第38話 「補習、お疲れ様ってことで。一緒に行きませんか?」


 社会科準備室のドアはスライド式。そこまで力を込める必要は無いが、横にスライドさせる為に幾分かの力は必要だ。

 取手に手をかけた俺が、ドアを開けようとした瞬間。


 ドアが独りでに開いたのだ。力を加える前だと言うのに、開いたドアに驚いていると。社会科準備室の中から、人が現れた。

 肩幅は広く、身長も俺より高い。明らかに夢叶と違うシルエットだ。


「チッ」


 梅雨明け宣言もされ、灼熱の暑さを誇る夏という季節に。漆黒のスーツに身を包んだ男性が、鋭い視線で俺を睨めつけながら、大きく舌打ちをした。


「.......」


 キリッと整えられた眉、少しつり上がった意思の強そうな目は、圧迫感すら覚える。

 どうして俺が呼ばれたはずの社会科準備室から出てきたのか。

 どうして俺を睨んでいるのか。

 何から言葉にすればいいのかわからず。黙り込んでいると、男性が口を開く。


「お前のような奴がいるから」


 低く渋い声が、俺の心に刺さる。

 そして気づく。俺は、この声を知っている――


西門先生さいもんせんせい……?」


 補習初日。俺と夢叶が教室で話しているときに、教室に入ってきた男性教師だ。

 その人がどうしてここにいるのか?

 西門先生の担当教科は体育。はっきり言って、社会科準備室なんて縁のない場所だろう。

 特に、夏休み中なんて。通常時よりも、もっともっと来ることがないはずだろう。


「大人の関係に突っ込んでくるんじゃねぇーよ」


 怒りを帯びた声が。頭上から降り注いでくる。氷のように凍てついた視線で、言葉だった。大人、そう言われてしまえば、俺は何も出来ない。

 まだ学生という身分で、子どもだから。その上の段階の話に踏め込めない。


 俺が関われない。そう分かって吐かれた言葉に、苛立ちを隠せず。奥歯を強く噛みしめた。


「クソが」


 それが西門先生にも伝わったのだろうか。先生とは思えない言葉を吐き捨て、右手を強く握り締め拳を作り上げた。

 いつ振るってもおかしくない。そんな雰囲気すら纏わせて、西門先生は作った拳をより一層強く握る。

 その圧倒的な圧力に耐えきれなくなり、1歩退くと。西門先生は俺を睨んだまま、横を通り抜けてその場を去った。


 やっと圧から解放された。その安堵感から、一瞬ぼーっとしてしまったが。夢叶に会うためにここに来たんだ、ということを思い出して。

 飛び込むように、社会科準備室に入った。



「夢叶先生」


 学校だし。西門先生みたいに、誰かが社会科準備室に来るかもしれないし。

 そう思い、先生をつけて名前を呼んだ。


「稜くん.......」


 しかし、返ってきた言葉に元気はない。いつもの夢叶らしくない様子が心配になる。社会科準備室の奥にある事務机の椅子に腰を下ろしている夢叶に、ゆっくりと歩み寄る。


「どうかした?」

「別に.......大丈夫だよ?」


 嘘だ。夢叶は嘘をついている。

 それは直ぐに分かった。貼り付けた偽りの、弱々しい笑顔だ。それに、声も震えているように感じた。


「大丈夫じゃないだろ.......」


 大丈夫なら、もっと普通の笑顔で。普通の声で。話してくれよ。

 恐らく、西門先生と何かがあったのだろう。そこまでは予想がつくが。その後は分からない。


「俺に話して――」


 くれよ。そう言おうと思った。でも、つい先程西門先生に言われた言葉が脳裏に蘇る。


『大人の関係に突っ込んでくるんじゃねぇーよ』


 関係ないと、無視してしまえばいいのに。心のどこに残った、夢叶への、大人への遠慮で、想いが上手く言葉にならない。


「稜くんの、その優しさに触れられただけで。私は大丈夫だよ」


 キィー、とキャスター付きの椅子が少し軋む音がした。それと同時に、夢叶が立ち上がり、俺の方へと歩み寄って来ると。

 そのまま俺を通り過ぎて、少しだけ開いていた扉をピシッと締め、そのまま鍵まで閉めた。


「ゆ、夢叶.......?」

「ちょっとだけいい?」

「う、うん?」


 後ろから掛けられた声は。不安で押し潰されそうな、弱々しいものだ。

 何で鍵を締めたのだろうか。

 ということは、俺は密閉空間で夢叶と2人きりってことか!?

