5 お別れの時間
どこかで鴉がカアと鳴いた。
その声でファナクは思い出す。
「あ、ハインに餌あげなきゃ」
思い立って、顔を上げる。
泣き腫らした白い顔は、とても晴れやかだった。
彼は心からの笑顔で、ジルドに言った。
「ありがとう。とてもとても、楽になったよ」
「おうよ。またいつでも俺に頼れよ?」
「ははは、頼りにしてるさ」
笑って。
ジルドの貸してくれた毛皮を羽織り、ジルドの靴を履いたまま、彼は二階の、自分にあてがわれた部屋へ走った。
ジルドの家は、本来ならば4人家族だ。ジルド、アズル、カンナ。ジルドとその両親以外に、もう一人家族がいた。ファナクが使っているのは今や亡きその家族――ジルドの妹、リルルの部屋だ。彼女もまた、ファナクの両親の命を奪った流行病で亡くなった。
ジルドの、死んだ妹の部屋を使うファナク。ジルドはファナクに優しいけれど、複雑な気持ちを抱いているのだろうと勘繰りたくなる。
ファナクも覚えているのだ。みんな元気だった頃のこと。太陽みたいに明るかった、小さなリルルのことを。
気さくで大らかなジルド、太陽みたいに明るいリルル、そして内向的で自省的なファナク。この3人は幼い頃、よく一緒に遊んでいた。内気なファナクを明るい兄妹が強引に巻き込んで、てんやわんやの大冒険、無鉄砲に我武者羅に生きた、遠いあの頃。黄金の子供時代。
今やその時は遥か昔に過ぎ去ってしまったけれど――。
カア。催促するような鴉の声に、ファナクは慌てて餌をやる。
与えられた餌をついばむ鴉。最初で見た頃に比べればだいぶ毛並みが良くなってきて、その目も生気を取り戻している。
元気になったら野生に返す、そう決めた。だから、
「……君とのお別れも、もうすぐか」
少し残念そうにファナクは呟いた。
赤眼の鴉には随分、精神的に助けられたのだ。ジルドが忙しくてひとりぼっちな昼間。この鴉がいるだけで、不思議と心が温まるような気がした。この鴉の赤い瞳を見つめると、不思議と心が落ち着いた。
救ったこの赤眼の鴉は、実は不思議の存在なんじゃないかと、たまに思う。
「……君は一体、何者なんだい?」
問うても。
知らんとばかりに、カアと鳴くだけ。
そうして時は穏やかに、過ぎていく。
◇
ある冬の日。
その日は良い天気の日だった、冬晴れの日だった。
ファナクはジルドと一緒に外に出て、冬空を仰いだ。その手には鴉の鳥籠。
鴉の様子を見、もう野生に放してもよいだろうと判断したカンナの言葉に従い、この鴉とのお別れをすることにしたのだ。
お別れの日が来た。
「ハイン、短い間だけれど、ありがとうね」
そっとファナクは囁いた。赤眼のハインはカアと鳴いた。えっへんと胸を張っているようにも見える。
思えばさ、とジルドが言う。
「この冬の間に起きた様々なことってさ、ファナクがこいつの痛みを『受信』したから起きたんだよな。こいつが全ての発端ってか? なんかまぁ、変な感じに運命が流れていったもんだなぁ」
だね、とファナクは頷いた。
「でもね、この子は僕の心に温かさをくれたよ、穏やかさをくれたよ。たとえこの子が不思議の存在であるとしても、悪い存在であるわけがない。この子には世話になったんだよ」
「世話になったのはお互い様、なんだな」
そう、ジルドは納得した。
二人で冬の森を歩く。鴉を放すのにちょうど良さそうな場所を探して歩く。
やがてたどり着いたのは、一つのひらけた場所。
ここにするか、とジルドがファナクを振り返ると、ここにしよう、とファナクも頷き、鳥籠を掲げた。
「じゃあね、ハイン。傷はもう治った。後は好きなところに行くんだよ」
言って、扉を開けてやる。
鴉は開いた扉から、大きく空へと羽ばたいた。
ぐるり、その場で旋回。
さよならをするような動きを見せると、赤眼の鴉は最後に一声カアと鳴いて、冬空の彼方に消えていった。
「いなくなっちゃったね……」
名残惜しそうにファナクが呟くと、ま、そういうもんだろとジルドが言う。
「あいつにはあいつの帰る場所があるの。で、傷が治ったらそこに帰らなきゃ。あったりまえだろ? な、ファナク」
「うん……」
頷き、ファナクは遠くを見る。
鴉が消えていった空。
あの先には何があるのだろうか、鴉はどこへ帰ったのだろうかと束の間、夢想する。
やがて。
「帰ろうぜ」
言葉を発し、ジルドは歩き始める。その背を負って、ファナクは走った。
冬のある日、出会った鴉と少年は。
冬のある日、こうして別れた。
……ありがとう。
――――――――――――
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