第2話 ねがい
目が覚めた時、宿屋の個室から見える外の景色はすっかり夜になってしまっていた。いつまでたっても起きてこないぼくを心配してか、知らない間にアリシアさんとシェーダさんがぼくの部屋に入ってきていて、アリシアさんは心配そうな顔でぼくを見つめ、シェーダさんは怒った顔でぼくに声を荒げた。
「今日中に王と謁見しようと思っていたのに……お前が寝すぎているから、行けなくなってしまっただろ!」
ぼくは謝ろうとしたけど、アリシアさんが微笑みながら優しく声をかけてくれた。
「―――完全魔法を使ったときの反動が、きっとまだ体に残ってしまっているんですよ。急ぐ旅ではありません。緒音人さんが体を回復してくださることも、大切な目的のひとつですよ」
アリシアさんの柔らかな笑顔で、またぼくの心が救われる気がした。思えば、何度、アリシアさんの笑顔に心が救われたかわからない。ぼくはこの笑顔が、ずっとなくならないでほしいと思った。
「ところでお前、飯は食うのか、食わないのか。あたしとアリシアはもう食べた。お前が寝すぎていたからな…。もう宿屋の食堂もやっていないぞ」
シェーダさんの言葉を聞いて、なにか食べたいのはやまやまだったけど、ひどい悪夢を見たせいか、すすんでなにか食べる気にはならなかった。
「いや……。ぼくはいいよ。ごめんね、迷惑かけてしまって…。もう一晩休んだら、多分体もよくなると思うから、今日はもう寝よう」
ぼくはこの世界にある時計がいまいちよくわからない。でも窓から見える外の雰囲気で、元の世界でいうところの、夜の11時くらいになっていることはわかった。あまり、アリシアさんとシェーダさんを遅くまで付き合わせるわけにはいかない。
「緒音人さん、本当に大丈夫なのですか? 具合が悪いところはないの?」
アリシアさんがぼくの顔をのぞきこんでくれた。アリシアさんの顔があまりにも可愛らしくて、ぼくは思わず目をそらしてしまいそうになった。
「あ……はい……。大丈夫です……」
アリシアさんは心配そうな瞳をずっとぼくに向けてくれていた。
「苦しくなったら、隠さず、わたしたちに言ってくださいね?」
「は、はい……」
夢で見た、アリシアさんの死体がまざまざと脳裏に浮かんできた。ぼくはその記憶をかき消すように目をつむった。その様子を見て、アリシアさんはまた心配そうにしていたから、ぼくはあわてて取り繕った。
「や、やっぱり、少し休憩させてもらっていいですか。明日になれば、落ち着いてくると思うし…」
アリシアさんは優しく微笑んだ。
「はい。いつまでだって休んでくださっても構いません。あれだけの完全魔法を使ったんですもの。反動がきて当たり前です。体を大切にしてくださいね」
アリシアさんが、ぼくの手を握ってくれそうな素振りが一瞬あったが、シェーダさんの前だからか、遠慮したみたいだった。
でもなんとなく…ぼくとアリシアさんの間に流れる空気が変わって、恋人同士みたいな、柔らかな雰囲気になった時、シェーダさんがおもしろくなさそうに口を開いた。
「それじゃあさっさと寝るぞ。あたしは待ちぼうけしすぎて退屈してるんだ。明日までに回復させて、王との謁見に行くからな」
シェーダさんが立ち上がって扉に向かい、アリシアさんもそれに続いた。扉を閉める時、アリシアさんはぼくに向かって柔らかな笑顔を見せながら、優しい素振りで軽く手を振ってくれた。
アリシアさんたちが出て行ってから、ぼくはベッドの上でぼんやりといろんなことを考えていた。
アリシアさんは、世界中の国王たちに会い、世界平和条約を結ぼうとしている。
このままひとびとが戦争を続け、攻撃魔法による『腐敗』でこの世が覆われてしまったら、それを餌のようにして呼び寄せられる『滅びしもの』たちによって、間違いなく世界は崩壊してしまう。
だから誰も戦争をせず、誰も攻撃魔法を使わないでいるのが、人類のためには一番いい。
でも……それが分かっていたとしても、そんなことが実現可能なのだろうか?
