からかわないでくださって?

 教会の鐘楼しょうろうに固定したデュオプトラのネジを巻いて、アイリはもう一度目線を合わせた。2枚の金属板のみぞに通した糸の交点を、手前と奥でピタリと合わせ、その先に通りの角を合わせる。


「72.6度……方位は……」


 手元には記録点のリストがある。測量機器のデュオプトラを用いても、すぐに地図が描けるわけではない。三角測量を用いたその方式では、基準点を決めて各計測点との角度を求め、計測した数値をもとに数式を解いて各位置の正確な距離を求める必要がある。


「失礼します、ミセス」


 教区長のヴィルヘルムはこの仕事を依頼した人物だった。こちらに移住するまでは太っていたらしいが、こちらにきてすっかり健康的な姿になっている。


「どうかしまして、教区長?」


「残念ながら総督府からの御客人です。こちらの仕事は後になりそうですね」


 仕事の依頼が次々に舞い込むことはアイリも予想していた。しかし官吏という性質上、いくら仕事をしても給金が同じであることには不満を抱いてもいた。


 しかしそんなことはおくびにも出さず、例の優雅ゆうがな身のこなしをつくろって、教区長にエスコートを要求する。


「西側は終えましたから、計算が済めばお届けしますわ。まだ三角網程度の荒いものですけれど……」


「助かります。市街の計測はかかりそうですものね」


 たしかに測地点の多い計測は骨が折れる。まだ人員も揃っていない現状では、数年はかかりそうな作業だった。


 鐘楼しょうろうから降りる螺旋らせん階段は、エスコートがなければ危ないものだった。さしものアイリも、その明らかに男向けに作られた段差の大きな階段を下るのは難しく、しかもそれがはるか下まで続いているのが見えるものだから、ひどく肝を冷やしていた。


め事はすぐに起こりそうかしら?」


 教区長が住宅の区割り地図を求めた理由は明確だった。教会区の正確な地図を作成し、領民の土地の所有権を明確にしようとしたのだ。

 つい先日までは土地など数歩歩けば余っていて、所有権でめることはあり得なかった。しかし住民の増加が想像以上の速さで続き、近いうちに本国並みの土地管理が必要になるだろうと予想されたのである。


「いえ、まだ当面は大丈夫でしょう。ほんの2、3聞くようになりましたが、ならあそこの土地を使おうと言えば収まりますからな」


「みなさまお聞き分けがよろしくて、本土で聞いていた話と違って安心しています」


「いえまぁ本土に比べるとやはり生活も官憲かんけんも違いますから、野卑やひと言われてもしかたありませんな」


「でもこちらに来る勇気もなくて、口ばかり悪い方達よりよほどこちらの方々の方が素敵すてきでしょう?」


 最後の段を大きな一歩で降りると、ヴィルヘルムは支えていた左手を離して入り口に立つ軍服の男の元へ歩み寄る。

 赤髪に口ひげをたくわえた軍人が軍帽を胸元に当て、聖像に黙祷もくとうを捧げている。日に焼けた横顔の肌から年齢を見抜くのは難しいが、アイリはその軍人を自分より20は年上と見積もった。


「さてミセス、こちらが総督府よりお越しのカレルヴォ海軍大佐です」


 紹介された軍人はまぶたをわずかに大きく開いたが、その驚きの表情は口を開く頃には引き締まった威厳いげんの中に失われていた。


「よもや女性とは。これは驚きました」


「あら、女が測量をしてなにか可笑おかしくって? アイリ・コッコと申します。ただ名をつけずにと呼んでいただけると嬉しいわ」


 アイリが握手を求めると、大佐は軽やかにその手袋を外して握手に応じた。その身のこなしは、軍人というより貴族を思わせる。左手で抱えた軍帽もまた凛々りりしく、アイリは好印象を抱く。


「いや失礼、ミセス。そのお姿は新大陸にまで王国の栄華が届くようで、こちらまで実にほこらしくなります」


 カレルヴォは素早くひざまずき、握手をしたばかりの指に口づけをする。謝罪と親愛を示すその態度は、一見すれば色男のそれでもあったが、実際には貴族社会ではそう特別なものというわけではなかった。

 しかしこうした扱いに慣れないアイリはといえば、最大級の賛辞さんじ淑女レディとしての待遇にニヤつく口元を緩ませないように懸命けんめいになっていた。口元を隠して「お上手ですこと」とばかり言葉を返すと、ふぅっと鼻を高い音で鳴らして平静を取り戻す。


