Twilight on the Final Destination





 あいつがあの時、おれの手を引かなかったら、おれ――川辺スミオの人生は、平凡な終局を迎えていただろう。





 むんむんと熱気がたちこめる屋上は、手摺りとも柵ともとれる、仕切りで囲まれていた。おれは煙草をくわえたまま、その仕切りを乗り越えた。32階建てのビル。メモ帳1枚で全て表せるおれの人生には、もうなにひとつ、思い残すことはなかった。


 追い風が吹いた。おれは風に身をゆだね、手摺りを放した。



 そのとき、前傾しかけた身体は、唐突に、背後からの力によって引き戻された。


 右の腕が何者かに掴まれたのだ。おれは煙草を口から落とした。

 煙草は綺麗な軌道を描きながら、地上へと吸い込まれていった。


 それに気を取られて、おれは足を滑らせた。


 身体が真っ逆さまに墜落していくイメージが脳裏をよぎる。



 だが、おれの上半身は瞬時に誰かに抱えられ、蒸し暑い屋上の床に打ち付けられた。



「ふう、間に合った。――馬鹿な真似はやめて。つぎ死のうとしたら、ぶん殴るからね」


 そう言っているのは、やや背高の女の子だった。

 一見すると体格のいい少年に見えるが、声は少女だった。

 

 ようやくそれだけ確認したが、おれは信じられない激痛に襲われていた。立ち上がれないほど痛む背中。

 おれは情けないながら、悶絶するしかなかった。骨が折れたのかもしれない――と疑う間もなく、少女に腕を引っ張られて起こされた。絶叫が宙に響き渡る。


 Tシャツとジーパン姿の少女は、少女とは思えないほど強い力で、おれを壁にもたせかけた。耐えがたい痛みに、歯を食いしばっているおれを見下ろして、


「痛いんだね。その痛みを覚えておくんだ。死ぬときはその何千倍も痛いからね」


「どうして、お前にそんなことが分かる」


 少女はふっと笑って、俺の隣に、軽やかに座り込んだ。


「分からない? あたしが、なんであんたの身体を引き上げることができたか」


 おれは全身に痛みが拡がっていくのを感じた。痛みに喘ぎながら、「知らん」とだけ漏らす。


「それはね、あたしに力があるからさ」


 そう言って、あはははと笑う少女。


「お前は、誰だ」


「あたし? あたしの名前は、リコ。あんたは、スミオ。カタカナ同士だね」


 そう言ってまた、特段おかしくもないのに笑う。


「どうして、俺のことを知ってる? おれはお前のことを知らない」


「あんたに伝えておきたいことがあってね」


 そう言って、リコと名乗った少女は、右手をおれの背中にそっと乗せた。すると、冷たいものが、そこからじわりと身体の中に入りこんで、瞬時に耐えがたい痛みは消え去った。それを見計らうように、リコはその手を放す。


「川辺スミオ。あんたは、自分から死ぬことで未来を変えられると思ったんだ。けれどね、過去をぜったい改変できないように、未来は、決して変わりはしないんだ」


 リコの語勢が強まる。おれに反論の余地を持たせまいとするかのように。


「けれど、ぜったいに変えられない過去と未来から、帰納法的に新しいものを取り出すことはできる。必然的にぜんぶ正しい、っていうわけじゃないけど、いくつかの前提が正しければ、結論はおそらく正しくなるだろう、っていう論法。それが、あたしたちを、自分らしくさせてるんだよ」


「どういうことだ」



「一度死んだあたしには、分かるの」



 おれは、自分の目が白黒なっているのを感じた。


「一度、死んだ?」


「そう。あんたには、生きる価値があるんだ。わたしには、スミオの未来が見えてる」


 少し間が流れた。おれに、なにかを考えろ、というように。


「……家族とは、とうに縁を切った。アル中で死んだ親父と、病死した母さんとも。まだ生きてるけど、弟のアリオとも。けどもう嫌なんだよ。生きていてもなにもない。働いて飯食っての繰り返しの人生なんて」



「それは果たしてどうかな!」


 リコは、一際鋭く言い放つ。


「スミオにとってどうでもいい人生でも、それはスミオだけの人生じゃないんだ。少なくとも、あたしにとってはね」


 おれに向き直るリコ。顔と顔の距離は僅かに30センチほどだった。まだ幼さを残した顔の輪郭。ショートの髪が、一度、ふわりと揺れた。


「あたしは、少なくとも、そんな人生じゃなかった。強気なお母さんと、少しやわらかいお父さんの間に生まれた。……幼稚園から、あたしは強い女の子だった。小学校でもやんちゃで、けれど、5年生のときに病気が見つかった」


 大きな双眸が、かっと見開かれた。


「中学校と、病院に通った。結局、病院にいる時間の方が長かったけど、学校も楽しかった。14歳のとき、もう長くないということが分かった。お父さんとお母さんを、たくさん悲しませた。15歳、高校に入る直前に、あたしは、苦しみながら、死んだ」


 リコは笑いながら、涙の筋をつくっていた。


「でもね、あたしは生まれてから死ぬまで、とっても、とっても幸せだったよ。小さいころからよく頭を撫でてくれたお父さん。毎日お弁当を作ってくれたお母さん。短かったけど、たくさん遊んでくれた友達。はじめて好きになったけど、好きって言えなかった男の子。通学路、おはようってあいさつしてくれる、おばあさん。夕暮れ時のオレンジ色の空。あたしの大切なもの、それはこの世界にある全てのものなんだ」



 手の甲で、涙をぬぐうリコ。それでも笑った顔で、


「だから、生きて。スミオは生きて。ここで死んじゃだめ。あんたがほんとうの未来で死ぬとき、きっと、生きててよかった、って思える瞬間が用意されているよ。すべての瞬間は、帰納的に成り立っているんだ――」


 そしてもう一度、涙を拭いてから、


「さて。じゃあ、もう行かなくちゃ」


 立ち上がるリコ。おれは、その姿に、見覚えがあるような気がした。ふと我に返る。


「どこへ行く」





「どこへも行かないさ。……命を大切にするんだ、川辺スミオ。川辺リコとの約束だよ」





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