 ま、まさか――


 そんな淡い期待を抱くが。そんなことないってわかってる。だけど、俺だって健全な男子高校だから。そんなよこしまな気持ちも抱いちゃう。


「何も聞かないでね」


 耳元で囁くように言われた。先ほどまではもう少し後ろにいたはずなのに。

 そう思って振り返ると、目の鼻の先に夢叶の顔があった。

 雪のように白く、キメの細かい張りのある肌がすぐそこにあり、大きく丸い目が俺を覗き込んでいる。

 あまりに真っ直ぐ見つめられるから、恥ずかしくて。だんだんと顔が赤くなるから、それを見られるのが無性に照れくさくて、俺から先に目を逸らしてしまった。


「心配はかけないからね」


 強い意志のこもった言葉が、熱の篭った声で俺の耳に届いた。

 それと同時に。夢叶は背後から俺を抱きしめた。

 背中には夢叶の柔らかい二つの膨らみが押し付けられて、少し恥ずかしさを覚えた。でも、腹部に回された夢叶の震えた手を見た瞬間、そんな感情はどこかに飛んで行った。

 なんてしょうもないことを考えていたんだ。

 自分の浅ましい考えに、反吐が出そうになった。それを奥底に抑えつけ、俺は震える夢叶の手に、自らの手を重ねた。


「心配かけてくれもいいけど、一人では抱え込まないでくれ」


 言ってもらえないと分からないから。聞くしかできないかもしれないけど、夢叶の喜びも、怒りも、哀しみも、楽しさも、全部全部分け合いたいから。

 誰にも負けない、理解者になって。ずっと夢叶と一緒に居たいんだ。


「うん。ありがと……」


 夢叶の声が涙色にまみれる。カッターシャツに生暖かいものがジワリと滲むのが分かった。所々に嗚咽が混じりだす。

 きっと、辛い思いをしたんだろう。何が原因かは言ってくれないから分からない。西門先生かもしれないし、そうじゃないかもしれない。


「稜くん、大好きだからね。私は稜くんしか見ないからね。信じてね?」


 涙をこぼしながら。嗚咽交じりに懇願される。そんなの分かり切ってる。俺が夢叶を疑うことをするわけがない。

 一度、彼女の腕を俺の体から離させてから。振り返り、向き合ってから、俺は夢叶を抱きしめた。

 ここが学校だってことは百も承知だ。でも、言葉よりも確実に俺の想いを伝えられるのはこれしかないから。

 強く、夢叶を抱きしめて。そっと囁く。


「俺はどんなことがあっても夢叶を見てるから。そんなこと心配しなくていいから」


 俺の言葉を聞いた夢叶は、堰を切ったように涙を零しながら。ぐちゃぐちゃになった顔で俺を真っ直ぐにみた。

 涙にまみれた顔なのに。とても綺麗で、俺は夢叶から目を離すことが出来なかった。そのタイミングに、夢叶は自らの顔を、俺の顔に近づけた。

 そしてそのまま、唇を重ねた。だが、勢いが余ったこともあり、歯と歯が触れて、カチッという音がたってしまった。


「ごめん。でも、したくなったから」


 ぎこちなく、不格好なキスだったけど。はじめて唇を重ねたのが、嬉しくて。

 俺のファーストキスが夢叶だったことが幸せで。好きな人と出来るキスほど、嬉しいくて、気持ちいいことはないと思う。


「い、いや。俺もその.......。嬉しかった」


 恥ずかしさから、俺たちは離れた。あまりの恥ずかしさでゆでダコよりも真っ赤になった顔を。合わせるのが恥ずかしくて、俺は夢叶に背中を向けて静かに言った。


 人差し指で唇に触れる。

 歯が当たったのは少し痛かったけど。でも、触れ合った唇は柔らかくて、一生忘れられないだろう。


「え、えっと。それでね?」


 短く咳払いをしてから。腕で涙を拭いながら、夢叶は俺に言った。


「今日呼んだのには理由があるの」


 鼻声ではあるが、少し真剣味を帯びた声色でそう放った夢叶。彼女は一度、事務机の方へと戻り、引き出しを開けた。

 そこから何かを取り出し、俺の方へ戻ってくる。夢叶に背を向けて立っていた俺の前に回り込み、紙切れを差し出した。


「補習、お疲れ様ってことで。一緒に行きませんか?」

「えっ?」


 下唇を軽く噛み、まるで交際を申し込むかのように、頭を下げた。

 俺は差し出された紙に目を落とす。そこには、


 ――姫坂市民プール入場券


 そう書かれていた。


「ぷ、プール?」

「だ、ダメ.......かな?」


 驚く俺に。夢叶は顔を少しだけ上げて、上目遣いで訊いてきた。つい先程まで涙を流していたこともあり、目に潤いがあり、陽光が反射して、キラキラと輝いているように見える。


「だ、ダメなんかじゃない! む、むしろ俺なんかでいいの?」

「稜くんと行きたいの」


 顔を上げた夢叶は、極上の笑顔を浮かべて手にある入場券を俺に手渡した。


「あんまり長くいると怪しまれるし.......」


 そう言いながら、夢叶は社会科準備室の鍵を開けた。


「今週の日曜日とか、どう?」

「え、えっと.......」


 今週の予定を思い返す。うん、何も予定ないな。てか、補習が延びるかもだったし、予定いれなかったんだ。


「あいてる!」

「じゃあ、日曜日! 詳しい時間とかはまたLINEで決めよ!」

「おっけー!」


 社会科準備室を訪れた時の様子が嘘のように、夢叶は楽しそうな表情を浮かべている。


「じゃあ、私はまだやらないといけないことあるから」


 うんざりした様子を見せながら、キャスター付きの椅子に腰をかけてから、事務机の前に座ると。

 机上にあるプリントを俺に見せた。


「本当はずっと稜くんと話していたいんだけど」


 短くため息をこぼし、夢叶はペンを手にした。


「またね、稜くん」

「うん。また日曜日」


 そのように別れを告げ、俺は社会科準備室を出た。


「やっべぇ。めちゃくちゃ日曜日が楽しみなんだけど.......」


 手にある姫坂市民プールの入場券を眺めながら、そう呟いて。みなが荘へと向かったのだった。

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