地 補足 ―其の思い、移りにけるや―
―午後二時―
―伊豆・神着地区 伊豆岬灯台―
その古風なジャケットを羽織った、この場所には似付かわしくない紳士な格好をした男は、ただ、黙って錆びた灯台を背に、立っていた。
周囲には何も無く、その小さな灯台は、火山からの亜硫酸ガスが生み出した酸性雨を浴び、錆だらけで腐食していた。
それが更に、この灯台を目立たせた。
曇天だった空から、雨が降り出した。
流れ雨の様だが、少し激しい。
亜硫酸ガスの影響もあり得るし、灯台の中に入ろうとした矢先だった。
??「Sさん…」
声を掛けられた方をゆるりと振り返る。
S「やっと来たか…」
そう言いながら黒い男を見詰める瞳は、少し、哀しげだった。
黒い男の格好はボロボロで、左手に"閻魔"だけを持っていた。
S「無事か?」
その言葉を掛けるや、黒い男はSの肩に両手をかけ、詰め寄った。
閻魔が音を立てて地面に落ちる。
黒い男「オレを…ッ 強くして下さい…! 知識も…!」
Sは何も言わず、黒い男の顔を見詰めていた。
―4月中旬 深夜―
―虎ノ門五丁目 路上―
協会から託された依頼―自分にとっては三度目の戦い―…
正直緊張している。
渡された道具に関してはレクチャーは受けた。
だが、不安だ。
その理由はコレだ。手元に在る道具―…
Sさんに渡された一丁の銃。
必要だと。
でも、受け取った瞬間に血の気が引いた。
手渡されたベレッタは冷たく、コレが命を奪うのだと判っていたが、解ってはいなかった。
頭で解っていても、心では解っていない…
拳や脚…
その意味は直ぐ解った。
案の定、自分の鈍(なまくら)空手ではどうにもならなくなったのだ。
どれだけ
相手はまるで痛覚が無い生ける屍の様な―
結局自分は、
だから銃の引き金を引けなかった。
それに尚のこと質が悪いのは、対象のその形状だ。
最初に対峙したのは小動物の様な形状の全身が、水晶の様に結晶化した化物だった。
しかもその部位毎の結晶には
映っている結晶には怪我をしているのか傷付いていたり、火傷を負ったのか水膨れで膨らんでいたり、壊死しているのか真っ黒になっていたり…だが、角度を変えると健康そうな状態も映っている。
つまり、結晶の中には全ての状態が在ったのだ。
健康な状態も、瀕死の状態も。
だけれども、そんな事を意に介さず、結晶化している部位は滑らかに動き、襲ってくる―非日常過ぎて恐怖を覚えた。
…何より恐れたのは、
動きは虚ろなのだが、結晶に映っている部分は
まるで別の人生を歩んだ可能性というか…全てが在った。
その映る顔や身体と動きとのアンバランスさが、一層恐怖を掻き立てた。
黒い男「ぅわぁぁあ!!」
情けなくも叫び出し、尻餅を突いてしまった。
深夜の街中とはいえ、この辺りはバブルの煽りでゴーストタウン化し、誰も反応などはしない。
人の居ない住宅街の真っ只中で倒れ込んだ自分はみっともない状態に見えるだろう。
だが、そんな状態に陥っても、自分でどうにかするしかない。皆、戦っているのだから。
そんな冷めた思考が頭の隅に在る。
そのせいか、助けを求める声は出せなかった。
しかし、無理だった。
顔の結晶は歪で中の顔が見える。
それが駄目だった。
黒い男「! あ…! ぁ…!」
声に成らず、だらしなく、座り込んだ状態で銃に手を掛け、その人型の化物に向ける。
撃たなければいけない。
頭では解っている。
だが、引く気は無い。
いや、正確に言えば
銃を構えた両手はブルブルと震えており、照門と照星が合わせられない。
黒い男「くッ…! そッ…!」
悔しくて声が漏れる。
答えは解っている。撃てば良い。
だが、怖い。恐い…
手元に握っているコレは命を奪うモノだ。
撃てば命を奪える。
奪わずとも、大怪我を負わせる。
当たり所が悪かったら?
もし撃たずとも助けられるの
そんな浅はかな思考が眼前の恐怖と相俟って、躊躇という名の恐怖を生み出す。
撃ってしまえば、咎を背負う。
ひとごろしの―…
そうこう思惑している間にも、その人型は目前に迫る。
虚ろなその身体はゆっくりと自分に近付き、手を伸ばしてくる―それはまるで、苦痛から逃れたいが為に助けを求める様な…
その腕が震える
今にも捕まれそうだった"
腕を斬られた化物はフラフラと後ろに向かって背中から倒れ込む。
手にした"閻魔"を背中に掛かっている鞘に収めると、こちらを向いた。
S「渡した銃を構えるんだ 効かなくとも足止めにはなる」
冷静な、ハッキリと淡々とした口調に、何も出来なかった申し訳なさで視線を横に逸らしてしまう。
黒い男「でも…アレは…」
S「敵だ 斃さねばならない そうしなければ、被害は此処より拡がってしまう 私達が止めねばならない」
正論だ…そう、心の中で呟く。でも…
黒い男「でも…! 生きているんですよ! 人の形をして…! それに救えるかどうかも」
S「救う事は出来ない」
其処迄述べて、Sに遮られる。
S「少なくとも、今は無理だ 我々に出来る事は、滅する以外無い」
辛い言葉、辛い現実―…今、間違いなく、その壁にぶつかっていた。
今までの素手での殴打によって戦闘不能にする行為では無い、"殺し合い"を行うという壁に―…
黒い男「でもッ…! 殺さなくったってッ…!! なんとかッ…! 捕獲したりして…!」
S「
それは、世の中には
黒い男「だってッ…! 生きてるのにッ…!」
それでも、どうにも出来ない世の理不尽さと、経験した事の無い重責に、感情が爆発し、言っている事はもう支離滅裂になった。
S「撃ちたくないんだな…初めての事に…恐くて…命を奪う事に…それに、殺したくはない…」
その心情…心の弱さを見透かされた様で、目頭が熱くなり鼻腔が苦しくなり、眼をSから逸らす。
S「気持ちは解る…
その言葉には"力"が在った。
そこまで自分を理解してくれた人間など、自分の周りにはいなかったから。
純粋に嬉しかった。
S「…銃の撃ち方は解るな?」
そう静かに述べると、背中の"閻魔"に手をかける。
黒い男「…何度か射撃の練習は…してます…」
力無くだが述べる。
S「それならば、私が斬るまでの間に足止めを頼む」
そう言って、こちらの了承を得る前にゆるりと起き上がりだした化物に跳躍する。
震える両手で銃を構え、必要以上に狙いをつける。
トリガーに指を掛けるが、とても重い。そう感じる。だが―…
黒い男「あぁぁぁぁ!!」
重いトリガーを引くために、全身の力を込めて、指を動かした。
自分が今、やらなければならない事のために―
それが、初めて"命を奪う行為"を行った時だった―
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