はぐれアリスの幽か暮らし

パラダイス農家

第1話 お行儀の悪いお茶漬け

 街外れの幽霊屋敷には、正体不明の令嬢が棲んでいる。

 山間の地方都市・朝靄あさもや市には、そんな噂が流布していた。正体は幽霊や、宇宙人、はたまた未来人。すべてはよくある噂話の類だが、火のない所に煙は立たない。背びれ尾ひれがついた噂には、それ相応の理由がつきものだ。

 これは屋敷に暮らす令嬢と彼女の従者、そしてふたりを取り巻く人々のお話。


   はぐれアリスの幽か暮らし


 幽霊屋敷に朝がきました。

 もっとも、幽霊屋敷というのはご町内の方々がそう呼ぶだけで、実際にはシャーロット記念邸というご立派な名前が存在します。いちおうは朝靄市の指定重要文化財に指定されているそうですが、役所の人が訪ねてきた試しはありません。

 まあ、無理もないことです。

 シャーロット記念邸は山間部にある朝靄市のさらに街外れ、山中も山中の鬱蒼と茂った森に佇む洋館です。左右対称にデザインされた、地上二階、地下一階の朝靄市最古の鉄筋コンクリート建築物。壁は白く塗られ、エントランスは大理石の彫刻。均一に並んだ窓枠には磨かれたガラスがはめ込まれ、左右に突き出た尖塔には天窓が。二階には黒い格子の鉄柵で仕切られたテラス。前庭には芝生と、元の持ち主が好きだった桜が。白亜の壁と濃いオレンジ色の屋根瓦が目を引く、絵に描いたような美しいプロヴァンス風建築――

 

 ――だったのは今や大昔。

 現在は窓ガラスは割れ、壁は薄汚れて蔦が這い、蔦のないところにはスプレーでラクガキがなされ、テラスの手すりはずり落ち、庭は雑草をすくすく育てるばかり。役所の観光課が訪ねて来ない理由も頷けます。

 つまりシャーロット記念邸は、いかにも幽霊が出そうな荒れ果てた洋館だということです。これで幽霊が出なければ詐欺でしょう。ここに住んでいる私の身としても、出てくれた方がすんなり受け入れられるほどですので。

 おっと、そう言えば自己紹介がまだでした。語り部たる私は、屋敷に住み込むメイド。名前を幽野かすがの香澄と申します。ちなみに成人済です。

 ではそろそろ、シャーロット記念邸――もとい、幽霊屋敷でのお仕事を開始いたしましょう。


 *


 メイドさんの朝は、お爺ちゃんお婆ちゃん並に早いものです。

 朝四時。生い茂った梢の影から伺える山の端に朝日が昇ると共に、一日が始まります。夏が近づく梅雨の晴れ間。貴重なお日様の恵みをいの一番に手にするため、まずはお洗濯です。幽霊屋敷と言えど電気と水道は来ているため、ボロの洗濯機にリネンや替えのメイド服、そしてお嬢様がお召しになっていた衣類を放り込みます。その間を縫ってキッチンへ向かい、朝食の準備。洋館に住んでいながらおコメ派のお嬢様のため、そして自分の分と合わせて一合。炊飯器をセットしたら、次は館内の点検です。


「ああ、やはり雨漏りがひどいですね……」


 館内中央にある大階段を上がった先に広がった惨状に、思わずため息が漏れました。昨晩が雷雨だったこともあり、屋根から滴り落ちた雨水で、檜の床材がふやけてしまっています。朝一番の大仕事は、二階廊下の拭き掃除になりそうです。

 山麓にあるホームセンターで買った吸水力の高いモップを手に、廊下を静かに歩きます。洋館は土足、いわゆるアメリカ敷きです。メイド服のワンストラップシューズのヒールは硬質ですので、あまり強く踏みしめると音が響き、お嬢様を起こしてしまうやもしれません。メイドとして、それは避けねばならないところ。

 かくして、二階廊下を左右に三往復。バケツ二杯分の水を吸い取ってひと仕事終えたところで、ランドリースペースにとって返します。オンボロの洗濯機が仕事を終えたタイミングで洗濯物を籠に入れ、二階テラスに作った物干し竿にリネンや衣類をはためかせます。懐中時計を確認すると、朝五時。日差しがようやく差し込みはじめ、朝を実感できる時間になりました。

 あとは朝六時、お嬢様を起こすまでに朝食を仕込めばよいだけです。本日の献立は豆腐とネギの味噌汁にだし巻きたまご、昨日特売だったシャケの塩焼き。あとは貧血にお悩みのお嬢様のため、おからとひじきの常備菜を添えるだけ。

