第1夜 陰陽師

第1話

 日が昇り、冷えた空気がだんだんとぬくまっていく明け方。

人気のない、住宅街から少し離れた空地。

 冷たいアスファルトに、ひとりの少女と一匹の犬のような獣が倒れ伏していた。

 少女の腰まで伸びた黒髪には木の枝や葉がからまり、まるで使いふるされたぼろ雑巾のような風情である。

 それは犬のほうもおなじだ。本来の体毛の色がわからないほどに、薄汚れている。


 朝日が少女の頬を照らすと、ゆっくりとその瞳が開かれた。

 鮮やかな宝玉を思わせる紅い瞳が、道の先をまっすぐと見すえた。重たい身体をひきずるように、アスファルトの上をずるずると前進する。


「——ふぎゅっ!?」

「ぎゃあっ、なんか踏んだ!?」


 突然、アスファルトに顔面を押しつぶされる衝撃に、少女の意識が覚醒した。


 ――踏まれた……っ!?


「え、え、なに、これ? 死んでるのか?」


 頭からは重みがすぐに消えたが、今度はつんつんと身体を突かれた。声やしぐさから、まだ子供のようだ。

 伸ばされたその手を少女はがっちりとつかむ。


「なっ!? はなせっ!!」


 離すもんか――!

 子供といえど、ようやく見つけた人間だ。からからに渇いた喉から、なんとか声を絞り出す。


「……なんか、たべさせて……」

「……へっ!?」


 それだけ呟いて、少女は意識を失った。


 少女を踏んでしまった子供——佐野さの じんは、意識を失ってしまった少女を見下ろし、途方に暮れた。


 仁よりも二、三歳くらい上に見える少女だ。長く黒い髪にはぼさぼさで、身に着けた黒いコートにはところどころひっかき傷やら埃やらで汚れている。


 少女のとなりに倒れている犬も、埃で全身が汚れていたが、灰色の下からのぞく毛並みは見たことのないほどの美しい銀色をしていた。

 三角のぴんと尖った耳にしなやかな四肢。ゴールデンレトリバーほどの大きさだ。


 得体の知れないひとりと一匹を、家に連れていくのはどうだろう、と思う。もしかしたら、犯罪者かもしれないし。

 しかし、放っておくのも罪悪感が湧く。


 仁はため息をひとつこぼすと、少女と犬の足を掴んで、アスファルトの上をひきずり始めた。

 ちょうど近くに食堂を営む仁の祖母の家がある。今日は定休日だし、問題はないだろう。


 どうにかたどり着いた仁は、祖母の自宅側の引き戸を足で開けた。


「ばあちゃん、いる? そこで、人間と犬を拾った!!」


 玄関の敷居に、少女の頭がひっかかったようで「いだっ!」と声が上がったが、気にしない。

 犬は玄関に放置し、少女を茶の間に放り込むと、食堂の厨房から祖母ミネが顔を見せた。


「あらまあ! その子、どうしたの?」

「そこの道路に倒れてた。腹空かしてるみたいだから、なんかあったら食べさせてよ」


 座敷に横たわったままの少女は、先ほどの衝撃で目が覚めたのか、涙目で頭をさすっていた。仁に気がつくと少しだけ恨みがましい視線を向けるも、どこかほっとしたような表情を見せる。

 まだ起き上がる力はないのか、そのまま横たわっているので、靴を脱がせてやった。


「お嬢さん、何か食べたいものはある?」


 ミネがテーブルに水の入ったコップを置いた。

 少女の死にかけの目がきらんっと輝き、頭のてっぺんに生えたアホ毛が嬉しそうに揺れる。


「ええっと……カツ丼、カレー、味噌汁、おにぎり、漬物、お団子……かな?」


 本気で言っているのだとしたら、なんという食欲魔人。仁はミネと顔を見合わせる。


「あっ!? でも、所持金が千円しかないの!!」

「それじゃあ、予算は五百円ほどかしらね」


 ミネはにこやかにほほ笑むと、再び食堂の厨房へと戻っていった。


「わーい、三日ぶりのご飯だ!」

「そんなに、食べてなかったのか?」

「うん。お金をあんまり使いたくなかったから、森の中を通ってきたの。そしたら迷っちゃって……」

「森の中で三日も!?」

「そう」

「マジかよ……」


 確かに所持金千円では、そう遠くへは行けないだろうが、森の中を通る必要性はまったく感じられない。


 少女を見たところ、所持品は肩から斜めに下げている黒のサコッシュのみ。着ている黒のコートは、袖が余ってだぼついている。中に着ているのは白のシャツと黒のショートパンツという軽装備。

 ……とても森の中を歩く姿には見えない。


 むくりと起き上がった少女はコップの水を飲み干すと、仁の正面で居住まいを正した。


「助けてくれてありがとう。私は神野緋鞠かみのひまり。で、玄関にいる子は銀狼ぎんろうだよ」


 そう紹介すると、人語が理解出来るのか犬が仁に向かって頭を垂れる。


「お、おう。俺はじんだ」

「仁くんだね。よろしく!」


 邪気のない笑顔を仁に向ける。

 非行少女か、犯罪に巻き込まれた少女かと怪しんでいたが、その笑顔を見るとそんな心配は杞憂だったと仁は警戒を解いた。


「ところで、どこかに行く途中だったのか?」

「古都の大和ヤマトだよ」


 大和とは、東京よりも東にある小さな都市である。

 京都と並んで古より都があった地と聞いたことはあるが、知名度は京都に遥か及ばない。


 それに、都心のとなりにあるせいかまったく目立たず、山々に囲まれた土地なので観光スポットとしても人気がない場所である。


「あんなの、ただの田舎町じゃん」

「あそこは、とある人々からしたら、かくもありがたーい場所なんだよ?」

「とある人々?」

「そう。それは私たち陰陽師」


 しーん、と部屋の中が静まり返る。


 このぼさぼさ髪から、木の枝や葉っぱを生やした少女は何を言っているのか。


 ――陰陽師? ……何それ、美味しいの?


「ああっ! 今、胡散くさいとか思ったでしょ!?」

「思った! めっちゃ思った!」

「素直でよろしい!」


 膝をぱんっと叩くと、サコッシュから半紙と筆ペンを取り出した。どちらにも某百均ショップのテープが貼られてあることは、見なかったことにした。


「さて、少年よ。貴方の悩みを聞きましょう」

「え? いいよ。別に」


 一瞬、脳裏に浮かんだものがあったが、首を振って答える。


「ほら、遠慮しないで。別にお金取らないし、助けてもらった恩を返したいだけだよ?」

「別にいいって」


 かたくなに断る仁の姿に緋鞠は眉をしかめると、玄関の床に大人しく伏せている犬に視線を向けた。

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