特に、今ぼくたちがいるカドセルムは、アリシアさんの祖国グリオールと戦争をしていた、憎みあう相手なのだ。
憎しみを持つ相手に平和を説いて、本当に聞き入れてくれるのだろうか。
どんなに話がこじれても、ぼくたちは攻撃魔法を使うことができない。そんなことをしたら、ぼくたちの掲げている主張が意味のないものになってしまう。
相手は、いくらでも攻撃魔法を使いたい放題だ。無抵抗のぼくたちを殺すことだってできる。
そんな条件で、平和条約を結ぶ…?
そこまで考えたところで、全身に悪寒が駆け上った。
夢の中のアリシアさんは、なぜ死んだ?
もしかして、世界平和条約のせいじゃないのか。
このアリシアさんの思いは、絶対に結ばれないものなんじゃないのか……。
夢の中の美しい女性に言われたことを思い出した。
アリシアさんの遺体を前に、女性が口に出した言葉。
『あの女も死ぬ』
『そしてお前も』……
ぼくたちはこれから、もしかして、全員死ぬ…?
なぜ…?
なぜそんなことが起きる…?
以前、アリシアさんと一緒に魔法書で勉強した時、復活の魔法はこの世のどこにもないことを教えてもらった。
この世に存在するどんなものの魔力を借りても、生命を生み出すことだけはできないらしい。
死んだら終わりだ。
ぼくは、どこか暗闇からひたひたと迫ってくる足音が聞こえるような気がして、思わず身震いしてしまった。
ベッドで横になっていられず、宿屋を出て、外の空気にあたってみることにした。
この世界でも、夜の12時をすぎると、なんだか外の空気の色も重みも変わるような気がする。
夜の匂いが染み付いた空気を胸に吸い込んで、宿屋の周りをぼんやりとうろついていたら、井戸のところに人影があった。
人影は、ぼくに背を向け、井戸から水をくんでは、頭からかぶり、ひざまづいて月にお祈りしているようだった。
なにをしているんだろう。
風邪をひいてしまわないだろうか。
近づくにつれ、それが薄着の女性であることがわかってきた。
もっと近づくと、いつもの美しい亜麻色の髪の毛が水に滴っているのが見えた。アリシアさんだった。
アリシアさんは、ぼくに気づかない様子で、びしょ濡れの体をいとわず、祈るように両手を顔の前でぎゅっと固く握り合わせながら、月に向かってひざまづき、なにかを懸命につぶやいていた。
この距離から、それを聞き取ることができた。
「……司祭さん、グリオールのみなさん、守ってあげられなくて、なにもできなくてごめんなさい……。もう、絶対に、あなたたちのような苦しむ方々が出ないように、わたしは『滅びしもの』を二度とこの世に呼び込まないよう、戦争をしない平和条約を、世界中の王と結びます……」
そこまで言って、アリシアさんは言葉を切り、しばらくの沈黙のあと、また続けた。
「わたしにできると思いますか? わたしみたいな、何もない小娘に……。それでも、わたしはやらないといけないんです。見て見ぬふりは絶対にできません。司祭さん……グリオールのみなさん、わたしに勇気をください。なにが起きても、どんな残酷なことがあっても、絶対にくじけない勇気をください」
アリシアさんが震える体で必死に祈りを捧げているのを見て、ぼくは胸が苦しくなった。
アリシアさんはまた無理をしている。背伸びをしているんだ。
ぼくが少しずつアリシアさんに近づいていくと、その足音に気づいて、アリシアさんは顔を上げた。
「緒音人さん……」
その瞳が涙のようなもので潤んでいた。
「アリシアさん……。風邪をひいてしまいませんか……」
「いえ……わたしは大丈夫です……」
「こんなところで、いったい何をしていたんですか…」
アリシアさんはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「わたしは勇気がないので……。そして、生まれ故郷のひとたちに何もできないまま、ほとんどの方が亡くなったのに、わたしは生き残ってしまって……。わたしは人生のすべてを懸けても、二度と『滅びしもの』を呼び込まないよう、世界平和条約を結びたい…。そのために、何が起きてもくじけない勇気がほしいんです……」
ぼくは、しばらく言葉をつむぐことができなかった。
アリシアさんの切ない願いが叶えばいいと思った。
