01-3
◆◇◆◇◆◇
「そ、そんなことは関係ありません。社長、冷静になって下さい。僕は優秀です。それは紛れもない事実です!」
まさか自分が疎まれていたとは思わず、モーリヘンは必死になって弁解する。特に、相手が絶対に機嫌を損ねてはいけない社長であることも、彼の弁解に拍車をかけていた。しかし、ラジウォルは彼の自己アピールに乗せられることはない。
「顔のない社員が、我が社の名刺を手に得意先に行くのかね。悪い冗談だ。それに、君が担当していた部署は、既に他の社員を充てている。何も問題はない」
会社の社員という大事な大事な自分の居場所を奪われ、とうとうモーリヘンの目があるとおぼしき場所から大粒の涙が浮かんできた。同情心をひくための嘘泣きではない。正真正銘の男泣きである。
「社長、あんまりです! 今まで身を粉にして働いてきた社員に、こんな無慈悲な態度はひどすぎですよ! 人道にもとります!」
本人としては必死の抗弁だが、ラジウォルは皮肉っぽく口元を歪めた。
「おや、常々リスクを切り捨て、無駄を排除するよう提言してきた君の口から、そのような感情的な言葉を聞くとはな。珍しいこともあるものだ」
リスクを切り捨て、無駄を排除する。それ自体は確かに、会社の運営上好ましい提言である。だが、かつてモーリヘンが社内で意気揚々とした提案は、そのために成績の悪い人材をどんどん削り、人件費を浮かせるというものだった。まさか自分が、その削られる人材の側になるとは思いもよらなかったのだろう。
「いい機会だ。少し仕事から手を引き、休みなさい。それが社長である私の判断だ」
茫然自失のモーリヘンを見て、ラジウォルは少しだけ穏やかな言葉をかける。だが、彼は聞いていない。今モーリヘンの顔が見えるのならば、その目が落ち着きなく左右に揺れ動いているのが見えただろう。
「僕の居場所が……ない」
生気のない声でモーリヘンは呟く。
先程まで自分が啖呵を切った上司も、それ以外の社員も、皆忙しげに仕事に戻っている。ただ一人、モーリヘンを除いて。今、彼は明らかに会社の中の余分であり、無駄だった。
「僕の顔が……なくなってしまったんだ」
妖精に顔を奪われた時にはまったく感じなかった、自分の顔がない感覚。それを今、モーリヘンははっきりと全身で感じていた。
◆◇◆◇◆◇
「ふむ、まるで図書館だな。しかし、本の代わりに顔が並んでいる」
どことも知れない奇妙な場所を、エルロイドとマーシャが歩いている。二人から少し遅れて、オレザもその後に続く。三人が歩いているのは、大きな図書館を思わせる広々とした間取りの屋内だ。しかし、棚に並べられているのは、立派な装丁の大冊ではなく、膨大な量の仮面である。
「これは……全部、妖精によって奪われた顔なんでしょうか」
そのすべては平面的でありながら、生きた人間の顔そのものだ。まるで鏡に映った人の顔を、その鏡ごと仮面に仕立て上げたかのようである。いずれも目を閉じているからいいものの、見ようによってはかなり不気味だ。こんな超自然の産物を作り出すのは、妖精を除いて他にはない。
「そうではないだろう。もしそうならば、過去の文献に『人の顔を奪う妖精』の記述があるはずだ。しかし、帝国でもっとも妖精について博学であるこの私をしても、そのような妖精についての言及を見つけることはできなかった」
エルロイドは足を止めると、棚にあった仮面の一つを手で取り上げ、即席の講義を始める。
「恐らく、死者の顔からデスマスクを取る要領で、この妖精は人の顔の型を取ってコレクションする性質があったのだろう。たとえ奪うとしてもごく短期間のため、取られた方は幻か何かと勘違いしたに違いない」
不可思議かつ不気味な仮面も、エルロイドにとっては妖精の引き起こす興味深い現象のサンプルでしかないようだ。
「私たちもどうやら顔がないようですけどね」
マーシャはそう言って自分の顔を撫でる。その言葉の通り、マーシャの顔は造作が曖昧で、まるで霧がかかっているかのようだ。
「ふむ。マーシャ、顔のない君は実に奇妙だな。見ていて不安になる。すぐに元に戻りたまえ」
そう言うエルロイドもまた、マーシャやモーリヘンと同じ状態である。
ここは妖精が住まう別世界である〈妖精郷〉に程近い場所のようだ。恐らくここを根城にしていた妖精はとうに去り、その超常の力だけが残っているのだろう。マーシャとエルロイドはその力により、現在顔を奪われている。力の行き先を辿って何とか妖精のコレクションにたどり着いたはいいものの、二人は目下自分たちの顔を探す羽目になっていた。
「できるのでしたらとうにしています。教授こそ、お顔が見えないのははっきり言って気持ち悪いです」
「むむむ、目鼻立ちがないだけで、私の鋭敏な頭脳は無事だぞ。その言い草はないではないか」
エルロイドは不機嫌そうに腕を組む。
