第7話 「勝ち目のない試合でも、挑めば可能性はゼロじゃないし」


 何で? 何であいつはウチじゃないんだし。


 込み上げる感情を抑えられない。あいつは曖昧な表情を浮かべながら、ウチを見て出て行った。

 そんな顔をして欲しくて言ったんじゃなんだし。

 どうしてあいつはウチを見てくれなんだし。

 目じりに熱い何かが込み上げてくるのが分かった。それがあふれ出す前に、下唇をぎゅっと噛み締めた。涙なんて流してたまるかだし。

 


「どうしたんだイカ?」

「綾人センパイ……」


 先生と電話してるときのあいつの顔が、どうしても頭からこびりついて離れない。

 嬉しそうで、照れていて、それでいて初々しくて。

 電話口から微かに聞こえていた先生の声も、そんな感じで。

 そんなの聞かされたら、ウチだって何も言えないし。


「ぜーんぶわかってるよ」


 綾人センパイはいつものふざけた口調をやめ、ウチの頭の上にそっと手を置いた。暖かくて、ウチの手とは比べ物にならないくらいに大きい。


「センパイに分かるわけないし」

「センパイだから、わかるんだよ。亜沙子ちゃんが何に悩んで、どう苦しんでるか」

「分かるわけ……」


 ないし、という言葉が喉に詰まって出てこない。

 あとたった三文字だというのに。ウチの口からは、それが出てくれない。

 代わりに、嗚咽、という違った三文字のものがこぼれ出した。


 稜くんが、本当に先生を好きなら――


「ウチに勝ち目なんてないし」


 涙と共にあふれ出した言葉。

 きっと今頃。あいつはわくわくしながら先生の元へ向かってるんだろうな。きっと、ウチとのやり取りなんて忘れて。きっと……。


「勝ち目がない試合だったなら。最初から勝負しないの? それだったらスポーツの世界で優勝する人いつも同じだよ? 捨て身で、命を賭ける覚悟で、一所懸命に戦うから、結果が変わるんだ」

「そ、それはスポーツであって、恋愛とは違いますし」

「確かに」


 ウチの反論に綾人センパイは、混じりのない優しい笑みを浮かべた。

 いつもの名詞が語尾につく変な話し方をしていない、というだけでもかなり印象が変わって見える。それと、ウチと綾人センパイとの距離が近い、ということも関係しているのだろうか。