「それで、総督府からいらっしゃったと聞きましたが……」


「はい、こちらへ。馬車の用意があります」


 総督府の使いらしく、見事に黒く輝き彫刻まで整えられた馬車が横付けされていた。アイリも生まれの身分が高かったとはいえ、これほどの待遇を受けるのははじめてだ。


「まるで新大陸の姫にでもなったみたいね」


「お求めならそうお呼びしましょうか、プリンセス?」


 アイリの声色ににじむ喜びは簡単に見抜かれてしまった。慌ててひとつ咳払いをする。


「からかわないでくださって?」


 馬車まで近づくと、御者が踏み台を用意し、大佐はその扉を開いたまま支えて中へ促した。大佐は奥へ座るようアイリを促し、続けて長い足で軽々と登り隣の席に腰を下ろした。

 席に座り直して、アイリはまたひとつ鼻を鳴らす。これほど歳が離れていても気を休めてはならないということへの不満でもあった。


 扉が閉められると、アイリは腰に隠したナイフの位置を確かめた。


「新大陸にはいついらっしゃったので?」

「まだ長くはありません」


 街はまだ街と呼ぶには土ぼこりが舞いすぎていた。石畳も敷かない無舗装の草原の中に、手前勝手な馬車の軌道が曲線を刻みつけている。馬車が左右に揺れるたびに、アイリはその曲線が数学的な美しさを持っていないことに内心舌打ちしていた。


「街はいかがですか。これでなかなか発展したものです。革製品や布製品もこちらで作れるようになりまして……」


「しかし測量家としては、都市計画をおたてになった方にお会いしたいものですわ」


 立ち並んだ住宅の縁は互い違いになっているどころか、水平ですらない。アイリはまた新しい一角のずさんな建築に目を細めた。


「……新大陸の先輩としてひとつご紹介しておきましょう」


 大佐はアイリの前に身を乗り出して、反対の窓を覗きこむ。ナイフをわずかに引き抜きかけたが、その所作に色欲がないと見て押し戻す。


「あそこの酒場には近づかない方がよろしいかと。ならず者の傭兵が集いますからね、あなたのようなご令嬢れいじょうならなおさらのこと」


 咳払いをして、その体が近すぎることを警告する。


「おっと失礼」


「いえ。それに世間知らずの娘のようには言わないでいただきたいわ。だなんて」


 突き放すような冷たい態度をとる。アイリが知る限り、隙を見せないことが最も大切だった。こんな急ごしらえの繕いがあと何ヶ月続けられるかは知れたものではなかったが、それでもその日までは、彼女はを演じなければならない。


「これは失礼。ついお若い方への振る舞いをしてしまいました……お許しください、ミセス」


「いえ、こちらこそ言葉尻を捉えて失礼を」


 そう謝りながらも、指示された酒場の看板を確かめる。


———〈放浪鯨〉


 滞在中は決して近寄らないようにしようとアイリは誓った。


「ご不安がありましたら私どもにおまかせください。こんな土地に女性一人では、肩肘も張って何かと気も休まらないでしょうから」


「お言葉感謝いたしますわ、大佐。ですけど、私も覚悟のうえで参りましたから」


 腰のナイフのつかを指ででる。身につけた技は少ないが、それでも自分の身を多少は守ってくれるはずだった。


「ええ、そうでしょうとも。そのお姿に現れておりますよ。……ところで、測量についてお伺いしても?」


 大佐は居住まいを正し、アイリと反対側に体重を預けて足を組んだ。アイリはナイフから指を離し、ようやく窓の外から大佐の方へ視線を戻す。


「測量で使うのはデュオプトラと聞いていますが、本当ですか?」

「ええ、今日も使っておりましたわ。海軍でもお使いにならなくって? 海図をお描きになるんでしょう?」


「いえ。デュオプトラは船の上では役に立ちませんからね。揺れてしまって……」


 大佐は手を上下に揺らす。


「なるほど……しかしそうなれば、海岸線の地図は陸で測量しなければ描けないということになりますね」


 大佐は何がおかしいのか、歯を見せて柔らかく笑っている。


「ポルトラーノと言いましてね。羅針盤らしんばんを頼りにどの方角へ進めばどの港があるのかだけを描くのです」


「海岸線や街はどうするのです?」


「作戦で必要になれば、目視で描く場合がありますが、通常の航海では……」


 大佐は首を振った。

 王国海軍が正確な海岸線の地図を持たないという事実は、アイリに強い衝撃をもたらした。


「なら正確な海岸線を描くのは私の仕事ということに!」


「はっはっ……その通りです、ミセス。残念ながら海軍は相手の船を壊すことばかり考えていて、港を作ることには興味がないのです」


 大佐はなにやら満足げにそう言うと、窓から外を見た。


「総督府です。この度が初めての登庁になるとか」


「はい。私は財務の人間ですから、管轄かんかつが違います」


 総督府は王国にあって異例の権限を得た組織だった。新大陸の開発計画と徴税ちょうぜい、教育、警察機能など、ほとんど全ての権限を持っている。それだけでも特異な組織だったが、そのうえ新大陸軍の指揮統制しきとうせい権を持つという、辺境伯級の権限が与えられている。


「見ての通り、権限の割には見栄えしない建物でしてね……」


 小高い丘の先には、総督府と書かれた鉄条門てつじょうもんがあった。しかし威厳いげんのあるのはその門ばかりで、その先にはいくつかのレンガ造りの屋敷を中心に、木造の普通の商館風の建物が立ち並んでいるばかりだ。


「ほんとに。大理石とばかり思ってましたわ」


 馬車が緩やかに丘を登ると、鉄条門てつじょうもんが開いて馬車はその中へ招き入れられる。

 左右の軍服の青年たちはメリハリのある動作で銃を下ろし、馬車を敬礼で出迎えた。

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