舞の場合
少女は、薄暗い部屋に立っていた。
無人の空間に自分の足音だけがコツッ、コツッと響き渡る。
電気を点けてもいい。しかし点けたくはなかった。
まだ全ては見えていない、この嫌な予感はきっと自分の気のせいなんだ。いつまでもそう思い込んでいたかった。
コツッ、コツッという足音が、クシャッという嫌な音に変わる。
床一面中、乱雑にまき散らされた何かが覆っている。
これは気のせいだ。気のせいなんだ。
震える手で携帯電話を開き、ライトで床を照らし出した瞬間、
「きゃああああっ!」
弾かれるようにして舞の上半身が起きる。
蛍光灯が眩しい。おでこが痛い。どうやら勉強机に向かったまま寝ていたようだ。
夢だったことに気付いて、舞はぐったりとする。髪の毛に手を触れてみると、寝ている間にだいぶ乱れてしまったようだ。
壁の時計を見ると、もう朝の七時前だった。
机で寝落ちしてしまうのも、あの夢を見るのも、この町に来てからは初めてのことだった。気分は絶不調で学校も休んでしまいたいほどだが、なんとか自分を鼓舞して立ち上がる。
台所には置き手紙があった。
「おはよう舞ちゃん。今日は珍しく遅起きかな? お姉ちゃんは先に仕事に行きます。
相変わらず筆圧の弱い、だけど流麗な字だった。横には朝食と、お昼のお弁当が置かれていた。
舞はハムの乗ったトーストとスクランブルエッグを温め直す。冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに入れるとぐいっと一気に飲み干す。
舞はこの部屋で姉の京子と二人暮らしをしている。正確には、仕事のために一人暮らしをしていた京子の部屋に、この春から自分が転がり込んできた。
舞の使っている部屋は元々、姉がこの部屋を借りた当時に交際していた恋人が物置に使っていたらしいが、数か月前に破局。ちょうど舞の引っ越しの話が出ていて、「こんな部屋、空けておく方が嫌だから、今は舞の好きなように使っちゃって」と言って、あっさり舞の入居が許された。
舞は自分の部屋に戻り、気分転換に窓から外を眺める。
五階の部屋のすぐ真下には、あの川が流れている。窓を開けて顔を出すと太陽が眩しくて目を細める。ツバメが空を横切り、その遙か上ではひこうき雲がたなびき、白いラインが空を二つに分けている。
いいところだな、と思う。
引っ越してから半月ほど。まだこの周辺しか歩いてはいないが、そこそこに便利だし、そこそこに景色がいいし、何より人が心地良い。「優しい」とかとはまた違う、「心地良い」だった。
鍵をきちんと閉めて舞は部屋を出る。廊下で隣の部屋のスーツ姿のお姉さんと出会い、おはよう、と気持ち良い挨拶をもらう。少し固くなりながらも、精一杯微笑んで挨拶を返せた。
マンションを出て、通学路を歩いていると、背後から自分の名前を呼ぶ声がした。
「おーい、三鷹さん」
駆け寄ってきたのは祐司と、知らない女の子だった。
「おはよう、三鷹さん」
「おはようございます、高崎君、と」
「ああ、こいつは妹のめぐみ」
彼はその肩をポンと叩き、めぐみは「よろしくお願いしまーす」と元気に一礼をする。
「へえ、高崎君には妹さんが」
「うん。三鷹さんはきょうだいとかいる?」
「年の離れた姉がいます。今は二人で暮らしていて」
それを聞いためぐみが、わあ、と感嘆の声を漏らす。
「お姉ちゃんって羨ましいです。でも姉妹で二人暮らしって、ケンカとかしないんですか?」
「いえ……全くしませんね。そもそも年が離れているからか、昔からあんまりいがみ合いとかもしたことがなくて」
姉はお茶目で優しい人なのだ。甘えたがりの舞はずっと彼女を頼ってきた。何かあれば、いつだって。そう、今回の引っ越しだって……。
舞はつい暗い気持ちになっていたが、幸い相手はそんな様子に気付いていないようだ。
「やっぱりお姉ちゃんっていいな。うちもお兄ちゃんじゃなくてお姉ちゃんなら良かったのに」
「バカなこと言うな。お前が小さい頃、俺がどんだけ世話をしてやったか」
などと言い合い始め、気付けば舞はクスッと笑っていた。
「あ、三鷹さん、今の笑い方いいね」
突然の祐司のセリフに、舞は思わず赤面して、あ、ええと、とうろたえてしまう。彼も、どうやらついポロッと漏らしてしまったようで、恥ずかしそうに頬を掻いている。
「何調子乗ってんの、このセクハラ兄貴!」
「痛って! お前カバンはダメだ!」
そこから口ゲンカが始まってしまう。慌てて「やめてください」と言いながら、舞は頭の片隅で思っていた。
ああ、やっぱりこの町の人は心地良いな。
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