私にその気はなくってよ
馬車がひとつ小さな丘を越えると、マティアスの館はその
沈み込むように座り、息をつく。
目を
初めて目にした乗馬服もよく似合っていた。あいにくソフィアは馬に乗ることができない。だから一緒に馬でこの領地を駆け回ることもできないし、馬上で微笑み合う未来だけは訪れそうにない。
噂にたがわず、ミセス・コッコは美しかった。
そして新大陸の風そのもののように、たったの5日で彼の目を変えてしまっていた。自分の7年間はなんだったのだろうか。少しでもマティアスの心を前に向かせようと考えて、どれほどの手紙を書き、どれほどの言葉を交わし、どれほどの時間を共に過ごしてきただろうか。
ソフィアの胸に沸き起こる気持ちは、悔しさとか
ただそれを実現したのが、ソフィア・リュティではなくアイリ・コッコだったというだけのことだ。ただそれだけのことが、ソフィアの心を
その複雑極まる感情に名前をつけるとしたら、それこそ愛と呼べるものかもしれない。
◇◇◇
———親愛なるミセス・コッコ
お噂はかねがね
マティアスさんが言うには、あなたはまるで「測量が恋人の少女のよう」とのことでした。そのひとつの恋心こそ、あなたの美しさの秘密だったかと納得いたしました。私もミセスのように、輝きを失わない可憐な淑女となりたいものです。
あまり長く書いても、マティアスさんが
マティアスさんをお外に連れ出してくださって、本当にありがとうございます。今日1日お話しして、あまりに晴れ晴れとしたお顔でお話しなさり、特に窓の外を見て風景を指差しては、きっとあれだきっとこれだと言うものですから、その変わりようには私も彼の新しい面を見たと感激いたしました。
あいにく本日はご夕食をご一緒できませんが、噂に聞くヴァルタサーリ伯爵のお屋敷が完成した折にでも、ぜひお話しいたしましょう。
重ねて、お礼を。ありがとうございます。
最大の敬意をこめて
ソフィア・リュティ
◇◇◇
乗馬服を脱ぎながら、アイリはその手紙をテーブルに広げて読んでいた。
「ソフィアちゃん、かぁわいかったなー。そのうえお手紙くれるなんて、もしかして天使か何かなのかな?」
もう一度手にとってまじまじと見ると、その書体も整っていて、ほのかに花の香りもする。その端々にまで、さぞ名のある貴族のご息女なのだろうと感じさせた。
しかしマティアスの変化のうち「食卓が楽しくなる」という効果だけを実感していたアイリには、この激烈な感謝の意味を
だからアイリにとっては、とにかく自分が好きで仕方がない測量の話を紹介した以上の考えはなかった。それがマティアスにとっていかなる意味を持っていたかなど知る
「ま、いっか。感謝されてるんだし、いいことしたってことで」
いつものスカートを履けば、とたんにミセスの風格が
「今日のご飯はなんでしょねー♪」
そんな服を着ていても、誰にも見られていないとなれば、アイリは陽気な娘だった。実はその変化の様子こそがアイリの最も笑える瞬間なのだが、幸いにしてその瞬間はまだ誰にも見られてはいなかった。
アイリが廊下に出ると、少し離れた位置にメイドが立っていた。マティアスの専属メイド、イェレナだということはすぐにわかった。
「失礼します。ミセス・コッコ」
その声色はかすかに怒気を帯びていた。
「どうかしまして?」
「……ソフィアお嬢様のことについてなのですが」
「あら、いらっしゃったのは秘密とかなのかしら?」
実際、
なら自分はどうなのだとアイリの頭をかすめたが、あまり難しいことは考えないでおくことにした。
「いえ。お願いがあるのです。もし次にお会いになったら、はっきりとマティアス様とのご結婚を楽しみにしていると、そう口になさっていただきたいのです」
アイリは思わず片眉を上げて疑問の表情を隠さなかった。なぜそうも当然のことを言ってくるのだろうと考えたとき、
「お手紙もいただいて、次にお会いするのはヴァル……ヴァル……」
「ヴァルタサーリ伯爵」
「そう、その伯爵のご邸宅が完成した折になるでしょうから、そのときにお伝えしておきますわ。世話焼きですのね、メイドさん」
イェレナは何か言いたげに口を何度か開きかけた後、丁寧に頭を下げる。
「召使いの身分でお客様にお願いなど、過ぎたことを致しました。どうかお食事をお楽しみください」
「はい、いつも美味しいお食事には感謝しておりましてよ」
アイリは頭を下げたままのイェレナに笑いかけたが、イェレナは頭を上げることはなかった。その頑なな様子にアイリは少し口を曲げたが、沈みかけている夕日を目にして、急いで食堂へ向かうことを選んだ。
食堂にはマティアスが座っている。
「また遅れてしまいましたわ。御免くださる?」
「お気遣いなく。いただきましょう」
その声色にたしかに陰気臭さがなくなっているのを実感して、アイリは安心した。特段おしゃべりを楽しみたいというわけでもなかったが、食事は美味しく食べたかった。今日からはほどよいお喋りと美味しいお食事という、アイリの求めていたものがようやく実現するはずだ。
「ソフィアさんからお手紙をいただきましたわ。お礼をお伝えいただけるかしら?」
前菜は塩漬けにされたハムと幾らかの野菜を合わせたものだった。それの料理名はわからなかったが、わざわざそれを尋ねようとも思わなかった。
「もちろん。彼女も喜ぶでしょう。新大陸には貴族の女性は少ないと聞きますから、ぜひ親しくしてあげてください」
「もちろんですわ! 私、あれほど可愛らしいお方は見たことがないくらい! それにお手紙もお優しいし、学のおありになる様子も垣間見えて……素晴らしい方を
ペロリと前菜を平らげると、両手を膝の上に置いて次の料理を待ちわびた。誰にも見られていない膝の上では、指を順に打つ。
「ほんとうに……ソフィアから聞きましたが、ミセスは旦那様を本土に置いていらっしゃったとか」
「ええ。私が技官として働くのを良しとしなかったのです。自分から新大陸への出張に手を上げて……でも結婚していてよかったことが一つだけありますわ」
「なんです?」
「新大陸で男性たちのお誘いを断る格好の理由になりましてよ」
それはこの5ヶ月のアイリの実体験が物語っていた。もしアイリが「夫がいる者を誘うなど、いずれ
「そういうものですか」
「新大陸の女は苦しゅうございますわ。ソフィアさんも同じことでしょうね。
街を歩けば
次に運ばれて来たのはまたラム肉だったかが、香辛料で煮込んだ香り高い一品だった。香草がいくらか強い気もしたが、口に含むと強いコクでそのくらいがちょうどよかったのだとわかる。
「明日の調査には同行しても?」
「構いませんわ。ちょうどご説明してお願いしたいことがございましてよ」
続けて話せばいいものを、アイリは我慢できずに一口を入れてしまう。口の中でほぐれた肉を飲んで、次を
「魔法を使いますので、その……少しだけ……ご負担をいただけないかと」
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