第5話 わたしのいもうと

 そこは一瞬で地獄になった。

 

「……え?」


 ……そして。ここが地獄だと理解するのには、少しだけ時間がかかった。

 まずは女性担任が頭から胴体にかけてを喰い千切られて崩れ落ちたのを皮切りに、絶望の世界に変わったのだ。


「え……?」


 噴水みたいな血飛沫を出迎えながら、皆して呆ける。膝から崩れて、女性担任の無残な死体が、どさりと地面に落ちる。


「グルルルルルッッ!」


 そして『それ』が、彼女の死体を貪り喰らう。『それ』の見た目は眼球が右目三つに左目も三つある、喉の奥まで牙の生えた黒い犬みたいな巨獣だ。見るだけで吐き気を催すようなグロテスクな巨獣で、こんなものがこの世に存在している事がおぞましい……。

 そして。そんなものが今まさに目の前に存在し、担任の先生が喰い千切られたというのが今の現実である。

 一瞬の静寂の後――。


「きゃああああっっ!!」


 現実を悟った女子が、真っ先に青ざめた顔で絶叫する。


「うわ、うわああああああっっ!!」


 それに呼応してか、皆我先に蜘蛛の子散らすように逃げ出した。

 巨獣は唸りをあげながら、逃げ遅れた獲物を喰い散らしてゆく。血飛沫が舞い、死の歌が満ちてゆく。無慈悲な死神が鎌を振るい、逃げ惑う無様なゴミ共を追いつめてゆく。


「よ~しよし。『ご立派に育っている』ねぇ~」


 そんな流血と狂気の世界にも関わらず。のんびり脱力した声音でルナは相も変わらず『わたしのいもうと』を読んでいる。


「お、お姉さん助けてよぉ!!」


 少年が助けを求めるも、少女は気にも止めずに新しい棒キャンディーを咥えた。


「ねぇお姉さんってば!! 聞いてるの?!」


 恐慌状態と怒りからか、強めに彼女の腕を揺さぶる少年。


「……」


 しかし少女は何も答えずに、少年を突き飛ばした。


「へ?」


 よろけて尻餅をつく少年。


「あんたら人が死ぬくらいでぴいぴいうるさいよ~」


 そんな彼を、氷のように冷ややかな目付きで見下すルナ。


「人が死ぬくらいで何さ~。この世界じゃ何人も死んでるよ~」


 ページを捲りながら、彼女は変わらぬのんびり口調で返す。

 

「いや~やっぱり学校だと餌が多くて助かるねぇー。すっごいでっかくなっちゃったよー」

 

 『わたしのいもうと』を読みながら、ルナは呟く。

 その時少年は悟った。


「……お前か……!」


「んー?」


 こいつは……冬月ルナは自分達を化け物に喰わせる為にここに誘き寄せたのだと。学校にいきなり変な世界が生まれたのも、今皆が化け物に喰い散らかされているのも!! 元凶はみんなこいつなんだと!!


「お前があの化け物を! ここに連れてきたのか!!」


 ぷるぷる震える拳で地面を叩き、怒りを顕にする少年。


「正確にはこの憎たらしい学校にこいつの核を植え付けて孵化させたのだよ~。後はよそーどおりー。お前らを餌にしてでかくしたって訳さー」


 そして彼女は――憎らしさに拍車をかけるような――のんびりした声で、相変わらず絵本を読んでいる。


「この人でなしっっ!!」


 少年が涙を湛えて力の限り罵倒した瞬間。


「この子はわたしのいもうと。むこうをむいたままふりむいてくれないのです」


 ……何故か彼女は、絵本の朗読を始めたのだった。


「何訳の判らないこと言ってるのさこの人でな――うぐっっ?!」


 今度は掴みかかろうとした少年を、冬月ルナは螺旋を描いて滞空する銀糸を操り縛り上げたのだ。

 少年は縛られて、こける。あの切れ味の銀糸を縛る為にも使えるとは……中々の技量が窺えた。


「いもうとのはなし、きいてください。

 今から七年まえ、わたしたちはこの町にひっこしてきました。

 トラックにのせてもらってふざけたりはしゃいだりアイスキャンディをなめたりしながら

 いもうとは小学校四年生でした」


 淡々と絵本を朗読する冬月ルナ。その様子はこの世界よりも深い闇を、その深奥で暴れ狂う狂気と怒り、そしてそれを何とか押さえつけている彼女の自制心を、感じた。


「……けれどてんこうした学校であのおそろしいいじめがはじまりました。

 ことばがおかしいとわらわれ、とびばこができないといじめられ、クラスのはじさらしとののしられ、くさいぶたといわれ、――ちっともきたない子じゃないのにいもうとがきゅうしょくをくばるとうけとってくれないというのです……」


 飛び交う血飛沫の中、抑揚も無く絵本を朗読してゆく無表情のルナ。しかし……言葉の端々に力が宿ってくる。その様子はまるでそう、こちらの心に刻み込もうとしているようだった。