「……よく考えば、雰囲気も頭の中身も口調も全部普段の教授と変わりませんね。確かに、些細な問題です」
「そうだろう。そうだろうとも。私としては、この珍妙な体験を少しは楽しみたくもある」
マーシャとしては、顔がない今の状態は何となく落ち着かない。顔がないのを確かめる術はないのだが、隣のエルロイドを見ると自分がどういう状態になっているのかよく分かるため、実に落ち着かない。楽しんでいるのは、エルロイドだけである。
「……あの」
と、ここでそれまで蚊帳の外だったオレザが会話に加わる。
「あ、すみません。ご不安ですよね、オレザさん」
「え、あ、はい。まさか、その、こんなことになるなんて」
きょろきょろと辺りを見回しつつ、オレザは言葉を続ける。彼女の顔は、幸い失われていない。妖精の魔手が伸びる前に、マーシャがその目を使い保護したからだ。
今もまた、周辺の虚空からもやのような手が伸びる。それは明らかに、オレザの顔へと向かおうとしていた。しかし――
「おやめなさい。その人に手を出してはいけませんよ」
マーシャが静かに、しかしはっきりとそう命じると、もやのような手は引っ込んでいく。その声にはかすかな威厳さえあり、彼女はこの場において他の誰よりも毅然としていた。
「安心したまえ、夫人。私も助手のマーシャも、このような超常の体験は慣れっこだ。この程度の問題、瞬く間に解決して見せようではないか」
妖精女王の目を持つ者は、妖精の力の残滓にさえある程度の権威を行使できるのだ。マーシャの力を得意げにオレザに紹介するエルロイドだったのだが……。
「ところで教授、何をなさろうとしているんですか?」
「研究の一環だ。この他人の顔を私がはめた場合、どのような変化が起きるのだろうか?」
「きょ、教授?! 今すぐお止め下さい!」
先程の威厳をかなぐり捨て、マーシャは大慌てで彼を止める。
「ふむ、君はずいぶんと保守的だな」
「別人の顔の教授など、不気味なだけですから!」
まだまだ、二人が自分の顔を見つけるのには時間がかかりそうだ。
◆◇◆◇◆◇
「ええと……これです」
「なるほど、これが私の顔か」
半時間ほどして、どうにかこうにかマーシャはエルロイドの顔をした仮面を探し当てた。
「……やはり、自分の顔というものは分からないのか。不思議だな」
彼女の差し出した仮面を受け取り、エルロイドはしげしげとそれを眺める。不思議なことに、奪われた本人には仮面の造作が認識できないらしい。
「まあいい、では……」
詰まるところ、自分の顔というものは鏡を使わない限り普段見ることはない。それと同じように、奪われた顔の造作は他者にしか認識できないのだろう。マーシャから受け取った仮面を、エルロイドは躊躇なく自分の顔に当てる。すると、その仮面は滑らかに彼の顔と同化し、たちまちエルロイドの顔は元通りになった。
「どうだね?」
「ええ、すっかり元通りです」
「よし、ではこちらがマーシャ、君の顔だ」
顔を取り戻したエルロイドは、自信満々の表情で一つの仮面をマーシャに渡す。受け取ったマーシャは、改めてそれを見つめた。ただの白い滑らかな仮面にしか見えない。自分の顔だと言われても、何の特徴もないのだからうなずきようがない。
「どうしたのかね? まさか、私の見立てを疑うつもりかね?」
「いえ、そうではないですが……」
改めてマーシャは左目で仮面を注視する。言わば「二枚目の瞼」を開くような不可思議な感覚と同時に、彼女の左目がエメラルドのような輝きを放つ。そしてマーシャには見えた。仮面が確かに、鏡で見る自分の顔をしていることに。
「ええ、間違いないです」
そっとマーシャが仮面を顔にはめると、たちまちエルロイドと同じようにそれは彼女の顔と一体化して元に戻った。
「当然だろう。私の記憶力を侮ってもらっては困る」
自画自賛に余念のないエルロイドだが、すぐにオレザの方へと関心を移す。
「では、残るはドッドラーニー君の顔だけか。私の見たところ、恐らくはこれだと思う」
エルロイドの右手が、近くのテーブルに置かれた三つの仮面を指す。そこには似たような造作の顔が三つ映っている。エルロイドとマーシャが、自分の記憶力を頼りに選んだ、モーリヘンの顔である。二人はモーリヘンの自宅で彼の写真を何枚か見ていたため、何とか彼の顔を探すことができたのだ。
「夫人、実際のところどうだろうか」
「ええと……」
顔を近づけて一つ一つ仮面を吟味したオレザだが、最終的に首を左右に振ってしまった。
「わ、分かりません」
「分からない? そんなはずはないだろう。君は彼の妻ではないか。私たちよりもずっと、彼の顔を見ているはずだ」
「いいえ。きっと、あなたたちと同じくらいしか見ていないのでしょう」
がっくりと肩を落とし、オレザは呟く。
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