なんて可愛らしい!

 ついに食卓には会話に花が咲いた。アイリは自分の努力に感激していたし、これで滞在は最高に心地よいものになると確信していた。


 一方のマティアスはといえば、アイリが持ち込んだ革新的なものの見方にまったく感銘かんめいを受けていた。たった1日の野外講義で、父の大地だったものが神の書物へと姿を変え、憎しみをもって見ていた景色はまぎれもなく窓の外に……いやそのものと化していた。


 アイリがマティアスのために特別に用意した1日は、決して無駄ではなかった。翌日も同行を願い出るマティアスに対して、アイリはそれをこころよく受け入れた。


「しかし、明日からは通常の調査を行いますわ。今日のようにはお話しもできなくってよ」


「構いません。一つでもこの土地のことを知っておきたいと思えるようになりましたから」


 その表情に、アイリは自分の成功をもう一度確信していた。何一つ打算もないアイリの心情をあえて文字に起こすならば、おおよそ次のようなものだ。


(かーっ、よくやるじゃない私!)


 その心の中の陽気な娘をおくびにも出さず、最高に気分のいい滞在を獲得したは翌日も絶好調であった。


 いつもの習慣である朝風呂に入り、髪に香りのする油をさして鼻歌交じりにくしを通し、このところ履き慣れた乗馬服を着て、すでに荷物の用意が整った厩舎きゅうしゃへ向かう。部屋を出れば鼻歌は止めなければならなかったが、その歩調は踊っていた。


「マティアス様! ソフィア様がいらっしゃいましたよ!」


 昨日の女性召使いもその名前を言っていた。誰か客人ということなら、同じ屋敷に招かれた客として挨拶をしないのも礼儀にもとる。乗馬服なのが気にかかったが、アイリはあの辺境伯の絵がかかげられたホールへ向かってみることにした。


 のぞき見ると、すでに乗馬服に着替えていたマティアスと可愛らしい淡い紫のドレスの女性が親しげに話している。人形のような金髪に、アイリとよく似た青いひとみをしている。


「お話中に失礼します、マティアスさん」


 名前から女性とはわかっていたが、それがちょうど自分と同じ歳ごろの娘とわかって、アイリは安心して進み出た。


「ああ、ちょうどあなたの話を。ソフィア、こちらがミセス・コッコ。財務局からいらっしゃった測量士だ」


 スカートのすそつかもうとして、乗馬服だったことを思い出す。やむなく胸に帽子を当てて礼をする。それはどちらかと言えば男性のする会釈えしゃくだった。


「ごきげんよう。お噂はかねがね……わたくし、ソフィア・リュティと申しますわ」


 大きなスカートを軽く持ち上げて礼をする姿は、アイリがうらやむほど気品を備えていた。


「アイリ・コッコと申しますわ。この格好はどうか御免なすって」


「ご調査に行かれる前だとか。新女性のお姿は初めて目にいたしますわ」


 ソフィアは可愛らしい表情で微笑み、アイリの非礼を許す。新女性という言葉が広まったとはいえ、上流貴族で怪訝けげんな表情一つ見せずにそれを許容する女性は珍しかった。


「ソフィアは私の婚約者なのです。偶然お互い新大陸に」


 そう言うと、マティアスは明らかに好意を込めた視線をソフィアに向け、ソフィアも甘えたような視線をマティアスに一つ送ると、ほほを赤らめた。


「見ていてこちらが恥ずかしくなりそうですこと」


 アイリは口元に手を当てて笑う。マティアスは気恥ずかしそうに視線を泳がせた。


「本日のご同行はお辞めになられては? こんな可憐かれんな方をお一人で館に残せば、それこそ神の怒りを買いましてよ?」


「ははは……ではそうさせていただきます。ソフィアは夕食まではいられないのかい? ぜひミセスとも話して欲しいんだが……」


「それはお父様がお許しになりませんわ。またの機会にぜひ」


 残念そうに目を伏せてそう言うソフィアの声は、耳がくすぐったくなるような心地がした。自分の友人にこんな可愛らしい子がいたら、アイリは毎日でも会いに行くだろう。


「いずれ機会もありましょう。では、私は調査に参りますわ」


 帽子を被りなおしてきびすを返す、アイリはその背に強い視線を感じたが、鍛えられたの人格が振り返ろうとする心を抑えた。


 むろん、視線の主はソフィアであった。これまで自分のところにも二日続けては訪れなかったマティアスが、二日続けて乗馬服を来て外出することを自ら希望したと言うのだ。

 しかしマティアスがまだソフィアへの親愛の情を抱いているのは明らかだった。それに相手があの・コッコだということもソフィアを安心させていた。

 王国でさえ珍しい新女性は新大陸では唯一ミセス・コッコを置いて他になく、それゆえ噂はいつも歩いて回っていた。それでも浮ついた噂といえば、カレルヴォ大佐とずいぶん懇意であるという程度で、ついぞ破廉恥はれんちな噂を聞かない稀有けうな女性だったのだ。


