アイリ・コッコの描いた地図

早瀬 コウ

プロローグ

 栗毛の髪が潮風に揺れた。船の甲板に立ってキャスケット帽を押さえる。


「おいお嬢さん、そんなところに立ってちゃ海に落ちちまうぜ」


 船乗りたちが笑うと、あごを突き出した横顔に冷たいブルーのひとみを見せる。


「ご忠告感謝します。ただ、と呼んでいただけて?」


 わずかにほほをあげて笑うと、その美貌びぼうに船乗りたちは息を飲んだ。ひざのところから柔らかくふくらんだ妙な仕立てのスカートが風に揺れて、健康的なふくらはぎがのぞいた。


「す、すみません、ミセス……」


「ミセス、だけでいいの。夫は旧大陸に置いてきたから」


「はぁ……」


 はしなやかに左手をあげると、船乗りに手の甲を見せた。その優雅な態度に、社交界のマナーなど知らぬ船乗りも思わず手をとる。

 ようやく見せた二つの瞳に船乗りは目を伏せた。と呼ぶにはあまりに若々しい肌と、長い船旅を経たとは思われない柔らかく膨らんだ唇に胸中の高揚を隠せなかったのだ。


 そのわかりやすい動揺にも、は余裕すら見せて問いかけた。


「あそこに見えているのが新大陸かしら?」


「ええそうです。まだまだ港がようやくできたばかりで、とてもあなたみたいな人が行くところとは……」


 口元に右手を寄せて、ふふっと笑う。

 今や他の船員たちまでも、その所作に魅了されていた。


「海岸線を見ておきたかったの……船室までエスコートいただけるかしら?」


「え、ええ!」


「おい、お前持ち場を「うるせぇ!」


「では、頼みますわ」


 複雑にクロスしたプリーツが揺れるスカートを片手で軽くあげると、は船の揺れをものともせずに、整った歩みで甲板を鳴らした。


「あんな人乗ってたか?」

「船室に隠れてたんだな、あんなに綺麗きれいじゃ何があるかわからねぇ」

「あんな人に放って置かれて、旦那は何やってるんだかな」

「流行りの新女性ってやつだろ? 胸にバッヂがあったぜ」

「お前すぐ胸見るよな」

「はぁ?」


 の胸に光っていたのは王国技術官のバッヂだった。その中央の青の石は、彼女の所属が財務局であることを示していた。


 女性の登用が始まったのはほんの4年前のことで、いまだに7名だけが採用されたに過ぎなかった。はそんなスーパースターのひとりということになる。


 類稀たぐいまれなる美貌びぼうに、自信に満ち洗練された所作、船の揺れにも乱れぬ身体能力、そして王国技術官に採用される知性……。


 その全てを兼ね備えたこの女性は、嘘で自分を塗り固めていた。


 自らの船室にたどりつき、緩みきった顔をした船乗りに微笑みの別れを告げ、扉を閉める。


「はーーーっ、顔が痛い……」


 絨毯じゅうたんの上をガツガツと歩き、ブーツも脱がずにベッドに倒れる。


「ほんとに私これで行くわけ? 無理じゃない?」


 両手で顔をおおい、声を押し殺しながらそうこぼす。キャスケット帽は枕の上にずり落ちた。

 今度はせわしなく上体を起こした彼女は、揺れる船内で頭を振って髪に手櫛てぐしを通し、鏡に顔を映す。


「違う。頑張れ。頑張りなさい、アイリ・コッコ……」


 アイリ・コッコ。それが彼女の名前だった。


 王国技術官に合格して2年目。財務局地理院勤めの才女には違いなかったが、本来のアイリはその才の代償に、およそつつましさを失っていた。



 それは3ヶ月前にさかのぼる。



 新大陸での地図制作事業という途方もない大出張が発表された。


 そのときの部局の面々の反応といえば、たいてい真っ青な顔をして局長と目を合わせないようにするというものだった。


 しかし彼らに救世主が現れた。

 アイリ・コッコ。まさに天使のような娘である(人智とやや隔たったという意味で)。


 たった一人だけ、その知らせに目を輝かせ、作業着にボサボサの頭で両手を挙げて宣言したのが彼女であった。


「やりますやります! それ私やります!! 新大陸の地図、全部描きます!」


 爛々らんらんと輝かせた瞳の奥で考えていたことといえばたったこれだけだ。


(誰も描いたことない地図を描ける!!)


