からかわないでくださって?
教会の
「72.6度……方位は……」
手元には記録点のリストがある。測量機器のデュオプトラを用いても、すぐに地図が描けるわけではない。三角測量を用いたその方式では、基準点を決めて各計測点との角度を求め、計測した数値をもとに数式を解いて各位置の正確な距離を求める必要がある。
「失礼します、ミセス」
教区長のヴィルヘルムはこの仕事を依頼した人物だった。こちらに移住するまでは太っていたらしいが、こちらにきてすっかり健康的な姿になっている。
「どうかしまして、教区長?」
「残念ながら総督府からの御客人です。こちらの仕事は後になりそうですね」
仕事の依頼が次々に舞い込むことはアイリも予想していた。しかし官吏という性質上、いくら仕事をしても給金が同じであることには不満を抱いてもいた。
しかしそんなことはおくびにも出さず、例の
「西側は終えましたから、計算が済めばお届けしますわ。まだ三角網程度の荒いものですけれど……」
「助かります。市街の計測はかかりそうですものね」
たしかに測地点の多い計測は骨が折れる。まだ人員も揃っていない現状では、数年はかかりそうな作業だった。
「
教区長が住宅の区割り地図を求めた理由は明確だった。教会区の正確な地図を作成し、領民の土地の所有権を明確にしようとしたのだ。
つい先日までは土地など数歩歩けば余っていて、所有権で
「いえ、まだ当面は大丈夫でしょう。ほんの2、3聞くようになりましたが、ならあそこの土地を使おうと言えば収まりますからな」
「みなさまお聞き分けがよろしくて、本土で聞いていた話と違って安心しています」
「いえまぁ本土に比べるとやはり生活も
「でもこちらに来る勇気もなくて、口ばかり悪い方達よりよほどこちらの方々の方が
最後の段を大きな一歩で降りると、ヴィルヘルムは支えていた左手を離して入り口に立つ軍服の男の元へ歩み寄る。
赤髪に口ひげをたくわえた軍人が軍帽を胸元に当て、聖像に
「さてミセス、こちらが総督府よりお越しのカレルヴォ海軍大佐です」
紹介された軍人はまぶたをわずかに大きく開いたが、その驚きの表情は口を開く頃には引き締まった
「よもや女性とは。これは驚きました」
「あら、女が測量をしてなにか
アイリが握手を求めると、大佐は軽やかにその手袋を外して握手に応じた。その身のこなしは、軍人というより貴族を思わせる。左手で抱えた軍帽もまた
「いや失礼、ミセス。そのお姿は新大陸にまで王国の栄華が届くようで、こちらまで実に
カレルヴォは素早く
しかしこうした扱いに慣れないアイリはといえば、最大級の
「それで、総督府からいらっしゃったと聞きましたが……」
「はい、こちらへ。馬車の用意があります」
総督府の使いらしく、見事に黒く輝き彫刻まで整えられた馬車が横付けされていた。アイリも生まれの身分が高かったとはいえ、これほどの待遇を受けるのははじめてだ。
「まるで新大陸の姫にでもなったみたいね」
「お求めならそうお呼びしましょうか、プリンセス?」
アイリの声色に
「からかわないでくださって?」
馬車まで近づくと、御者が踏み台を用意し、大佐はその扉を開いたまま支えて中へ促した。大佐は奥へ座るようアイリを促し、続けて長い足で軽々と登り隣の席に腰を下ろした。
席に座り直して、アイリはまたひとつ鼻を鳴らす。これほど歳が離れていても気を休めてはならないということへの不満でもあった。
扉が閉められると、アイリは腰に隠したナイフの位置を確かめた。
「新大陸にはいついらっしゃったので?」
「まだ長くはありません」
街はまだ街と呼ぶには土ぼこりが舞いすぎていた。石畳も敷かない無舗装の草原の中に、手前勝手な馬車の軌道が曲線を刻みつけている。馬車が左右に揺れるたびに、アイリはその曲線が数学的な美しさを持っていないことに内心舌打ちしていた。
「街はいかがですか。これでなかなか発展したものです。革製品や布製品もこちらで作れるようになりまして……」
「しかし測量家としては、都市計画をおたてになった方にお会いしたいものですわ」
立ち並んだ住宅の縁は互い違いになっているどころか、水平ですらない。アイリはまた新しい一角のずさんな建築に目を細めた。
「……新大陸の先輩としてひとつご紹介しておきましょう」
大佐はアイリの前に身を乗り出して、反対の窓を覗きこむ。ナイフをわずかに引き抜きかけたが、その所作に色欲がないと見て押し戻す。
「あそこの酒場には近づかない方がよろしいかと。ならず者の傭兵が集いますからね、あなたのようなご
咳払いをして、その体が近すぎることを警告する。
「おっと失礼」
「いえ。それに世間知らずの娘のようには言わないでいただきたいわ。ご令嬢だなんて」
突き放すような冷たい態度をとる。アイリが知る限り、隙を見せないことが最も大切だった。こんな急ごしらえの繕いがあと何ヶ月続けられるかは知れたものではなかったが、それでもその日までは、彼女はミセスを演じなければならない。
「これは失礼。ついお若い方への振る舞いをしてしまいました……お許しください、ミセス」
「いえ、こちらこそ言葉尻を捉えて失礼を」
そう謝りながらも、指示された酒場の看板を確かめる。
———〈放浪鯨〉
滞在中は決して近寄らないようにしようとアイリは誓った。
「ご不安がありましたら私どもにおまかせください。こんな土地に女性一人では、肩肘も張って何かと気も休まらないでしょうから」
「お言葉感謝いたしますわ、大佐。ですけど、私も覚悟のうえで参りましたから」
腰のナイフの
「ええ、そうでしょうとも。そのお姿に現れておりますよ。……ところで、測量についてお伺いしても?」
大佐は居住まいを正し、アイリと反対側に体重を預けて足を組んだ。アイリはナイフから指を離し、ようやく窓の外から大佐の方へ視線を戻す。
「測量で使うのはデュオプトラと聞いていますが、本当ですか?」
「ええ、今日も使っておりましたわ。海軍でもお使いにならなくって? 海図をお描きになるんでしょう?」
「いえ。デュオプトラは船の上では役に立ちませんからね。揺れてしまって……」
大佐は手を上下に揺らす。
「なるほど……しかしそうなれば、海岸線の地図は陸で測量しなければ描けないということになりますね」
大佐は何がおかしいのか、歯を見せて柔らかく笑っている。
「ポルトラーノと言いましてね。
「海岸線や街はどうするのです?」
「作戦で必要になれば、目視で描く場合がありますが、通常の航海では……」
大佐は首を振った。
王国海軍が正確な海岸線の地図を持たないという事実は、アイリに強い衝撃をもたらした。
「なら正確な海岸線を描くのは私の仕事ということに!」
「はっはっ……その通りです、ミセス。残念ながら海軍は相手の船を壊すことばかり考えていて、港を作ることには興味がないのです」
大佐はなにやら満足げにそう言うと、窓から外を見た。
「総督府です。この度が初めての登庁になるとか」
「はい。私は財務の人間ですから、
総督府は王国にあって異例の権限を得た組織だった。新大陸の開発計画と
「見ての通り、権限の割には見栄えしない建物でしてね……」
小高い丘の先には、総督府と書かれた
「ほんとに。大理石とばかり思ってましたわ」
馬車が緩やかに丘を登ると、
左右の軍服の青年たちはメリハリのある動作で銃を下ろし、馬車を敬礼で出迎えた。
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