第2話

 赤い塗装が色あせ、ほとんどピンクになった車両は国鉄時代から現役らしい。

 向かい合ったロマンスシートも、ベルベットの座席がすり切れていた。

 窓は上下に開けるようになっているし、天井には回転する扇風機が設置され、テープで封印されているとはいえ灰皿まで付いていた。


「ええと、ここか」


 座席を確認し、本当に網になっている網棚に荷物を置く。

 指定された座席は通路側だったが、二人がけの座席は発車間際になっても自分だけだ。遠慮無く窓側に腰を下ろす。

 発車のベルと駅員の笛の音が響くと、ガクンと一瞬だけ揺れた後はスムーズに列車は走り出した。

 景色が流れ出し、僕はこの街を後にする。二度と来ることはあるまい。


 数駅が過ぎたところで、僕は不意に声を掛けられた。


「あのう……」


 キャスター付きのトランクを引きずった、上品な服装の女性が通路に立っていた。

 年の頃は僕と同じくらいで、少しだけ疲れたような表情をしている。

 手には指定席の切符。僕はすぐに気付いた。


「ああ、これはすいません。どうぞ」


 通路に立ち、女性を窓際に座らせる。本来は彼女の席だ。

 列車は滞りなくいくつかの駅に停まると、空席はほとんどが埋まっていた。

 しばらくすると堪えようのない眠気が襲ってくる。

 僕は飲んでいたお茶のペットボトルに蓋をすると、腕を組んで両目を閉じた。


「……うそつき」


「……?」


 ◇ ◇ ◇


 不意に目を覚ますと、窓の外はまるでオレンジジュースを流したような、見事な夕焼けに彩られていた。

 遠くの赤白に塗られた煙突からは、休み無く煙が流れている。

 煙というのは正確ではない。

 現代の工場は汚染物質を極力排出しないよう、脱硫装置やバグフィルタが取り付けられている。

 あの煙はほとんどが水蒸気で、温度が下がれば消えていくのだ。

 にもかかわらず大気中の汚染物質の濃度は年々上昇を続けている。

 発展著しい大陸から偏西風に乗って、煤煙が日本列島まで届いているのだ。


 この数年間、夕焼けを眺める余裕など無かった。

 思わず見とれていると、隣の女性が袖口で目もとを拭うのが見えた。

 思わず写真に残したくなるような光景だったが、泣くほどだろうかと思っていたのは少し呑気すぎただろうか。


 彼女は鼻水をすすりだし、やがて膝の間に顔を埋めて震えだした。

 かみ殺すような嗚咽が漏れる。


「あ、あの……だ、大丈夫ですか?」


 愚問だった。大丈夫かと聞かれれば、人は大丈夫だと答えるものだ。

 しかし、言葉は喉に戻らない。

 僕はハンカチを探したが、そう都合良く持っているものでもない。

 いや、本来は持っているべきなのだろう。

 正直を言えば、手を洗っても作業服の裾で拭く事がほとんどだった。

 あまり自慢できる事ではない。

 網棚のカバンからポケットティッシュを取り出すと、見られないほど顔をぐしゃぐしゃにした女性に差し出す。


「す……ずみまぜん……」


 彼女はズババーッ! と豪快に鼻をかむと、ティッシュを窓枠に備え付けられたテーブルに置いた。

 二度。三度。これはどう考えても綺麗な景色に感動した、という次元ではないだろう。

 放っておいてもよいが、この列車はあと数時間は走り続ける。

 寝たふりを続けるのも限界があるだろう……。


「あのう……これ、どうぞ」


 乗車前に買っておいた缶コーヒーを差し出す。

 大量のミルクと練乳で甘く味付けされた缶コーヒーだ。


「いえいえ、そんな! 悪いですよ」


「構いませんよ。貰い物で、少々持て余していたんです」


 嘘だったが、そう言うと彼女は缶コーヒーを受け取り、タブに爪を掛けた。


「うう……甘ぁい」


「でしょう? だから困っていたんです」


 彼女はやっと笑った。