「お噂どおり、ミセス・コッコはお綺麗ですのね」


「そうかい? 昨日ようやくまともに話したけれど、なんだか子供みたいだったよ」


「子供?」


「ああ。あれは測量が恋人なのだと物語っていた。君が僕を見るときの瞳で、測量の機械や岩石や崖を」


 マティアスがあきれて肩をすくめたのを見て、ソフィアは自分の杞憂きゆうを笑った。そして同時に、それが噂の麗人れいじんから悪評が立たない理由なのかと納得した。

 大階段には大きな義父上おちちうえの肖像画掲げられている。ソフィアは自分とマティアスの婚姻を取りまとめてくれたその威厳いげんあふれる肖像画の前に立ち止まって、礼儀正しくスカートをあげて挨拶をする。


「父上にかい?」

「はい。改めて感謝を」

「そうだね。ソフィアのことは感謝しているよ」


 ソフィアの心がまたチクリと痛む。マティアス一人の味方になれない切なさが胸を襲い、唇に力が入る。マティアスに促されるまま階段に足をかける。

 二階には、すでにメイドのイェレナが両手を揃えて控えていた。その変わらぬ立ち姿にソフィアは安心を覚える。イェレナはマティアスの専属メイドであり、ソフィアのよき相談役でもあったのだ。


「イェレナ、少しワインが飲みたい。新大陸産のものはあるか?」


 しかし、マティアスがそう声をかけたとき、そのイェレナは目を丸くして固まった。


「どうかしたか?」

「いえ。ございますにはございますが、まだ新大陸産は王国のものほど味は整っておらず……」

「いや、今日はこの大地の味を知りたい。ソフィアも少しどうだ」


 ソフィアもどういう表情をするべきなのかの判断がつかなかった。目を丸く広げたかと思うと、目尻に不安をただよわせた。


「どうかしたか? 私が何か?」

「……いえ。いただきますわ」


 それでもソフィアは最後に笑顔を作り出した。笑顔の裏側では、心に刺さっていた小さなトゲなどよりよほど大きな影が広がるのを感じていた。

 その不安はおろか、作り笑顔さえも見抜けないマティアスは、ただ上機嫌に歩み続けて提案する。


「先に書斎に行こうか。何か本を貸そう」


 マティアスの右手に乗せた手を、ソフィアは何気なく彼の腕に絡める。廊下で甘えることのなかった貞淑ていしゅくな彼女の意外な振る舞いに、マティアスは驚きながらも微笑む。


「めずらしいな、ソフィア」

「はい。少し……不安なことがありましたから」


 その右腕を抱いて身を寄せてみても、ソフィアの不安は変わらなかった。


「そうか、新大陸は騒々しいからな」


「はい。ほんとうに……騒々しい……」


 ソフィアは窓の外を駆ける貴婦人の乗る馬を見つけた。大きな荷物を左右につけて、栗毛の髪が馬の尾と同じように揺れている。そのあまりに女性離れした躍動やくどう的な姿に、ソフィアは目を細めていた。


 ランプを手にとって地下のワインセラーに向かったイェレナも、爪を噛む心地でいた。長年支えてきた彼女の目から見ても、何かが変わってしまっていた。あのが現れたというただそれだけのことで、これまで10年も変わらなかった何かが、たったの5日で変わり始めていたのだ。


 初めて「なにか飲み物を」以外の指示を受けて取り出すそのワインは、決して主人を喜ばせる味のものではなかったはずだ。これより風味の良いワインなどこのワインセラーにはいくつも用意してある。しかしイェレナたちが選んで提供してきたどのワインよりも、この渋みの強い一杯がその主人を喜ばせることは明らかだった。


 なぜならそこには、新大陸の浮かれた空気が詰まっているのだから。

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