 さあ、頑張りましょう。メイド服の長袖を腕まくりしてキッチンに向かったところで、私の計画は脆くも崩れ去りました。本来なら、ご飯の炊けたいい匂いがするはずのところ、なぜだか焦げ臭い匂いが漂っています。

 また、やらかしてしまったようです。


「アリスお嬢様?」


 ガスがないお屋敷に唯一備わった調理用の火、IHクッキングコンロの前で寝間着姿のお嬢様がわたわたと慌てておりました。やらかしの犯人はお嬢様です。


「ごめんなさい、お腹がすいて目が覚めて……何か食べようと思って……」


 コンロに置かれたフライパンの上で、黒焦げになった卵が3個、煙を出しておりました。おそらくお嬢様は、殻のまま卵を炒めた……というよりから煎りしたのでしょう。どこか後ろめたそうなお嬢様の表情がすべてを物語っています。


「独創的な調理法ですね。何故卵をお炒めになったのですか?」

「ゆで卵を作ろうとしたのだけれど……」

「ゆで卵ですか」


 お嬢様はこのように、独創的で前衛的に過ぎるところがあります。ゆで卵と言いながら茹でる以外の方法を探ろうとする既成概念に囚われない探究心。まさしく目を見張るというものです。少なくとも、常人の発想ではありません。

 おかげでゆで卵はハンプティ・ダンプティもかくやという危うい状態でしたが、フライパンごとシンクに沈めて事なきを得ました。余程熱せられていたのか、ジュッという音を立てて水蒸気がもうもうと立ち上ります。


「ひとまず、あとはお任せください。ご朝食ができましたらお部屋にお運びしますので」

「ううん、待てないの。お腹がペコちゃんなの」

「ペコちゃんなのですか」

「そう、ペコ田ペコ子なの」


 お腹をぺこぺこさすりながら、お嬢様は眉をハの字になさいました。

 この腹ペコで目を覚ましてしまうペコ田ペコ子さんが、シャーロット記念邸の家主、アリスお嬢様。齢は15歳、絹糸のように柔らかく艶やかな長い金髪と、ややあれば白皙とも見える柔肌。幼さを残しながらも西洋の血を引くであろう、目鼻立ちのハッキリした顔立ち。そのくせ、同い年の日本人女性よりも華奢でいて小柄。その姿はまさしく、アリスという名の持つイメージにぴったりな少女。

 なぜこんな少女が幽霊屋敷に住んでいるのか、私は知りません。ですが、特に気にする必要もありません。私は探偵ではなくメイド、お嬢様がお命じになるままに働くことがお仕事です。


「では、手早く朝食を作ります。少々お待ちいただけますか」

「あの……私も手伝っていい……?」

「……承知しました」


 少しお仕事が増えました。

 とは言え、お嬢様も罪悪感をお感じになっているのでしょう。寝間着の裾をかわいらしく握りしめている様子からもそれは伺えます。近くには私もついていますし、しっかり見ていれば問題はないはずです。

 先ほど考えていた朝食の献立を、頭の中で早急に作り変えます。卵はなくなってしまいましたが、なるべく栄養バランスを壊さず、かつお嬢様の手を煩わせることのない簡単な料理。

 となれば、ひとつしかありません。


「ではお嬢様、冷蔵庫からシャケを取り出していただけますか。フライパンで酒蒸しにしますので」

「ええ、まかせて!」


 IHコンロに油を軽くひいたフライパンをセットし、普段は目分量の調味料を計量カップに移します。シャケを酒蒸しにするのは、手早く火を通すため。電子レンジが壊れたお屋敷では、これが最速の調理法です。

 一方で私は、電気ケトルでお湯を沸かし、急須に昆布茶粉末を。そして冷蔵庫から味噌汁の材料を取り出し、雪平鍋ではなくお椀に材料を投入します。これを昆布茶で溶けば、多少風味は落ちますが時短の効く即席の味噌汁になります。ついでに取り出したおからとひじきをキッチン横のテーブルに載せ、箸と麦茶と並べます。これで準備は大方終わりました。


「このお魚をフライパンに入れればいいの?」

「ええ。そっと入れてください。フライパンに触れないようお気を付けて」

「こんな熱いフライパンの上に? お料理って一大事なのね……」


 シャケの端をつまんだお嬢様は、そろりそろりとフライパンを目指します。腰が引けていますし、目も瞑っておられます。このままではあらぬ方向にシャケが飛び跳ねてしまいそうでしたので、お嬢様の手を取ってエスコートします。