 元々が綺麗な顔立ちをしているだけに、かなりイケメンに見えちゃったりするし。


「でもさ。結局は同じじゃないかな。人の気持ちなんてその日その日で変わるわけだしさ」


 優しい笑みを崩すことなく、綾人センパイはウチの頭から手を退ける。それから軽くウインクをして続ける。


「だって、昨日はカレーが食べたいって思ってたけど今日もカレーが食べたいって思うか分からないでしょ?」


 試すような、おちょくるような。いつもの綾人センパイとは思えない雰囲気だと、ウチは思った。


「分からないですけど。それじゃあ、付き合ってても次の日は好きじゃないかもってことになるんじゃないいんですか?」

「あはは。それもそうだね。でも、良いんじゃないかな? 稜くんをデートに誘うくらい」

「えっ?」


 あまりに唐突に吐かれた言葉に。ウチの思考はフリーズする。そして、その思考が再起動する前に綾人センパイは小首をかしげた。


「さっきのお願い事。二人で出かける、とかそんな感じじゃなかったの?」


 少し声色を変え、高くして言ったのは恐らくウチの真似をしたつもりなのだろう。だが、それ以上に。ウチは綾人センパイがウチの願いに気づいてたことに驚きが隠せなかった。


「ウチ、言ってませんでしたよね?」

「気づくよ。だって乙女の顔してたもん」


 そう言うと、綾人センパイは微笑を浮かべながらウチの手をとった。


「がんばって。応援してるヨウカン」


 最後に、いつもの如くふざけた、語尾に名詞をつける口調に戻すと。綾人センパイは居室にへと入って行った。


「乙女の顔、か」


 自分で自分の表情は確認できない。どんな顔をしていたか、ということに関しては自分より他人のが詳しかったりする。

 悔しいな。あいつにも……稜くんにもバレてたとしたら。


「ま、それはないか。稜くん、意外と鈍いし」


 綾人センパイと話して幾分か楽になれた。

 察しがよ過ぎるところとか。変な話し方するところとか。

 まだまだ分からないところだらけだけど。たぶん、根はいい人なんじゃないかなって思う。

 このままここに立ってたら、いつあいつが帰ってくるかも分からないし。


「部屋戻ろ」


 そう呟き、ウチはゆったりとした足取りでみなが荘の玄関から奥のほうに見える階段に向かう。

 ここ、みなが荘は1階が男子、2階を女子が使うことになっている。

 居室こそ共有だが、各部屋はそのように振り分けられているのだ。

 ウチは階段を上り、一番手前にある部屋に入る。


 間取りは男子のそれと変わりはない。

 備え付けであるのは学習机とベッドだけ。

 もうすぐ六月というこの季節では、ソックスは暑いだけだ。部屋に入るなり、ソックスを脱ぎ捨て、ウチは学習机とセットの椅子に腰をかけた。

 脚にキャスターのついた、動くやつだ。


「勝ち目のない試合でも、挑めば可能性はゼロじゃないし。分かってるけど……」


 挑まなければ勝率はゼロ。でも、挑んだところで勝率は五パーセントもあればいいほうだろう。

 そんな極小の可能性に賭けることなんて、ウチにはできないし。

 ウチは確実が欲しい。もう、曖昧な形で傷つくのはこりごりだから。

 誰が誰と付き合ってる。誰が誰を好きなのか。

 その場凌ぎで、曖昧にして、誤魔化してしまえばトラブルになるんだ。


 あの日の光景が目に浮かぶ。

 体つきも今とは違って幼く、身にまとう制服も高校のそれとは違う。

 ウチの隣にはいつも彼女がいた。ずっと隣にいると思ってたウチの親友の姿だ。

 そんな彼女の姿を思い出し、ウチの目にはうっすらと涙が浮かんだ。

 あいつとのやり取りの後に出かけたが、押しとどめていた涙が。いま、堰を切ったかのようにあふれ出した。


「ごめんね」


 自然とウチの口からはその言葉が零れていた。

 何も分かっていなかった嘗ての自分と、無知の自分が傷つけてしまった彼女に対する謝罪。

 消えることのない十字架が、ウチの胸を抉るように締め付けてくる。


 そんなときだった。

 少し間の抜けたような、それでいて浮かれたような声音がみなが荘の中に響いた。


「ただいま」


 それに続いて、どこか遠慮したような声が響く。


「お、お邪魔します」

「お邪魔って、ここ一応学校のものだから」

「それもそうだね」


 ――あぁ、帰ってきたんだ。


 声にならない声で、ポツリと零れた。それと同時に、ウチはあふれ出した涙を拭い去り、立ち上がっていた。

 ウチの意思とは違う行動に、ウチ自身が一番驚いている。

 そのままウチは階段を駆け下りた。


 階段の中腹あたりから、ウチらの社会科歴史の授業を担当している南夢叶先生と、稜くんの姿が視界に入った。

 楽しげに笑う稜くんの姿は、まるで恋人と話しているかのようにも見えた。

 それがまた悔しくて、奥歯を擦り切れるのではないかと思うほどに強く噛み締めた。

 そして、そのまま二人の前に行く。


「あっ、内田さんもみなが荘で生活してるんですね」


 南先生はウチを見るなり、微笑を浮かべて言った。それを無視してウチは稜くんを指差す。


「今度の日曜日、ウチとデートしてもらうし」

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