月時雨〈祓えや謡え、花守よ異聞〉

AG

第1話 香擁

かつら家に代々伝わる家宝『脇差 香擁かよう』を持つ者は、妻をめとってはならない。娶れば『桂の姫君』が嫉妬し、怒りに任せて一族を滅ぼす―

そんな迷信がまことしやかにささやかれている中、26歳だった桂司暮わたし許婚いいなづけとの祝言を間近に控えていた。


私は腰に差した『脇差 香擁』に手を添えて、『桂の姫君』―すなわち『脇差 香擁』の刀霊とうれいと対峙していた。とはいえ四六時中腰に差しているので、祝言の件については百も承知である。


噂を、私の口から耳にした当の香擁は、月と雲が描かれた金の扇子で口元を隠し、可笑しくて笑いが堪えられないといった様子であった。

「ふふ。歴代の主が儂を腰に差している間、独り身を通していた理由に得心がいったわ…。そのような噂があったとは」

香擁はその美しい金色の前髪を手櫛で梳きながら、私を見た。妖艶な眼差し。

その頭には狐の耳。

歴代の持ち主はそれはそれは丁重に香擁を扱ってきた。

香擁が刀霊でありながら一族から「桂の姫君」と呼ばれているのがその証拠である。

また、その異常なほどの丁重さが、迷信を生んだことも想像に難くない。

なぜそうまでして香擁を丁重に扱ったのか…今は知るべくもないが、ある者は畏れ、ある者は敬い、ある者は惚れていたのだろうと思う。

香擁はしなやかで美しく、聡明でそれらを鼻にかけることも無く、そしてよく笑い、尚且つ、その笑顔は夜を押し上げる曙のようであった。


しかし私は、時折その香擁をうとましく思った

この気持ちは、出来の良い兄たちを持ったかつてのわたしの惨めさに似ていた。

かつて、四男坊で体の線が細かった私が桂家の当主になるとは誰も思っていなかった。

長い苦痛の日々を抜け、当主となった今もー

私は事あるごとにとしてふさわしい行いをするよう、苦言を呈されていた。私は皮肉を込めて、香擁のことを「姉さん」と呼んでいた。

「儂をそう呼んだのはおぬしが初めてじゃ…」

そう言いながら、香擁が嬉しそうに笑ったのを思い出す。


「シグレは妻を娶るとき、儂を手放すのか…?」

香擁が俯くと、その睫毛の長さが際立つ。

「今はまだその時ではないよ。受け継ぐに足る者がいない」

香擁を受け継ぐことが出来るのは、桂一族かつらいちぞく中一の剣士あるいは将来そうなるであろうと目され、その自覚と一族の看板を背負う覚悟を持った者だけであった。

筋の良い若者は何人かいるが、皆若さ故に冷静さに欠けるきらいがあった。私はそれを懸念していた。

「しばらくは私と一緒だ」

香擁は目を輝かせた。

「そうか」


「あめでとうシグレ。本当の弟のことのように嬉しいぞ」

私は曙光しょこうを浴びて目を細めた。

私のそれは心からの笑顔であったろうか、目が眩んだだけではなかったのか。

「ありがとう。…姉さん」

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