沈黙が夜の闇に溶けた頃、ぼくは地面にひざをついて、かがんでいるアリシアさんの手を握った。
「アリシアさん…。ぼくがずっと、そばにいます。この世のどんなことからも、アリシアさんを守ります。そして必ず、世界を平和に導きましょう」
言葉を紡ぐたび、アリシアさんの手を握る力が強くなった。
アリシアさんはぼくの目を見つめたまま、少しぼくに体を近づけた。
「ありがとうございます……」
可愛らしい顔に、ピンクの柔らかそうな唇が視界に入って、思わずキスがしたくなったけど、今そんなことをするのは卑怯な気がして、踏み切ることはできなかった。
アリシアさんは、ぼくの手を両手で優しく包み、そのぬくもりで思いを伝えるように言葉を続けた。
「でも、緒音人さん…。絶対に、もう無茶はしないでくださいね…」
ぼくはその言葉に唇を噛んだ。
そうだ、無茶をすればいいんだ。
ぼくはこの世界で最強の完全魔法を使うことができる唯一の人間だ。
いざとなれば、完全魔法でアリシアさんを守ればいい。
完全魔法は、一歩間違えばぼくの命を失ってしまうかも知れない危険な魔法だ。
しかし、それでも、アリシアさんの命の危険が近づけば、ためらいなく使えばいい。
この魔法で守れないものなんてこの世には存在しない。
なにがあってもアリシアさんを守り切る。
ぼくが完全魔法を使えば、アリシアさんが死ぬことなんて、起きようがないんだ……
ぼくはしばらくうつむき、アリシアさんの白くなめらかな指先を見つめながら、「…はい…」と答えたが、その言葉がアリシアさんになにかを感じさせたようだった。
「緒音人さん、絶対にだめですよ。もう完全魔法を使ってはいけません。誰も死んではならないんです。みんなで生き残って、平和条約を結びましょう。そうでなければ、この旅と平和条約に意味はないのですよ……」
アリシアさんの言葉で、夢の中の女性の言葉を思い出した。
アリシアさんが死ぬ。シェーダさんも、すぐに死ぬ。そしてぼくも……。
ぼくはその言葉が頭の中で反射しようとするのをかき消して、アリシアさんの手を強く握って答えた。
「はい…。安心してください。必ず生き残りましょう」
ぼくは、アリシアさんに少し嘘をついた。いざとなったら完全魔法を使うつもりだった。でもアリシアさんは、当面その言葉で安心したようだった。
「はい…必ず、みんなで生き残りましょうね」
アリシアさんは柔らかな花のような笑顔で微笑んだ。
可愛らしい笑顔だと思った。
この笑顔を失いたくない。
なにがあっても、いざとなれば完全魔法を使って、アリシアさんを守りきろう。
誰も死なない旅にすればいいんだ。
そう考えるとぼくも自然と心が楽になって、ふっと笑顔がこぼれた。
「アリシアさん、風邪をひく前に部屋に戻りましょう。寒くないですか。体を拭くものは?」
「大丈夫ですよ…部屋に戻ればタオルがあります。心配かけてしまってごめんなさい」
ぼくとアリシアさんは立ち上がり、自然とどちらからというわけでもなく、手をつないで宿屋に戻った。
何も言葉をかわさなかったけど、つないだ手の柔らかなぬくもりが、言葉以上にぼくたちをつないでいるような気がした。
それぞれの個室に戻ろうとする時、またアリシアさんが柔らかくぼくに向かって微笑み、軽く手を振った。その仕草がほんとうに愛おしく思えた。
個室のベッドで横になり、アリシアさんを守るための決意を固めたり、アリシアさんの柔らかな笑顔を思い出しているうちに、いつのまにかぼくは眠ってしまっていた。
夢の中でまた、ぼくは洞窟のようなところにいた。
ろうそくの火がちろちろとあたりをなめている。
その火に照らされているのは、眠ったように死んでいるアリシアさんの遺体だった。
遺体の近くで、あの美しい女性が、アリシアさんの遺体を見ながら笑っていた。
「おもしろい女だったな。こんな女には初めて出会ったぞ。言っていることも、やろうとしていた行動も……そして、その死に様もな……」
ぼくは夢の中で絶叫するように暴れ、手をかけて破るように夢を壊し、また、意識は暗闇の中に沈んでいった。
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