第2話 居眠りと日傘

 ……しかし、困ったことになった。私は真昼さんがどのバス停で降りるのか知らないのだ。

 少なくとも、私が降りるところよりももっと先のバス停であることは確かだ。今までも何度か真昼さんと同じバスに乗り合わせたことがあるから、それは間違いないはず。

 となると、そろそろ真昼さんを揺り起こして降りる準備をした方が良さそうだが……。

「……すう」

 一度眠りについてから、彼女は一向に目を覚ます気配がしなかった。

 あまりにも気持ち良さそうな寝顔を見ていると、無理やり起こすのも忍びなく思ってしまう。

 バスは既に減速を終え、本来私が降りるべき駅へと到着していた。ブザーと同時に降車口の扉が開く。

 最後の最後まで迷ったけど、その天使のような寝顔には逆らえず、結局座り続けたまま扉が閉まるのを待った。

「これは反則だよね……」

 誰に言うでもなく呟く。

 まあ、彼女の無防備な顔をもうしばらく観察できるのかと思えば、それはそれで悪くない気分だった。美人は三日で飽きるというのはたぶん大嘘で、本当に美しい顔はいつまでも見ていられてしまう。

 と、そこで私は真昼さんの学生鞄にぶらさがっているあるものの存在に気がつく。パスケースだ。猫をモチーフにした可愛らしいパスケースの中には、当たり前だがこの路線バスの定期券が差し込まれていた。