 ……ほとほとあきれ果ててしまうところだが、彼女が単細胞のだったわけではないと擁護ようごもしておくべきだろう。


 なんといっても王国で7人しかいない女性技術官合格者である。その才気は王国で類を見ないほど優れているのだ。


 彼女ははじめにそれまでの地味くさい土色の作業着姿を改めた。控えめの色の方が落ち着くことに変わりはなかったが、知り合いの仕立て職人のもとに、どこで手に入れたのか独特な衣装の絵を持ち込んで仕立てを依頼した。


 次に社交界の振る舞いを学ぶために、先輩でもある女性官吏のイリナの元を訪ね、そのお目付役めつけやくに指導を願い出た。それまでバタバタと慌ただしく歩いていたアイリは、みるみるうちに洗練された所作を学び取った。


 そして最後に、そのイリナに頼み込んで、自分の出張先をいつわることにした。王国技術官たちを除けば、両親を含むほとんどすべての知り合いが、彼女の勤務地を旧カルッティアラ王国領クリナムだと誤解させられた。


 この他にも様々の用意をしていた。身を守る武芸に、ごくわずかとはいえ魔法の習得までも短期間にこなしたというから、その才女ぶりが見て取れる。


 ともかく、そうして生まれ変わったアイリ・コッコは、その新しい姿を王国技術官たちに披露ひろうした。


 当然、部局は失笑に包まれた。


 アイリはつい数ヶ月前まで口も半開きのまま、農婦が着るような草染のワンピースばかりを着て、ただ卓上の三角測量の計算に熱を上げていた。

 そのアイリが、すっかり社交界の名のあるレディのような出で立ちで現れたのだから無理もない。


「みなさま、あんまり笑うとはしたなくってよ」


 その言葉遣いひとつとっても、男たちには笑いの種に過ぎなかった。



 しかしそれもこれも、元の彼女の姿を知っていればこそである。


 

 今やアイリ・コッコはまぎれもない淑女レディだった。男ばかりの新大陸で、男たちに負けない気迫と気品を兼ね備え、隙のない所作で男たちの色欲を可憐にいなす。


 しかし本当の彼女は、夫を捨てた謎の美女などではない。


 測量と学問を愛好し、人との会話は不得手。結婚はおろか、試験勉強ばかりで恋愛もろくにしていない、未婚の19歳の若娘だ。


 アイリ・コッコがその素性を偽ったのは、新大陸で男達から身を守るためだった。婚姻の証であるネックレスを首にかけた隙のない既婚女性として振る舞えば、男もやすやすとは寄って来るまいと考えたのである。


 そうして作り出されたのが、虚像の敏腕測量技師にして稀代の淑女、夫を捨てた謎多き才女であった。


 ……むろん、その年齢設定の甘さにアイリは痛い目を見ることになる。世の男にとって夫を捨てた32歳の女がむしろ魅力的に映るということを、19歳の若娘は知らなかったのである。


 ともあれ、そうした嘘と経緯いきさつたずさえて、アイリ・コッコは船に揺られ、今はその一等船室でベッドに頭を突き刺してトビウオのようなポーズをとっていた。


「うがー……むりだ……」


 それでも船はやがて新大陸にたどり着く。


 見たことのない景色と、経験したことのない世界が待つ新大陸へ。


 誰も記録したことのない土地が、アイリ・コッコを待っているのだ。

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