 このコーヒーはローカル商品で、僕の地元では売っていない。せめてもの記念に、と買った物だ。


 やがて彼女は深く溜息をつくと、缶を弄びながら訥々と語り始めた。


 ◇ ◇ ◇


 よくある話だ。

 彼女は恋人との出会いと、幸せだった日々と、その終わりを支離滅裂と言っても差し支えない順序で話していく。


「俺にはお前だけだ、って言ってたのに」


「はぁ」


 内心では、そりゃ他に女がいる男のセリフだよと思っていたが、黙っていた。


「奥さんと別れて、あたしと一緒になってくれるって。そう言ったのに」


「はぁ」


 内心では、そりゃ別れないよと思っていたが、黙っていた。


「たまにぶたれたけど、けっこう優しい所もあったのよ」


「はぁ」


 内心では、そりゃ別れて正解だよと思っていたが、黙っていた。


「彼氏と一緒に行ったの」


 彼女はポケットからスマートフォン――果物マークの一番売れているやつ――を取り出すと、メモリーから写真をロードした。

 都会にある、アメリカ発祥の世界的なテーマパーク。そこの人気キャラに抱きつく彼女の姿が浮かび上がる。二枚。三枚。


「……?」


 彼女と肩を組む男の姿に、見覚えがあった。

 人懐っこい笑顔と、スマートなファッション。

 僕が着ても不格好なだけだろうが、そんな事はどうでもいい。

 その男は、僕の高校時代の同級生によく似ていた。


「あれっ?」


「えっ?」


「いや、何でもない」


 彼――ユウキは当時からよくモテたし、僕の知る限り女が途切れた事はない。

 就職組の僕とは違い、地元の大学に進学したはずだが、その後の事は知らなかった。

 確か、全国展開している有名企業に入ったとかなんとか。


 一切何の連絡も無かったというのは、多少思うところが無いではない。が、僕としても不安定な身分であり、合わす顔が無かっただろう。

 彼女は「奥さんと別れて」と言った。つまり、彼はもう結婚していた事になる。


 あるいは、単純に他人のそら似という事も考えられた。

 だってそうだろう。この大都会には五百万人もの人が住んでいる。

 似た雰囲気の人などいくらでもいるはずだ。


 どちらの可能性もあり得たが、僕としては後者だと思いたかった。

 僕には昔も今も恋人なんて居なかったし、結婚なんて夢のまた夢だ。


 僕の隣で彼の事を話す彼女は、とりわけ美人というほどではないが、愛嬌のある顔をしていた。

 いわゆる『合コンでモテるタイプ』だろう。

 とびきりの美人と違って、自信不足の男に「コイツくらいなら俺でも何とかなる」と思わせるような、そんな雰囲気だ。

 夏向けの白いワンピースドレスに、ストラップサンダルも清楚っぽくてお洒落だった。

 それに、どことなく初恋の人に雰囲気が似ていた。


 夕暮れの図書室。カウンターで静かにページをめくる、その人の姿を不意に思い出す。最後に会ってから、もう何年になるだろうか。


「これはね、二人で旅行に行った時に――」


「はぁ」


 彼女は話を続けたが、相変わらず時系列はメチャクチャだったし、いかに自分が尽くしてきたかを聞いているうちに、だんだん頭が痛くなってきた。

 僕はいい加減疲れてきたが、彼女もやはり疲れてきているようだった。

 だんだんと口数が少なくなっていく。


「あたし……これから……彼の……」


「彼の……?」


 彼女は喋り疲れたのか、いつの間にか寝息を立てていた。

 どことなく不穏な予感がしないでもない。

 しかし、この時の僕はそこまで頭が回らなかった。

 伏せられた長い睫に、光るものが一筋。

 僕にはどうしようもない。傷ついた心を癒やすのは、時間だけだ。

 気が付けばとっくに日は落ちており、列車は漆黒の闇の中を北へ、北へと進んでいた。

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