 他人のものに勝手に触れるのは少々気が引けたが、今は非常事態だということにして自らを納得させる。

 ごめんねと心の中で謝りつつ、定期券の表側に印字された文字列を確認する。幸い、このバス会社の定期券は区間名が明示されているタイプだ。

 区間の片側はもちろん学園前のバス停で、真昼さんが降りる場所は、どうやらこの路線の終点のようだった。

 終点と言っても私の最寄り駅から五、六駅くらいだから、それほど時間が掛かることもないだろう。

 学校帰りに寄り道することなんて今まであまりなかったけど、たまには悪くないなと思う。しかも、こんな見目麗しい連れ添いがいればなおさらだ。

 バスは市街地をひたすら突き進んでいく。

 見慣れたバスの車内と、見慣れない外の景色。

 学校方面のルートは比較的商業施設なども立ち並んでいるが、反対側方面はやや寂れた印象がある。良くも悪くも昔ながらの住宅街という感じだ。

 大型の商業施設なんかはほぼ見かけられず、代わりに個人経営の店舗が散在している。散髪屋、自転車屋、たい焼き屋、ピアノ塾……なんとなく懐かしさを覚える風景。

 自分の家から少し離れただけで、見えてくる景色は全然違っていた。逆に言うと、今までの行動範囲があまりにも狭すぎたということでもある。

 バス停を一つ過ぎ、二つ過ぎ、三つ過ぎ……。

 カウントダウンは着実にゼロへと近づいていく。

 そしてとうとう、機械的なアナウンスが最後の駅名を口にした。既に乗客はまばらだった。

 文字通り、夢みたいな時間の終わり。

「ん……」

 肩の上で、再びもぞもぞと頭がうごめく感触。

 降りるべき駅が近づくと何故か目覚めてしまう、人間特有の不思議な習性だなあと、変なところで感心してしまった。

 私は彼女に努めて優しい声を掛ける。

「真昼さん、起きて」

「んー……」

 まだ夢心地といった声音と共に、ずっと閉じられていた瞼がゆっくりと開かれる。

 焦点の定まらない瞳が次第に目の前の私を捉え、それから何度かぱちくりと目をしばたたかせた。

「えっと……みつはさん……?」

「うん、そうだよ」

 彼女に名前を覚えてもらえていたことが嬉しくて、つい口元が緩んでしまった。

「ん、んー……?」

 真昼さんはまだ寝ぼけているようで、今の状況を把握するのに少し手間取っている様子だった。

 やがて決まり悪そうに視線を逸らしながら、小声で謝罪の言葉を口にした。

「ごめんなさい……ずっと寄りかかって居眠りしてしまってたのね」

「あ、ううん、気にしないで。真昼さん疲れてたみたいだし」

「え、ええ、そうね……」

 色白な頬にさっと赤みが増す。自分の無防備な姿を同級生に見られたのは、やはりちょっと気恥ずかしいのだろう。

 教室での物憂げな印象とは正反対で、彼女の素の姿を垣間見られたような気がした。

 他の乗客たちは既に皆バスを降りていて、車内に残っているのは私たちだけだった。

 あまり長居していては迷惑になるから、早めに降りた方がいいだろう。

「取りあえず降りようか、真昼さん」

「ええ」

 私たちはお揃いの学生鞄を抱え、降車口で定期券をかざしてバスを飛び降りる。地に足を着けた瞬間、忘れかけていた熱気が空と地面の両方から襲い掛かってきた。

 さて、バスを降りたはいいものの、私はこの辺りの地理に全く明るくない。せっかく足を伸ばしたのだから、どこかしらに立ち寄ってから家に帰りたいものだが。

「あの……そう言えば」

 真昼さんが恐る恐るといった様子で口を開いた。

「うん、なに?」

「えっと……みつはさんって、ここの近くに住んでるんだったかしら……? 登校するときは、途中の駅から乗っていた記憶があるのだけど……」

「う、うーん、あー、それはなんていうかほら、最寄りのバス停はここじゃないんだけど、たまには別のところで降りて寄り道したくなるっていうか」

 我ながらごまかすのがあまりにも下手すぎた。適当に昔の知り合いの家に行くとかでっちあげておけば良かったのに、あからさまに嘘と分かるような言い訳しか出てこなかった。

 当然、こんな態度では私が事実を言ってないことなどバレバレだった。心の奥底を見透かすような黒々とした瞳でじっと見つめてくる。

「ひょっとして……私を起こさないようにしてくれて、それで?」

「あー、う、うー」

 目を泳がせまくって必死に別の言い訳を考えるが、今更なにを言っても説得力がなさそうだったので、仕方なく認めることにした。

「ま、まあ、端的に言うとそんな感じ……かな。ああでも全然大したことじゃないし、ほんと気にしないで」

「そう……」

 気にしていないと言ったのは本心だったが、真昼さんはまだ何か気にかかるような表情を浮かべていた。

 ううむ、どうしようか……。

 このまま別れたとしたとしても、なんとなくお互いの心にもやもやしたものが残りそうだし。

 せっかくこうしてお喋りできたのだから、できれば気持ち良くさよならをしたかった。

 真夏の熱気がじりじりと私の体を焼く。

 少々気まずい沈黙。バスは既にどこか別の場所へと移動してしまっていて、奇妙な静けさが辺りを包む。

 とにかく何か違う話題を……と思っていた矢先、真昼さんの方から不意に質問を投げかけてきた。

「みつはさん……今から少し、時間ある?」

「え? う、うん、特に用事はないけど」

「甘いもの、苦手だったりしない?」

「大丈夫、むしろ大好物だよ」

「そう、分かったわ」

 真昼さんはなにやら得心がいった様子だったが、私は全然事情が掴めなかった。どういう意図の質問だったのだろう。

 そんな心の内を見透かすように真昼さんは話を続ける。

「あの、みつはさんが良ければ、なんだけど」

「うん、なに?」

 聞き返すと、さらさらの長い髪を指先でいじりながら、やや言いづらそうに切り出した。

「お礼、っていうのも変かもしれないけど……今ちょうど、家に作り置きのお菓子があるから、良かったら、うちで少し休んでいかない?」

 その言葉の意味を解するのに時間が掛かった。

 まさか真昼さんがそんなことを口にするとは思っていなくて、心の準備が出来ていなかったというのもある。

 真昼さんの手作りお菓子。真昼さんの謎めいた私生活。

 実に興味深いけど、たかが肩を貸したぐらいでちょっと大げさな気もする。

「も、もちろんお誘いはすっごく嬉しいんだけど……そこまでしてもらわなくても大丈夫っていうか」

「私がそうしたいの。……それじゃ、だめ?」

 そう言って、横目でおねだりするように見つめてくる真昼さん。ぐああ、そんな表情されたら絶対断れない。私は即答した。

「分かった、じゃあお言葉に甘えて、お邪魔するね」

「……良かった。それなら、うちまで案内するわ」

「うん、お願い」

 真昼さんはバス停の屋根から一歩外に出ようとして、そこでくるりとこちらを振り返った。

「みつはさん、日傘持ってる?」

「ううん、持ってない」

 私は首を横に振った。

 世の中の女子高生がどのくらいの割合で日傘を持ち歩いているのか知らないけど、少なくともうちの学園で日傘を差している生徒はあまり見かけなかった。真昼さんはその数少ない例外だったようだ。

 彼女は鞄の中から黒っぽい日傘を取り出し、バス停の屋根に継ぎ足すように広げた。黒地に白で花と猫が刺繍してあるもので、どちらかというと可愛い寄りのデザインだった。パスケースといい、小物はおしゃれなものより可愛らしいものの方が好きなのかもしれない。

「日向を歩くと暑いし、肌も焼けてしまうから……どう?」

 と言って、真昼さんは日傘の中に入るよう促してくる。私は慌てて首を振った。

「い、いやいや! 私いつも日傘差さないし、このままで平気だよ」

「でも……せっかく綺麗な肌なのに、日焼けで荒れてしまっては勿体ないわ」

「き、綺麗……?」

 な、なにを言ってるんだこの人は。どう見ても真昼さんの滑らかな肌の方が美しいに決まっている。

「……まあ、みつはさんがいいのなら別にいいのだけれど」

 真昼さんは目を伏せながら呟くように言う。

 少し迷ったが、多分好意的に言ってくれているのだろうと都合良く解釈することにした。

「それじゃあ、隣に入れてもらってもいい?」

「ええ、もちろん」

 真昼さんは表情を変えないまま頷く。相変わらず感情を読みとるのは難しい。

 私は彼女の左隣にさっと体を滑り込ませ、日傘が作ってくれた陰に体をうずめる。

 隣に立つとやっぱり、ふんわりと甘い花のような香りが漂ってくる。内に秘められた母性を感じさせるような、とても心が安らぐ香りだった。

 真昼さんがエスコートするように歩き出したので、私も続いて離れないようについていく。

 気を利かせてくれているのか、私に陽射しが差し込まないように気持ち肩を寄せてきている。

 さっきは彼女が眠っていたからまだましだったけど、今は僅かに腕や肩が触れ合うだけで体がぴくりと反応してしまった。

 そもそもこれって、俗に言う相合い傘ってやつだよね……。

 なるべく意識しないようにしていたけど、一度気にしてしまうとその邪念を振り払うのはなかなか難しかった。

 日傘のお陰で体感温度はかなり低く感じられたが、夏のむっとする湿気は肌にまとわりついて離れようとしない。

 真昼さんも首筋や額にうっすらと汗をかいていた。

 美人というのは、汗が滲んでいる姿すら映えて見えるのでずるいなと思う。

 見れば見るほど、その目映い美貌に取り憑かれてしまいそうになる。いや、もう取り憑かれているんだろうか。

 バス停から真昼さんの家まではものの五分程度だったと思うけど、その五分間は、今までの人生で一番密度の濃い時間だったかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る