「手を添えます。私が合図したら、手を離してください」

「わ、わかったわ……! そーっと、そーっと……」

「その調子です、お嬢様」

「ま……まだなの? フライパンはどこにあるの……?」

「目を瞑っていては見えないと思いますが」

「だ、だって……目を開けたら油が跳ねそうで怖いんだもの……!」


 お嬢様の手はほんの少しずつしか進みません。シャケを焼くにもひと苦労です。それでもようやく、フライパンの上にシャケが乗りましたので、お嬢様に合図を出しました。


「今です、お嬢様」

「シャッ!」


 金髪と寝間着の裾をぶわっと翻して大げさにはねのいて、お嬢様はフライパンからかなりの距離を取りました。シャケの生臭さに混じって、完熟間際の桃のような瑞々しい残り香が辺りに漂います。お嬢様のものでしょう。若いって羨ましい限りです。


「つ、次はどうすればいいかしら?」


 ですがお嬢様はペコちゃんです。お腹と背中がくっつく状態から一刻も早く脱したいのでしょう、次なるお手伝いをお命じになります。そうなるだろうと思って、先に手は打っています。


「では、軽く両面に焼き色を付けて、計量カップの中身をフライパンに混ぜていただけますか?」

「ね、ねえ香澄さん……。油が跳ねたりしないかしら……?」

「跳ねないようにお守りしますよ」


 告げるとお嬢様も少しは安堵したようで、ひとつ深呼吸をして「よし」と小さく意気込みました。私は右手をフライパンの蓋に持ち替え、お嬢様を守るように構えます。


「そろそろ頃合いです。ひっくり返しましょう」

「責任重大ね……。もし形が崩れたらどうしましょう……」

「崩れても大丈夫ですよ」

「そうなの……?」


 フライ返しをお嬢様に手渡し、シャケの下までエスコート。案の定、お嬢様がひっくり返したシャケは3分割されてしまいましたが、後行程を考えれば問題はありません。むしろ手間が減ったというものです。


「ああ……私のお魚さん……」

「では、次は計量カップです。こちらは油が跳ねる可能性があるので、充分にお気を付けて」

「き、緊張してきたわ……」


 やはり、そろりそろりと計量カップが動きます。「ひい!」とでも叫びそうにふるふる震えるお嬢様に任せているうちに、シャケの裏面にもほどよい焼き色が付きました。後は、酒蒸しにするだけです。


「今です、お嬢様」

「で、できないわ……! 怖すぎるもの……! 香澄さん!」

「承知しました」


 後は手早く済みました。キッチンの隅まで避難して小さく丸まったお嬢様を尻目に、カップの中身を投入。直後蓋をして油ハネと酒の匂いを封じ、IHの火加減を中火に変更。ついでにタイマーを3分にセットして、どんぶり鉢にご飯をよそいます。

 折よく電気ケトルも湧いたので、急須に入れて昆布茶を作り、昆布茶を即席味噌汁のお椀に注ぎます。昆布出汁と味噌の香りが辺りに広がったところで、ようやくお嬢様が感嘆の声を上げました。


「一瞬でお味噌汁を作るなんて……。香澄さんは絵本の中の魔女さん……?」

「さて、どうでしょう」


 ほんの少しだけ冗談めかして、お嬢様をテーブルに誘導します。常備菜のおからとひじき、お味噌汁を手元に運ぶと同時に、お腹の鳴る音が聞こえました。馨しい、日本の朝の匂いにやられたのでしょう。


「うう……」

「もうすぐですよ」


 恥ずかしそうにお腹を押さえるお嬢様をたしなめて、フライパンに目をやります。ちょうど頃合いです。蓋を開けて水分を飛ばし、別の器に入れて身をほぐします。あらかじめ骨抜きされたものですので、お嬢様が苦手な骨が入ることはありません。あっという間にほぐし身になったシャケをどんぶりに移し、刻み海苔をトッピングして急須の中の昆布茶を注ぎます。

 曲がりなりにも屋敷の主であるお嬢様に、こんな賄いじみたものを供するのは気が引ける部分もありますが、ペコ田ペコ子ですので仕方がありません。


「お待たせしました、シャケの昆布茶漬けです」


 丼の中には炊きたてのお米と具材。そして、ほんのり浸る程度に注いだ香りのいい昆布茶。ほわほわと立ち上る白い湯気は、あったかい証拠。まだ肌寒さの残る初夏の朝に嬉しいお茶漬けを前に、西洋風の顔立ちの少女がぱあっと驚きの笑顔を咲かせました。なかなかに異国情緒漂うエキセントリックな光景です。