「とうとうだれひとり、口をきいてくれなくなりました。ひと月たちふた月たち。えんそくにいったときも、いもうとはひとりぼっちでした」


 絶叫が聞こえてくる。遠くの彼方から。近くで起きている惨劇の筈なのに、ずっとずっと、音が遠くから耳に届いてくる。


「やがていもうとは学校へいかなくなりました。ごはんもたべず口もきかず。いもうとはだまってどこかをみつめ、おいしゃさんの手もふりはらうのです」


 ……それはきっと彼女の心の奥底に染み込み浸食していくような朗読から、心が離れないからだろう。淡々と読み聞かせるような語り口に、彼女の世界が滲む。


「でもそのとき、いもうとのからだにつねられたあざがたくさんあるのがわかったのです。

 いもうとはやせおとろえ、このままではいのちがもたないといわれました」


 さらに一節一節を丁寧に読み聞かせ、刺繍のように気持ちを織り込んでゆく冬月ルナ。


「かあさんがひっしでかたくむすんだくちびるにスープをながしこみ。だきしめて、だきしめて、いっしょにねむり。子もりうたをうたって。ようやくいもうとはいのちをとりとめました」


 すぐ傍では虐殺。流血が舞い、肉片が喰い散らかされる。そんな中で彼女の朗読は、天使の歌のようだった。


「……そしてまい日がゆっくりとながれ。いじめた子たちは中学生になってセーラーふくで、かよいます。

 ふざけっこしながら。

 かばんをふりまわしながら。

 でもいもうとは、ずうっとへやにとじこもって本もよみません。レコードもききません。だまってどこかを見ているのです。ふりむいてもくれないのです。

 そしてまたとしつきがたち。

 いもうとをいじめた子たちは高校生。

 まどのそとをとおっていきます。

 わらいながら。

 おしゃべりしながら……」


 さらに進む朗読。少年はあまりの凄惨さに耳を塞ぎたくなった。しかし……縛られているのでそれは叶わない……。


「このごろいもうとはおりがみをおるようになりました。

 あかいつる、あおいつる、しろいつる。

 つるに、うずまって。

 でもやっぱりふりむいてはくれないのです。口をきいてくれないのです。

 かあさんはなきながらとなりのへやで、つるをおります。つるをおっているとあの子のこころがわかるようなきがするの……。ああ私の家はつるの家。わたしはのはらをあるきます。くさはらにすわると、いつのまにかわたしもつるをおっているのです」


 その瞬間。彼女は絵本を手離した。落下する絵本は地面に落ちる前に、幾重にも銀糸が絡み付き細切れに切断し、絵本を塵へと帰してしまう……。


「……ある日、いもうとはひっそりと死にました。

 つるをてのひらにすくって花といっしょにいれました。

 いもうとのはなしはこれだけです」


 冬月ルナは片膝をついてかがみ込むと、少年の顔を覗き込んだ。美少女然とした整った顔立ちと強い双眸が少年をまっすぐ見据える。

 その眼差しを見た瞬間。少年は顔中から血の気が引いていった。

 気づいたのだ。彼女の双眸に暗い復讐の焔が見えた事。

 そして、その焔を消したいと言いたげに湛えられ、永遠に癒えない心の傷を癒す為に流れ落ちている涙に。

 まっすぐに憎しみと悲しみを受け止めて。彼は絶句して蒼白になった。それほどまでに彼女の顔は衝撃的で。思わず隣に転がってきたクラスメイトの首の事など見向きもしない程だった。


「わたしをいじめていたひとたちは、もうわたしをわすれてしまったでしょうね」


 冬月ルナは何かを取り出した。

 それは色紙だった。サインや、お祝いの言葉を書くあの色紙。

 ……だけど。書かれていたのはお祝いの言葉ではなかった。『死ね』とか『消えろ』とか『学校に来るな』とか『死んだら形見分けで何かちょーだい。いらないけど』とかそんな言葉がぎっしり真ん中の名前を中心に書かれている。

 『冬月タカシ』。それがこの色紙が贈られた人物の名前だった。


「……あそびたかったのに、べんきょうしたかったのに」


 とん……とん……と人差し指で、冬月タカシの名前を叩くルナ。


――私の名前は『冬月ルナ』だよ~。まぁしばらくの間しかいないから憶えなくて結構だよ~――


 不意に彼女の自己紹介が思い出されて、少年はがたがたと脅えた。そうだ。彼女は何て名乗った? 冬月ルナって……言わなかったか?!


