第3話 手作りクッキー

「おおおー……」

 ついそんな間抜けな声が漏れてしまう。

 真昼さんの両親は共働きらしく今は不在だった。彼女が一人っ子だという話は道すがら聞いていたので、つまり家の中は真昼さんと私の二人だけということになる。

「そんな大したものじゃないわ」

 とまずは謙遜の姿勢を見せる真昼さん。ついでにさりげなく、ポットの紅茶を私のティーカップに注いでくれた。

 目の前のお皿の上には、昨日彼女が焼いたというクッキーが整然と並べられていた。ほのかに漂う香ばしい香りに思わず手が反応しかけるが、先に一言断りを入れるのが礼儀というものだろう。

「さっそくだけど、一つ頂いてもいい?」

「ええ、一つと言わずたくさんどうぞ。口に合えばいいのだけれど……」

 心配そうに見つめてくる真昼さんの視線にさらされながら、小麦色に焼かれたクッキーをひと欠片、口に含んで咀嚼する。

 思わずこぼれ出た感想は実にシンプルだった。

「……お、おいしい!」

「本当? それなら良かった」

 そう言って真昼さんは僅かに微笑んだ――ように見えた。それは私の願望が混ざっていたのかもしれないけど、少なくとも安堵しているような表情には見えた。

 彼女が焼いてくれたクッキーは実際に甘さの加減が絶妙で、市販品以上といっても過言ではないレベルのものだった。

 ……しかしそのおいしさとは別に、私の心にはふと別の疑問が浮かんだ。

「真昼さん、このクッキー、昨日焼いたんだよね?」

「そうね」

「でも、今日まで試験だったじゃない?」

「え、ええ」

「もしかして、今日眠そうにしてたのって……?」

「…………」

 真昼さんはすぐには答えなかったが、真っ白な頬にくっきりと朱が差していた。ポーカーフェイスっぽく見えるのに、案外顔に出やすいらしい。

「その……試験勉強をしなきゃいけないとは思っていたのだけれど、気晴らしにクッキーを作り始めたらあっという間に時間が経ってしまって……それで遅くまで勉強していたら、つい……」

 真昼さんには申し訳ないけど――そうやって必死に弁明する姿はどこか愛らしさが滲み出ていた。彼女の神聖なイメージが、いい意味で少しずつ崩れていく。

「そっか、じゃあ、もしかして今も眠い?」

「ううん、バスでだいぶ寝かせてもらったから、もう平気」

「なら、のんびりしてっても大丈夫?」

「ええ」

 改めて考えると、こうして真昼さんと普通に会話できているのがとても不思議だった。

 昨日まではほぼ赤の他人って感じだったのに、今は真昼さんの手作りクッキーを口にしながら他愛のないお喋りに興じている。そのなんてことないひとときがひどく新鮮に感じられるのだった。

 ひとまずここに来た一番の目的は達せられたものの、正直まだまだ物足りない気持ちだった。

 せっかく家にあげてもらったのだから、せめてちょっとでも真昼さんの私生活の様子を覗いてみたくなったのだ。

「ね、ねえ、少しだけお願いがあるんだけど……」

 私がそう話を切り出そうとすると、真昼さんは即座に「ダメよ」と眉間に皺を寄せながら言った。美人が睨むと迫力がある。

「まだ何も言ってないのに……」

「言わなくても分かるわ。私の部屋を見たいってお願いするつもりでしょう?」

「うぐぐ……」

 完全に心の内を読まれている。

 流石は真昼さんといったところだが、もうひと押しくらいはしてみる価値がありそうだ。

 私はテーブルの上で手を突きながらぺこりと頭を下げた。

「そこをなんとか頼みます、真昼さま」

「へ、変な頼み方したって、ダメなものはダメ。私の部屋を見たら、きっとみつはさん笑うもの」

「どうして? 大丈夫だよ、私なに見ても絶対に笑わないから」

 顔を上げて、上目遣いに真昼さんの瞳を見つめる。全てを飲み込むような、黒々とした小さな宇宙がそこにある。

 彼女は何かを試すようにしばらく無言で私を見据えていたが、やがてふうっと息を吐き出して視線を逸らした。

「……本当に笑わない?」

「うん、笑わない」

「ほんとにほんと?」

「ほんとにほんと」

 真昼さんの信頼を勝ち取るため、自信を持って言い切ることに努める。

 またしばらくの間があった。まな板のタイだかコイだかいうことわざがあったなあと不意に思い出した。

「……変わってるわね、みつはさん」

「ええー、そうかなー?」

 謎めいた美少女の私生活、誰だって気になるものなんじゃないだろうか。直接お願いしたのは私が初めてなのかもしれないけど。

「でも……そうね、分かったわ。そこまで言うのなら、私の部屋でお茶にしましょうか」

「わーい、やった!」

 鏡はないが、自分がひどいにやけ面をしているであろうことは見るまでもなかった。

「その前に……少し部屋を片づけてくるから、ちょっとだけ待っててくれる?」

「うん、もちろんいいよ」

「それじゃあ、また呼びに来るから」

「りょーかい」

 ぶんぶんと大げさに両手を振る私。

 きっと端から見ると、ご主人様の帰りを待つ忠犬のように見えたことだろう。

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