「わあ……! 香澄さん、これは何? どういったお作法で食べたらいいの!? 香りはお昆布のようだけど……?」


 本来であればお茶漬けにテーブルマナーなどないのですが、お嬢様は育ちがよいので立ち居振る舞いには気を配っておられます。ですのでここは、無粋にならないような食べ方をご教授することとします。


「これはお茶漬けです。お茶碗にお口を付けて、箸でかき込むようにしてお召し上がりください。音を立てても問題ありません」

「口に付けて箸で……? でもそれはお行儀が悪い食べ方だと以前、香澄さんが……」

「お茶漬けはお行儀の悪い食べ物なのです。例えば、そうですね。朝ご飯を待てずに勝手に作って食べちゃう行儀の悪い人のためにあるような」

「ご、ごめんなさい……」

「構いませんよ。さあ、召し上がれ」

「……いただきます」


 初めて見たお茶漬けの水面を恐る恐るのぞき込みながら、お嬢様は喉を鳴らしました。お行儀の悪さとお腹のペコちゃん具合を天秤に掛けた結果、どちら側に傾いたかは明白です。

 お茶漬けの丼を口に当てて、まずはおっかなびっくりしながらひと啜り。昆布の香りとシャケの甘みが溶け出たスープは絶品だったのでしょう。不器用に握った箸で一口、お行儀悪くかきこみました。


「……おいしいわ。お米の甘さとお出汁がすごくマッチしているの!」

「シャケも味わってみてください。お嬢様が調理なさったものですよ」

「ええ、食べてみる!」


 そこからは、さすがのペコちゃんでした。酒蒸しされてしっとりとしたシャケのほぐし身が、出汁とお米と絡み合って見事な味わいになります。


「はあああ……!!」


 はい、このように。うっとりしたお嬢様の顔を見れば、料理の出来はすぐに分かるものです。またひとつ、お嬢様の好きな食べ物を増やしてしまいました。


「お行儀が悪い食べ物なのにこんなに美味しいなんて、不思議……」

「お行儀が悪いからこそ、美味しいという言葉もございます」

「禁断の味、ということなのね……!」

「であれば私は毎朝、禁忌を犯していることになりますね」


 ふとした発言で、お嬢様の顔色が変わりました。うっとりしていた眉は今度はキツく結ばれ、まるで責め立てるようです。その姿はどことなく、スネた子どものようでもありました。


「ズルいわ香澄さん! オトナだからって毎日こんな美味しいものを食べるだなんて!」

「煙草もお酒も嗜む、お行儀の悪いメイドですので」

「だったら、私もお行儀の悪いアリスになるもん! だからこれからもシャケのお茶漬けを食べさせてくれる?」


 教育上、よろしくないことをしてしまったようです。よもやお嬢様がお茶漬けの味を占めることになるとは露とも思わず。いえ、多少はそうなればよいとは思っておりましたが。手間もかかりませんので。


「毎日シャケのお茶漬けはいけませんよ、お嬢様」

「でも香澄さんは毎日なんでしょう? そんなの……やっぱりズルだわ! ズル川ズル美よ!」

「私も、毎日シャケのお茶漬けを食べているワケではありませんから」

「え……? でもさっき毎朝、禁忌を犯してるって……」


 お嬢様の向かいに置いた私のお茶漬けを――お嬢様ご自身が一緒に食事をしたいとご命じになられたので――見せてさしあげました。丼こそ同じものですが、決定的な違いは具材にあります。


「私は毎日お茶漬けですが、今日は昆布の佃煮の気分です」

「ええ!? その日の気分によってトッピングを変えられるの!?」


 驚いて目を輝かせるお嬢様のお茶漬けに、箸で摘まんだ昆布の佃煮を混ぜて差し上げます。トッピング多めは庶民のちょっとした贅沢、お行儀の悪い罪な味。


「昆布茶と昆布の佃煮で、さらに味に深みが増したはずですよ」

「……本当! すごい! やっぱり香澄さんは魔女なのね!」

「ただのお行儀が悪いメイドですよ」

「それは仮の姿なの。私には分かるわ」


 得意げな顔で魔女裁判のごとく決めつけて、お嬢様はお茶漬けに戻っていきました。猫舌のお嬢様でもすぐに食べられるよう昆布茶を冷ましたので、私もさっとかきこむことにしましょう。

 なんせこの幽霊屋敷には、幽かに暮らすお嬢様とメイドのふたりだけ。聞き耳を立て、注意してくる者は誰も居ないのです。だからお茶漬けの流儀に則って、お行儀悪く、音を立てながら。

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