「……ところで君の名前はどこにあるのかな~? お姉さん君たちがタカシのクラスメイトだってのは探り当てたのだけどね~?」


 色紙を摘まんで首を傾げる冬月ルナ。


「私には弟がいたの~。まぁ君たちは知ってるだろ~けどね~。弟が、いたんだぁ」


 ぼんやりした口調で、冬月ルナは語る。


「……でもうちの弟さ~。ある日から塞ぎ込んじゃたのよ~」


 周囲ではまだ、殺戮が続いている。少し静かになったのは、もう息をしている人間がいないから、だろう……。


「私はどうしてだか判んなかった……。だって別々の学校だったし歳も離れてたもんね……家族の奴らは弟の事を巡ってバラバラになっちゃったよ~」


 遠く、久遠とおくの彼方を見るように。今はもう無き思い出を懐かしむように、彼女は双眸を細めた。だが彼女が見つめるその先は美しい思い出などではなく。今なお、魔獣が人間を喰い散らかす殺戮の渦中である。


「でもやっと。君たちが弟をいじめていたのを掴んだよ~。

 ……まぁその時には。もー遅かったけどね~」


 口調は相変わらずのんびりだが、その顔には辛い陰が差し込んでいる……。


「……弟は家出した。家出して、一番好きだった場所――まだ家族がバラバラじゃなかった時にピクニックで来た思い出の山の中で、首を吊っていたよ~」


 上の空のような口調で一方的に喋っていた冬月ルナだったが……。


「……まぁ何とか必死に降ろそうとした瞬間にぃ~、こいつから遺体を喰われちゃったけどねぇ~……!」


 顔を下げて、すっ……と鋭い眼差しで、魔獣と……喰われた連中を睨む。魔獣はまだ、凄惨な食事の最中だった。


「私はいつだってなんにもできなかったね~……両親の弟を巡った喧嘩も止めれなかったしいじめも止めれなかったし寂しかった弟の心も慰めれなかったし……お願い何でも叶えてもらえる筈の勇者の誓いでも、弟を蘇らせられなかったよ~……」


 深い後悔を言葉の端々に宿すルナ。


「……ご、ごめんなさい!!」


 銀糸に縛られたまま頭を下げて謝罪する少年に、


「んー?」


 意味が判らないと言いたげに小首を傾げる冬月ルナ。


「い、いじめちゃってごめんなさい!! その……本当にごめんなさい!!」


「私に謝ってもタカシは蘇らないよ~。だからいくらそんな事言っても効果無しだよ~♪」


 不必要なぐらい朗らかに返す冬月ルナ。その明るさからは彼女の怒りと狂いぶりと、全ての拒絶の意志を感じた。


「ねぇ……何でうちの弟を選んだの~? うちの弟って君たちからいじめられるぐらい悪い子だったかなぁ?」


 頬に手を当てて、屈んだまま首を傾げて尋ねる冬月ルナ。


「わ、判らない!! 判らないよ!!」


「判らないのに皆でやっちゃったの~? 先生達や学校までグルになって隠して~」


 ふんわりした口調で糾弾するルナ。


「そんなの判らない!! いじめられるあいつが悪いんだ!!」


 とっさに口走る少年。


「まぁ……そぉかもねぇ~」


 冬月ルナはのんびりと立ち上がると、


「どこかに何かの理由があったのかもね~。うちの弟は良い子だったけどそれは私から見た評価だけだったし、うっかり君たちの逆鱗に触れたかも知れないし、たまたま君たちの虫の居どころが悪かったのかも知れないし~

 ……まぁ事実としてさ、うちの弟は苦しんだ挙げ句に死んで、君たちは楽しそうにのうのう生きている訳ですが」


 ちらりと零下の眼差しで見下す冬月ルナ。その様子に背筋が震え上がる少年。


「……ところで君? 何人か助けたくないかなぁ~」


 んーっと悪戯っぽく人差し指を口に当てて。冬月ルナが提案してきた。


「……え?」


 現実を受け入れられない少年に、


「だからぁ。誰か数人、助けてあげてもいいよぉ~。君が選んで、君が捨てて。誰かを選んでちょーだいな♪」


 にやにやと笑う、冬月ルナ。


「そ、そんなの出来ない……」


「あらいいのぉ~? 皆死んじゃうけど……君って残酷だねぇ」


「判ったよ! 判ったよっっ!! 今生きている全員でっっ!!」


「今度は欲張りさんだねぇ~。まぁいいやぁ~。おねーさん年下の男の子からお願いされると弱いんだぁ……♪

 いいよぉ~。君も含めて今生き残っている人全員、生かしてあげるぅ~」


 にこっと屈託なく笑う冬月ルナ。


「ほ、本当!?」


 少年が安堵に顔を綻ばせた瞬間。


「うん。私は君たちなんかと違って隠したり嘘をつかないよぉ~。だから今生き残っている人全員助けてあげるよ」


 皮肉と共に甘く笑うルナ。

 刹那。大量の銀糸が蛇のように舞い踊り、今生き残っている者達に纏わりつく。


「た・だ・しぃ♪ 私の人形としてだけど、ねぇ♪」

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