳に力が戻ると、改まるかのように姿勢を正して発声した。


「──あなたは“魔法”を知っていますか?」


 今にも溢れそうな何かを留めた瞳が、真っ直ぐに、揺れることなくナツノを射ぬく。そして、捕まえる。


「──魔法……か。うん、そうだね、少しだけ知っている。でもね、君のは“魔法”ではないかもしれないんだ」


 どこかホッとしていた。ナツノはエステルに頷くと、風の精を掌に集める。


「魔法……違うの?」

「はっきりとはわからない。けれど、僕の知っているものとは違っているんだ」

「そうなんだ……。ねぇ、少しでいいの。あなたのことを……知ってることを、教えてほしいの」

「今、ここで……かい?」

「ううん、フリットにも」


 彼女の真剣な眼差しはまるで心を見ているかのようであり、また不安からか、どこか儚げな色をも映している。


「……うん、そうだね。そのほうがいいかもしれない」


 他に魔法使いがいる以上はここで話しておくほうがいいだろう。そろそろ頃合いなのかもしれない。


 そよ風は掌を離れ、エステルを優しく包み込んだ。


 ◇


 青く澄んだ大空は見る者の心を和やかにし、その雲一つない晴れやかな様は迷える者を勇気付けるかのように遥か遠くまでも続いている。

 しかし、そんな空に気付かない者は沢山いる。フリットもそうだ。


「そろそろ洗濯しておかないとな。全くあいつらはどうなってるんだか」


 ぶつぶつと呟いてはいるが、実は特に機嫌が悪いという訳ではない。


 ここしばらくの生活で実感したことであるが、ナツノもエステルも全くといっていいほど家事全般に無頓着である。今までどうしていたのかというくらい生活感がない。


 エステルに関しては見えないところでやっているのかもしれないが……いや、何となくであるが、そんな様子はなさそうに見える。


 ナツノに至ってはそれどころか、こちらから声を掛けない限りは食事をとろうとすることすらない。それも、食事をする度にとんちんかんな感想を洩らしては周囲を驚かせている。

 何を食べても懐かしいだの、味を覚えていないだの、まるで食事そのものが彼にとっては過去の風習の様だ。


 そんなことを考えながら作業をしていると、不思議なことに悩みはどんどん薄れていった。まるで、汚れと共に自分の中のわだかまりが流れていくかのように。


 ──俺は少し急ぎすぎたのかもしれない。


 フリットは晴れやかな空を見上げると、肩の力を抜くように深呼吸を繰り返した。


「さて、ナツノを訓練にでも誘ってみるか」


 フリットは最後に大きく伸びをすると立ち上がり、荷物を持って歩き始める。その足取りはいつになく軽く感じた。


 ◇


 飛び出したエステルはフリットを探して駆け回っていた。とはいえ、彼のことだ、拠点から離れることはせずに大体は近場にいるはずである。

 体は軽く、まるで風が背中を押してくれているかのように足が動いた。


 予感は見事的中したようで、ほどなくして機嫌良く歩いている彼の姿が飛び込んでくる。丁度こちらへ帰って来ていたようだ。


「フリット!」

「ん? どうした? そうだ、丁度いい。洗濯物があるなら今度一緒に洗っておくぜ」

「何言ってるのよ! それよりちょっと一緒に来て!」


 言うだけ言うとエステルの姿はみるみる遠ざかっていく。


「それよりって……ったく、仕方がないやつだ」


 フリットは頭をぽりぽりと掻くと、仕方なく彼女を追いかけた。


 向かっていった方からすると、おそらくナツノが目を覚ましたのだろう。大方、顔を腫らしている様子に驚いたといったところか。


 ──まぁ、驚くよなぁ普通。顔なんか腫らしていたら。


 今日は調子が良いらしい。慌ただしく先導してくれるエステルについていくと、予想通りナツノの姿が見えてくる。


「よう、調子はどうだ?」

「やあ、大袈裟に腫れてくれたおかけで困っているよ。目立つかい?」

「大袈裟にって……もう、ほんとに驚いたんだから!」

「ははっ、冷やしたんならすぐに引くさ」


 フリットに釣られ、ナツノも静かに微笑んだ。


「それでどうしたんだ? すごい形相のそいつに連れてこられたんだが」

「そんな顔してない!」

「してたさ。龍が来たのかと思ったぜ」

「それだけ必死に探していたんだよ。ね?」


 今にも喧嘩を始めそうな二人を見兼ねて、ナツノは口を挟んだ。


「それでね、例のエステルの咆哮の件だけど」

「ああ、その件か」


 フリットに頷くと、ナツノは話を続けた。


「あれは魔法とは違うと思うんだ。詳しいことはわからないんだけど」

「そうか。俺は魔法じゃないかと思ったんだけどな」


 そう言うと、フリットは後ろを向いた。彼から“魔法”という言葉が出たことについてはもう驚かなかった。


「ナツノ、一つだけ教えてくれよ」

「うん。何かな?」

「お前は“魔法使い”なのか?」


 隣でエステルが息を飲んだ。


「そうだよ。僕は、“魔法使い”だ」

「そうか。そうじゃないかと思っていた」


 それで十分だとばかりにフリットは話を切り上げた。


「ナツノ、ちょっと訓練に付き合ってくれよ」

「え?」


 エステルが驚いて声を上げたが、フリットは気にした様子もなく返事をした。


「だってわからないんだろ? わかったときに教えてくれたらそれでいいさ。なあ、隠し事はもうなしなんだろ? 行こうぜ」


 あっという間にテントを後にしたフリットを見送ると、二人は思わず顔を見合わせた。

 外に出ると、青く澄んだ大空がとても遠くまで広がっていた。

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